大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

広島高等裁判所 昭和37年(う)225号 判決 1965年8月30日

本籍 山口県熊毛郡平生町大字平生町第五六四番地の二

住居 大阪市此花区春日出町上四丁目一五番地

貨物自動車運転手 阿藤周平

大正一五年一二月一〇日生

本籍 山口県熊毛郡田布施町大字麻郷第二七番地

住居 神戸市兵庫区東出町二丁目四三番地 新光荘内

労務者 稲田実

昭和二年一二月六日生

本籍竝びに住居 山口県熊毛郡平生町大字平生町第四二〇番地

船員 松崎孝義

昭和四年一一月三日生

本籍 山口県熊毛郡平生町大字平生町第一九〇番地の二

住居 広島市山根町一、〇四五番地 高木武夫方

労務者 久永隆一

昭和三年一二月一三日生

右の者らに対する強盗殺人被告事件につき昭和二七年六月二日山口地方裁判所岩国支部が言い渡した判決に対し、被告人ら竝びに被告人稲田実・同松崎孝義・同久永隆一につき検察官からそれぞれ適法な控訴の申立があり、左記経過により当裁判所は第三次控訴審として次のとおり判決する。

(第一審後の裁判経過)

(1) 昭和二八年九月一八日広島高等裁判所一次控訴審判決―被告人四名につき有罪認定。

(2) 昭和三二年一〇月一五日最高裁判所一次上告審判決―一次控訴審判決を破棄、広島高等裁判所に差戻。

(3) 昭和三四年九月二三日広島高等裁判所二次控訴審判決―被告人全員無罪。

(4) 昭和三七年五月一九日最高裁判所二次上告審判決―二次控訴審判決を破棄、広島高等裁判所に差戻。

主文

第一審判決中被告人四名に関する部分を破棄する。

被告人阿藤周平を死刑に処する。

被告人稲田実を懲役十五年に処する。

被告人松崎孝義・同久永隆一を懲役十二年に各処する。

理由

本件各控訴の趣意は記録中の弁護人丸茂忍・同三浦強一・同弘田達三連名作成名義の控訴趣意書(但し、論旨第三量刑不当の点は二次控訴審一回公判で撤回につき、この点を除く。)竝びに検事土井義明作成名義の控訴趣意書に各記載のとおりであるから、ここにこれらを引用する。なお、別紙(一)ないし(八)の一次上告審に対する被告人及び弁護人らの各上告趣意竝びに二次控訴審及び当審弁護人らの各弁論中、右弁護人丸茂忍外二名の控訴趣意を補充するものについても合わせて判断する。

(略語例等)

この判決で、(1)単に吉岡とは吉岡晃を指す。被告人らについても概ね姓だけを示す。(2)月日だけを示すのは昭和二六年のそれ、日だけを示すのは同年一月のそれを指す。(3)阿藤警一回とは阿藤の司法警察員に対する第一回供述調書、阿藤検二回とは阿藤の検察官に対する第二回供述調書を指す。その他これにならう。(4)原審とは第一審を、原判決または原判示とはいずれも第一審のそれを指す。(5)所の表示として、平生町とは山口県熊毛郡平生町を、人島とは同町大字堅ヶ浜字人島を、田布呂木とは同町大字宇佐木字田布路木を、麻郷とは同郡田布施町大字麻郷(当時同郡麻郷村大字麻郷)を、八海とは同町大字麻郷字八海(当時同郡麻郷村大字麻郷字八海)を指す。(6)各種調書中の供述記載をも便宜上単に供述と表示したものがある。(7)供述等引用の「……」中の文言は必ずしも原文どおりでなく、その趣旨を変更しないで要旨を引用したものもある。

第一弁護人丸茂忍・同三浦強一・同弘田達三の控訴趣意及び別紙(一)ないし(八)の被告人及び弁護人らの各論旨中右控訴趣意を補充するものについて。

各所論を総合要約すれば、

一、原判決引用の被告人らの司法警察員に対する供述調書に記載の各供述及び吉岡の原審公判廷での供述は、その他に列挙の各証拠と矛盾するばかりでなく、右各供述相互の間にも矛盾があり、原判決の理由では、原判示強盗殺人の罪と被告人らとの関係が理解できない。すなわち、原判決には理由不備ないし理由齟齬の違法がある。

二、原判示強盗殺人は吉岡の単独犯行であるにかかわらず、原判決がこれを吉岡と被告人らとの共同犯行と認めたことは事実誤認である。

三、原判決引用の被告人らの司法警察員に対する各供述調書に記載の自白は、いずれも強制・拷問・欺罔等によるもので、任意にされたものでないことが明白である。したがって、これらを事実認定の資料に供した原判決には訴訟手続に関する法令の違背がある、

というにある。

そこでまず前記一の論旨について検討するに、原判決では当時の相被告人吉岡の原審公判廷での供述(同人の司法警察員に対する供述調書は被告人らの関係では証拠として引用されていない。)及び被告人らの警察での自白調書のほか多数の証拠書類・証拠物等を掲げ、これらを総合して被告人らにつき本件犯罪を認定したが、被告人らの右自白調書に記載の供述内容には、一次上告審判決指摘のとおり、本件の共謀竝びにこれが実行に際しての各自の行動や状況等について吉岡供述と異なるものがあり、しかも各人各様であるばかりでなく、同一人の供述でありながらその都度異なるものもあって、容易に真偽を捕捉することができない。その他に挙示の各証拠をもってしても、被告人らのアリバイの主張立証とを比較して総合判断すると、被告人らを本件強盗殺人罪の共犯者であると認めた原判決の判断には十分納得できないものがある。もっとも、本件が弁護人ら所論のように吉岡の単独犯行であるのか、あるいはまた吉岡と被告人らとの共同犯行であるのかは、一次控訴審後の多数の証拠をも仔細に検討した上でないと俄かに断じ得ないが、すくなくとも原判決の引用挙示する限度の証拠によっては、同判決摘示の被告人らに関する犯罪事実を認定するのに十分でないものといわなければならない。したがって、原判決には理由不備の違法があり、既にこの点で破棄を免れない。論旨は理由がある。

よって、検察官の控訴趣意(量刑不当)に対する判断を省略して刑事訴訟法第三九七条一項・第三七八条四号に従い原判決中被告人らに関する部分を破棄し、同法第四〇〇条但書により、弁護人らの爾余の論旨殊にその中心である本件を吉岡の単独犯行であるとする論旨に答えながら、直ちに判決する。

以下判断の順序は次のとおりである。

第二当裁判所の判断

一  被告人らの経歴とその相互間及び吉岡との交友関係。

二  本件犯行に関する謀議について。

三  被告人らのアリバイと犯行時刻等について。

四  犯行現場の状況と物的証拠について。

五  いわゆる新証言の信用性等について。

六  その他本件の証拠となるべき阿藤の言行等について。

七  吉岡供述の変遷とその信用性とについて。

八  結び。

第三当裁判所の事実認定とこれに対する証拠及び法律の適用。

第二当裁判所の判断。

一、被告人らの経歴とその相互間及び吉岡との交友関係。

被告人らは肩書本籍地の高等小学校を卒業し、第二次大戦中徴用工などとして軍需工場に勤務(阿藤のみは後に志願兵として大竹海兵団に入団)しているうち終戦を迎えて帰郷し、人夫・土工などをして働いていたが、同じ仕事場でよく顔を合わせることから互に親密となり、日頃阿藤を中心として寄り集まり、夜分には酒を飲み交わしたり、近くの娘のいる家などに何時も一緒に出入りする仲であった。その頃八海に住んでいた吉岡と阿藤とは終戦後三田尻の塩田で一緒に働いたり、清力用蔵の請負った八海の用水池の工事で一緒に働いたことなどから最も親密な間柄となり、吉岡は阿藤を兄貴分として同人方に出入りし、昭和二五年中には前後三回に亘り吉岡単独で他家で盗みを働きその賍品を阿藤と共に処分して二人の飲食の資に供したり、また昭和二六年一月一五日平生町で阿藤及び他の被告人らに出会い麻郷の中殿アイ子方に夜遊にでかけた際にも、阿藤の意を受けて友田弥市方外一箇所で現金や自転車を盗み、これによって同夜阿藤と二人で柳井市の遊郭に登楼(その際阿藤は稲田と偽名)するなど不良交友を続け、さらに久永・松崎とは阿藤を通じ、稲田とは近隣に居住している関係でつき合いをしている間柄であった。(一審一〇回公判調書中阿藤供述五冊九八二丁裏以下・阿藤警一回四冊七七七丁以下・阿藤上告趣意書七冊一七七八丁裏以下・一七八〇丁以下・阿藤当審二六回公判供述七八冊七二四〇丁以下・阿藤当審三三回公判供述八六冊九八八四丁以下・一審一〇回公判調書中稲田供述五冊九九二丁裏以下・稲田警一回四冊八四六丁以下・一審一〇回公判調書中松崎供述五冊九七二丁裏以下・九七三丁裏・松崎上告趣意書七冊一八三四丁以下・松崎警一回四冊八一三丁以下・一審一〇回公判調書中久永供述五冊九八九丁裏以下・九九〇丁・久永警一回四冊八八〇丁以下・一審五回公判調書中被告人吉岡供述二冊四六〇丁以下・二次控訴審一三回公判調書中証人吉岡供述一七冊五六五九丁以下・同審一五回公判調書中同証人供述一八冊六二七一丁以下・同審一六回公判調書中同証人供述一九冊六五三二丁以下・当審一二回公判同証人供述六七冊三六五一丁以下・当審一三回公判同証人供述六八冊三七一七丁以下・当審一六回公判同証人供述七〇冊四六六六丁以下・四五九四丁以下。)

二、本件犯行に関する謀議について。

(一) 一月一九日の平生町橋柳旅館での謀議竝びに同月二二日吉岡が阿藤から同町三木停留所で右謀議に基く犯行を決行するよう促された事実について。

吉岡は本件は一月一九日の平生町橋柳旅館での謀議に基くものである旨供述するので、先ずこの点について検討する。これに関する一審以来の同人の公判廷での供述を要約すると次のとおりである。

自分は一月一八日夜阿藤方で夜おそくまで話したので人島の同人方に泊った。翌一九日朝近所の加藤テル子が阿藤方にきて三田尻から阿藤の女木下六子が友達の柳井三枝子と一緒にきていることを告げて帰った。阿藤は「自分の家では具合が悪い。」と言って加藤方へでかけた。その際自分に「家族が反対するから、宿屋に泊めなければならないが、金がないからこれで一、〇〇〇円借りてきてくれ。」と言って背広上衣を渡した。自分はそれを持って平生町内の質屋などを歩き回ったが、阿藤のいう程の金を貸してくれるところがなかった。途中一緒になった松崎と二人で帰って、阿藤にそのことを告げた。阿藤は「先に橋柳旅館へ行っているから。」と女二人を連れてでかけた。自分と松崎とは人島の阿藤方にきていた稲田・久永を誘い四人で橋柳旅館へ行った。それは午後まだ明かるい時分であった。橋柳に着いてから、自分が柳井三枝子に頼まれてみかんなどを買いに行って、二階中六畳間の女達がいる部屋に戻ってみると阿藤がいないので「阿藤は。」ときくと、確か木下であったと思うが「周ちゃん(阿藤のこと)隣の部屋にいる。」と言った。それで隣の三畳間に行くと、稲田が洋服と久永の時計とを持って金策にでかけるところで阿藤と何か話していた。久永もその部屋にいたと思う。松崎は自分がその部屋に行ってから女達の部屋の方からきたように思う。とにかくそこに集った際阿藤が「せっぱつまったけえ、なんとかせんにゃあならん。」と言い出したことから、「麻郷の清力か岡本はどうか。」「清力は力が強いし、犬もいる。岡本には犬がいるし家族が多いのでだめだ。」「この間金を送ってきたし、ひろちゃん(八海の早川惣兵衛方の息子の意)方ならよかろう。」というようなことをお互いに小声で話し合っているとき、女が襖をあけたので皆ぱっと立って女達のいる部屋の方に引きあげた。そのうち稲田が金を作ってきた。自分が阿藤の手から金を受取って焼酎一升と天ぷらなどの肴を買ってきた。旅館から借りた茶碗で皆で話し合いながら飲みだしたのが夕刻である。ほろっとした酔加減の時分阿藤が肩を叩いて自分を廊下に呼び出し「早川にきめるから、皆に言うておけ。俺が言うと具合が悪い。」と言った。多分阿藤が他の者を廊下に呼んでいたのでは、女に気づかれる心配があったんじゃないかと思う。それで自分に皆に伝えるよう言ったものと思う。自分は直ぐじゃ具合が悪いので一旦部屋に戻り、ちょっと間をおいてから、稲田・松崎・久永を一人一人間をおいて廊下に呼び出し「阿藤が早川にするからと言ったから、そのつもりでおれ。」と伝えた。その後元の部屋に戻って焼酎を食んだ。焼酎も大部分飲み終る頃樋口が麻郷の女二人を連れて橋柳旅館に来た。自分はそれから間もなく橋柳から帰った。帰るとき阿藤から「判っておるのう。あさって出てこいよ。」と言われたが、二一日は家の仕事の手伝いなどして外出しなかった。同日夕刻稲田が呼びにきたが居留守をつかって自分は出なかった。二二日柳井へでかけるため平生町三木停留所でバスを待合わせていた際、仕事にでかける途中の阿藤に出会い、同人から光本時計店の横に連行されて「一九日に橋柳旅館で話したことをやろう」と強く要求されたというにある(一審五回公判調書中被告人吉岡供述二冊四六五丁以下・同審一〇回公判調書中同人供述五冊九九八丁以下・((以下証人としての吉岡供述))二次控訴審一三回公判調書中一七冊五六六二丁裏以下・五七四八丁以下・同審一四回公判調書中一七冊六一〇一丁以下・六一一四丁以下・同審一五回公判調書中一八冊六三八七丁以下・同審一六回公判調書中一九冊六六六三丁以下・同審一七回公判調書中一九冊六七三三丁以下・同審一八回公判調書中二〇冊七一〇七丁以下・七一二三丁以下・同審四二回公判調書中三三冊一二八四七丁以下・同審五六回公判調書中四一冊一六〇六六丁以下・一六一四五丁以下・当審一二回公判六七冊三六二〇丁以下・三六三八丁以下・当審一三回公判六八冊三七三一丁裏以下・当審一六回公判七〇冊四五九七丁以下・四六二六丁裏以下・四六四九丁裏以下・四六六九丁裏以下。)。

被告人らはいずれも吉岡のいう右橋柳旅館での謀議を否定する。しかしながら、右吉岡供述は一審三回公判調書中の一月二二日平生町三木停留所付近で阿藤が吉岡にした話の内容に関しての吉岡の問に対する証人樋口豊の「馬車の箱をひっくりかやしたので何んとかせんにゃあならんが、一九日の晩に決めたのをやろう、と言ったのは聞きました。」との供述記載(二冊三八〇丁裏。その記載と供述とが共に信用すべきものであることは後記説示のとおり。)によって既に裏付けられるのみならず、さらにこれに、

(1) 一月一九日朝阿藤は当時三田尻に居住していた恋仲の木下六子(当時二十年)から突然押しかけられ母の反対を慮って同棲場所に困ったあげく、取りあえず旅館に落つくことにして同日午後木下を平生町の橋柳旅館に連れて行く一方、吉岡に背広ダブル洋服上衣を渡し、同人に言いつけて宿泊費や木下を仲間の稲田・松崎・久永に紹介かたがた同人ら及び吉岡に(吉岡と木下とは以前からの知り合いであった。当審一六回公判証人吉岡供述七〇冊四五九丁裏)酒肴を供するための金策に走らせたが、容易にその金を調達することができなかった。やがて松崎・久永らと共に橋柳旅館にやってきた稲田が今度は右洋服の上下と久永の腕時計とを持って出かけ、これらを入質してようやく得た金で、またも吉岡が阿藤の言いつけで焼酎一升と天ぷらなどの肴とを買いに行き、同日夕刻頃から被告人ら及び吉岡の五人が木下と柳井三枝子(三田尻から木下についてきた同女の友人。)とを交え橋柳旅館二階で飲酒した事実(既にこれらの状況からしても阿藤はじめ被告人らが当時金銭に窮していたことが窺われる。)、並びに右飲酒中稲田・松崎・久永が一人一人吉岡から廊下に呼び出された事実(証第二一六号の吉本徳一質店質物台帳の記載・一審一〇回公判調書中阿藤供述五冊九七四丁以下・同人上申書六冊一二五九丁以下・同人上告趣意書七冊一七八四丁以下・稲田上申書六冊一二八四丁裏以下・同人上告趣意書七冊一五九二丁以下・一審一〇回公判調書中同人供述五冊九五八丁以下・一審一〇回公判調書中松崎供述五冊九五六丁以下・二次控訴審四四回公判調書中松崎供述三四冊一三四九〇丁裏以下・同人上申書六冊一二九六丁裏以下・一審一〇回公判調書中久永供述五冊九八五丁以下・二次控訴審六四回公判調書中証人木下六子供述四六冊一八二〇四丁以下。)

(2) 前記のように稲田が質入れにでかける前、木下六子・柳井三枝子が買ってきてもらったみかんを食べている間に、同女らのいる部屋の隣室に被告人ら及び吉岡の五人が集って何事かを密かに話し合った事実(二次控訴審六四回公判調書中証人木下六子供述四六冊一八一六五丁裏以下・同審六五回公判調書中同証人供述四七冊一八五四三丁以下・当審八回公判同証人供述六四冊二二七〇丁裏以下・の外前掲(1)の各証拠。)

(3) 一月一五日夕刻頃被告人らと吉岡とが麻郷村助政部落の中殿アイ子方へ遊びに行く途中、吉岡が鳥越部落の城理髪店前付近で酔余の悪戯から道路端においてあった馬車の枠を外し積んである土を道路上に落とした。後にそのことが発覚して、翌一六日夜吉岡が謝罪のため阿藤・稲田と連れ立って馬車の持ち主である麻郷村の磯部某方を訪れたが、容易に許してくれそうにない気配であった。仲に立った同村の地家英夫と主として阿藤との話し合いの結果吉岡が謝り酒を買うことで手を打つことになったが、吉岡は金を持ち合わせていなかったため、地家英夫の顔で磯部方隣家の福田商店から焼酎・清酒各一升とするめとを買い(代金合計八百円)、これを磯部に提供して謝罪し、同人らと共に阿藤・稲田も加わって飲酒した。右の代金は阿藤が吉岡から取り立て二〇日迄に地家英夫方へ持参して支払う約束であった(阿藤当審二六回公判供述七八冊七一八三丁以下・阿藤上告趣意書七冊一七八一丁以下・稲田上告趣意書七冊一五九一丁以下・当審一二回公判証人吉岡供述六七冊三五九七丁裏以下・三六五〇丁裏以下・当審一六回公判同証人供述七〇冊四五九四丁以下・四六二五丁以下・二次控訴審一六回公判調書中同証人供述一九冊六六一三丁裏以下・六六三九丁以下・同一七回公判調書中同証人供述一九冊六七二八丁以下・一審五回公判調書中被告人吉岡供述二冊四六四丁以下・吉岡上申書六冊一一一四丁以下・二次控訴審二一回公判調書中証人地家英夫供述二二冊七八七六丁以下・同二七回公判調書中証人地家英夫供述二五冊九〇三三丁以下。)。一月一八日夜吉岡は阿藤方に泊っていた際、阿藤から謝り酒代金の支払を促されて他家で真田約五〇反を盗み人島の阿藤方に持帰り、それを換金して謝り酒代金の支払に充当してくれるよう阿藤に依頼した。しかるに、阿藤は後日右真田を換金して五〇〇円(阿藤は当審二六回公判で六〇〇円ともいう七八冊七一八八丁)を入手しながら、これを吉岡には無断で一九日から二一日迄の間平生町橋柳旅館でした宿泊飲食費等に費消して謝り酒代金の支払に充当しなかったため、同月二四日朝人島の自宅に地家英夫が催促にやってきた際困惑して箪笥の陰にかくれて姿を現わさなかった。丁度その場に来合わせていた稲田が謝り酒を一緒に飲んだ関係もあって、阿藤に代り地家に応待して「実は二〇日に勘定を貰うことになっていたが、二五日になったので、それ迄待ってくれ。二五日に支払わなかったら、自分らを叩こうとどうしようと好きなようにしてくれ。絶対間違いない。」などと断言し、阿藤には相談もせず地家に対し翌二五日には必ず支払う旨の固い約束をし、そのことを直ぐ阿藤にも告げた(二次控訴審二一回公判調書中証人地家英夫供述二二冊七八八七丁以下・同審二七回公判調書中同証人供述二五冊九〇三三丁以下・同審四〇回公判調書中証人阿藤小房供述。但し同供述中地家が阿藤方にきたのは二四日ではないとの点及び地家は二四日以前以後に亘り三回位阿藤方を訪ねたとの点は右地家の供述に照らし信用できない。三二冊一二一九四丁裏・同審四四回公判調書中証人阿藤サカヱ供述三四冊一三四一〇丁裏以下・同審三七回公判調書中証人木下六子供述三〇冊一一六〇〇丁裏以下・同審六四回公判調書中同証人供述四六冊一八一三一丁裏以下・当審八回公判同証人供述六四冊二二七六丁以下・同供述中日について言い違いをしていることは同丁以下の記載により明らかである。二次控訴審一七回公判調書中証人吉岡供述一九冊六七三一丁裏以下・当審一二回公判同証人供述六七冊三六〇一丁以下・三六二〇丁・当審二六回阿藤供述七八冊七一八五丁以下・七二四四丁以下・七二四九丁裏以下・当審二七回公判稲田供述七九冊七四〇二丁以下、但し阿藤・稲田の右当審供述中以上の認定に反する点を除く。)しかし、以上の事実関係からすれば、阿藤は地家に対する関係では謝り酒代金の支払につき全責任があり、しかも吉岡から預った真田代金を既に同人には無断で費消していたため、吉岡に全額を請求することもできない立場にあり(このことは阿藤が当審二六回公判で自認するところである。七八冊七二五三丁以下)さればといって、阿藤・稲田には後記(4)の当時の収入状態から容易にその支払ができるあてがあったわけではなかった。もっとも、稲田のいう「二〇日に貰うことになっていた勘定」とは、記録によれば被告人らが徳山燃料廠跡で徳本組下請のドラム缶積に従事した際の賃金を指すものと考えられるが、稲田が地家に断言した程二五日に確実にその支払を受けられるかは必ずしも判然としたものではなく(稲田上申書六冊一二八五丁一〇行目以下)、しかも阿藤・稲田がその賃金で真に地家に対する支払いに充てようと考えていたものとは認められない。このことは、阿藤の当審二六回公判での「吉岡が金を持ってこなかったら延ばしてもらう考えでいた。」)七八冊七二五三丁裏)、「地家に二五日に延期を頼んだが、支払いのめどはなかった。」(七八冊七三七五丁以下)旨の各供述竝びに二七日に阿藤・稲田両名共右賃金の支払いを受けながら地家に支払わなかったため、本件により検挙された後の三月二五日頃阿藤の母小房がその支払いをしたこと(二次控訴審四〇回公判調書中証人阿藤小房供述三二冊一二二〇六丁裏以下・当審二六回公判阿藤供述七八冊七一八六丁以下)からして明らかである。それにもかかわらず、稲田が前記のように地家に支払いの確約をしたのは、当時既に右賃金以外に二五日迄に何等かの手段によって金銭を取得できる目安があったため、地家との面談に際し、阿藤の苦衷を察して同人には相談もせず独断で、これによる金銭をその支払いに充てようと一時的にも考えたものと認められる事実、

(4) 阿藤はじめ被告人らが一月一九日当時金銭に窮していたことは前記(1)の前段の状況から既に窺われるところであるが、阿藤の当審二六回公判供述によれば、同人の生活状況は「当時よく出て月二〇日か一五日位で一日二〇〇なんぼ位だったと思う。三〇〇円にはならなかったと思う。母が内職して、自分が働いた金を入れていたが暮らしは非常に苦しかった」(七八冊七三五五丁以下)うえに、その月には「正月であるため、そう仕事をしていなかった。」(七八冊七二七九丁裏)というにあり、且つ徳山市大野合同運輸工業株式会社労務者名簿中徳本班ドラム缶積付人夫面着簿の記載(証第一〇二号)・吉岡徳一質店質物台帳の記載(証第二一六号)・稲田上申書(六冊一二八五丁一〇行目以下)・当審二七回公判松崎供述(七九冊七五六六丁裏・七五九五丁裏以下。)・当審二六回公判阿藤供述(七八冊七二七九丁以下)その他記録を通じてみれば、昭和二六年に入り一月一九日迄阿藤・稲田は一月一一日・一五日の両日、久永・松崎は同月一五日の一日だけ徳山市徳本組下請のドラム缶積人夫として就労した際の賃金以外には現金収入の目安がなく、右賃金とても未払であったことなどから、被告人らはいずれも当時金銭に窮していたことが明らかである。阿藤・松崎・久永は当審公判でも田布呂木の中野末広から受取るべき賃金があったよう供述するが、二次控訴審二〇回公判証人中野末広の供述(二一冊七四七五丁以下)によれば、果してそのような賃金があったかどうかについて疑いがあるのみならず、仮にそれがあったとしても、阿藤の当審二六回公判供述によれば「前年の残が延び延びになっていた」(七八冊七二九丁)ものであるうえに、「中野はその支払いのときには何時も逃げる。」(七八冊七二八〇丁)というにあっては、何時支払いを受けられるとも見通しのつかないものであった。以上の窮状に際し一九日朝突然木下六子に押しかけられて、やむなく自宅と同じ町内の旅館に宿をとらなければならない破目に立到った阿藤の当時の苦衷は十分推察されるところである。この機に及び「阿藤が、せっぱつまったけえなんとかせんにゃあならん、と言った。」との吉岡供述はその際の状況に照らし真実を物語るものであり、且つ前記一の交友関係からして吉岡はじめ金銭に窮していた稲田・松崎・久永が容易に右阿藤の発言に同調できる機運にあったと認められる事実、

(5) 一次控訴審証人中山宇一尋問調書中「昭和二五年三、四月頃早川惣兵衛方に妹がハワイからきて同年一〇月に帰ったが、その妹が金をおいていったとの噂はあった。」旨の供述(六冊一一九五丁以下)、

(6) 二次控訴審五三回公判証人樋口豊の「一月二二日昼頃自分が岩井・阿藤・久永・稲田と田布呂木から田名へ行く途中吉岡に出会った。吉岡は先に橋の上の方にいたが、阿藤と時計店裏横の自分から二米位離れた場所で小声で話し合った。その内容はところどころ判った。阿藤が吉岡に対し『この前決めたあの廊下で話したことをやれ。お前一人じゃなしに、おれらもおるんじゃ。』と言った」旨の供述(三九冊一五三四一丁以下)、

(7) 同証人の「一月二〇日橋柳旅館で阿藤・久永・稲田・松崎に出会った際、当時働くところがなかったことから、皆がどうかして金もうけをせなきゃあいけんというような話ぶりであった。吉岡君と話したことや何かやらにゃあいけんという話を聞いた。翌二一日も橋柳旅館で阿藤・久永・稲田・松崎が集まった際にも、吉岡君が来ん、早う来ゃあええが、どうして来んのじゃろうか、というような話であった(三九冊一五四〇一丁以下)。吉岡君が来てから詳しい話を決めるというような話であった(同冊一五四〇四丁裏)。二〇日も二一日も吉岡は橋柳に来なかった。それで吉岡を捜して連れてくるという話であった(同冊一五四〇五丁以下)。吉岡は一九日の晩に阿藤君が話をして、それきり来るというのが来なかった(同冊一五四〇七丁裏以下)。二一日には結局二四日に阿藤の家に集まるか、それともあの近所の橋に集まって様子をみて稲田君やら吉岡君なんかの近所の家に行くという話であった。時間は一〇時から一一時半頃適当の時間に出るようにとのことであった(同冊一五四一二丁以下)。なるべく強盗は罪が重いからやらんという約束は約束じゃった。二二日に三木停留所で吉岡と出会った際阿藤が吉岡に話した内容は大体どういうことを意味しているかすぐ自分には判った(同冊一五四一七丁裏以下)」旨の各供述、

を合わせ考察し、且つこれを前掲吉岡供述に照らして検討すれば、その供述は一層信用すべきものであることが明らかであり、一月一九日夕刻頃から夜分にかけ平生町橋柳旅館で、阿藤が「せっぱつまったけえなんとかせんにゃあならん。」と言い出したことから、被告人らと吉岡との間に八海の早川惣兵衛方に押入り金銭を奪取することの謀議が行われたこと竝びに一月二二日昼過頃吉岡が同町三木停留所でバスを待合わせ中たまたま出会った阿藤から右謀議に基く犯行を決行するよう強く促されたことを認めないわけにはゆかない。

そこで以上の認定に反する主張等について判断するに、

(1) 前掲引用の一審三回公判調書中証人樋口豊の供述記載に関し、同人はその後検察官に対し「自分が先に証言した際の調書中に吉岡の質問に対し、一九日の晩にきめたのをやろう、と供述したよう記載されているのは調書の間違いであるから訂正して欲しい。自分は吉岡の質問に対しそのような答をしたことがない。先日事件の書物で調書にそのようになっていることを読み、原田弁護士へ手紙を出した。」旨訴え(昭和三三年一月一三日付樋口豊検二七冊一〇三〇一丁以下・一〇三〇四丁裏以下)、また二次控訴審二九回公判で証人として出廷した際にも「岩国の公判で自分は吉岡から質問を受けたことは全然ない。公判調書に自分が吉岡の質問に対し、一九日の晩きめたのをやろうと言ったのはきいた、と答えたように記載されていることは後日“裁判官”という八海事件の本を読んで知ったことである。それで直ぐ原田先生の方へ手紙を出した。その手紙の内容は原田香留夫著“真実”一五二頁以下に掲載のとおりである。その内容文字とも誰にも相談せず自分で書いたものである。」旨供述した(二次控訴審二九回公判調書中証人樋口豊供述二六冊九四八三丁以下)。しかるに、同証人は右公判廷で“真実”一五二頁以下に掲載の手紙の部分を示されて、それを検察官はじめ裁判官・弁護人から再三再四朗読するよう求められたのに、「どもって苦しくなるから。」とか「目が悪い。」とか言を左右にしてついに朗読しなかったにもかかわらず、その後の二次控訴審三八回公判では前掲手紙を朗読し、且つ「前に読まなかったのは、久永らとの関係をきかれ、就職に影響するので腹が立ったからである。」と弁解したが(二次控訴審三八回公判調書中証人樋口豊供述三一冊一一七八九丁裏以下)、同控訴審五三回公判で「一月二二日阿藤らと一緒に田名へ行く途中三木停留所で吉岡と出会った際時計店の横道路上で阿藤が吉岡に対し、この前きめたあの廊下で話したことをやれ、お前一人じゃなしに俺らもおるんじゃ、と話したのをきいた。岩国で公判の当時は友達としての人情からことさら嘘をのべた。三木停留所のことは何時も咎めていたので覚えている。自分が岩国で調書にある『一九日の晩に橋柳旅館できめたことをやろう』と答えた点について吉岡から質問を受けたことは忘れていない。真実に掲載の手紙は、阿藤の母から、あんたは岩国でああいうことを言うちゃいけんじゃないか、こういうように言わにゃあいけんじゃないかと言われ、こういう手紙を出してやってくれ、と頼まれた。自分はその内容が判らないので一応断わったが、阿藤の母から、せわない、心配ない手紙書くだけならいいから、と執ように頼まれ、それじゃまあそうしようという気持になった。そのとき阿藤の母は便箋に書いたものを渡してくれた。自分はそのとおりをまねて原田弁護士に送った。頼まれればなかなかいやとは言えず、それに当時の考え方は浅はかで皆が可哀想だという気もあった。阿藤の母からそういうことを頼まれての帰りに松崎方によって、おばさんや嫁さんにそれを見せたら、そこでもこういう手紙ならいいから出してくれと言われた。次に久永方に行って久永の母に同様それをみせたら、出してもええと言われたので、家に帰って写した。これなら大丈夫ときけば、いやでも安心した。内容が出していいものか不安であったのでみせたのである。内容は先方が勝手に読んだ。自分はその外にも阿藤・松崎・久永の母らに頼まれて、書いてもらった原稿のまま書いたり、辞典をひいて原稿を少し直したり、また手紙の本で季節の挨拶をまねたりして、被告人らに手紙や葉書を出したこともあった。われわれが口を割りさえしなければ、それと皆がそれをつっぱっていってくれれば帰れるという気持があった。」旨供述し(二次控訴審五三回公判調書中証人樋口豊供述三九冊一五三四一丁以下)、さらに同控訴審五八回公判で、先の三八回公判で前記の手紙を読んだ点に関し「前に公判で手紙を読んだのは阿藤の母らから、また読まされるかも判らんからけいこしておけ、と言われてけいこをしたからである。」旨供述するに至った(二次控訴審五八回公判調書中証人樋口豊供述四二冊一六三七一丁以下)。以上の供述経過に、樋口豊方から発見押収された原田香留夫著“真実”中の前記手紙部分の漢字につけられた振り仮名(そのつけ具合)から、樋口豊にはその全文を書くことは勿論、朗読する能力すらなかったものと判断されること(上記“真実”は二次控訴審五八回公判で取調べられて検察官からその写真を提出四二冊一六五一三丁以下。)及び同控訴審六二回公判証人前岡益治の一審三回公判調書中の前記樋口証言の記載についての「自分は丸茂弁護士から公判調書について違うと言われた記憶はない。それは自分が書記官として良心に従って作成したもので、その証言が問題になっても、自分の確信にゆるぎがない。また裁判長からもその記載について違うと言われたことはなかった。自分は吉岡が、三木停留所で出会ったとき人殺しの話をしたかどうか、と質問した記憶があり、しかもその際吉岡が多少興奮して突然そのような質問をした記憶がある。これに対する樋口の答は今記憶にないが、自分は聞いたとおりに書いたと思う。自分はいつも相当詳しく調書をとる方針にしている。」との供述記載(二次控訴審六二回公判調書中証人前岡益治供述四四冊一七二三〇丁裏以下)を合わせ考えると、前掲当審引用の一審三回公判調書中の証人樋口豊の供述記載とその供述内容とは共に信用すべきものであり、二次控訴審五三回公判以降の樋口証人の供述どおり、同人がそれ以前検察官に対し、あるいは同控訴審二九回公判でした「一審三回公判調書中の前掲証言部分の記載は間違いである」との供述は、阿藤の母小房らに唆かされてした虚偽のもので、全く信用できないものであることが明白である。

二次控訴審判決は前記一審三回公判調書の記載の正確性について判断を示し、「吉岡の他の供述に照し、同人が人殺しの話をしたかどうかとの質問を発することは唐突奇抜で不可解であり、これに対する樋口豊の答弁も同人の証言全体の趣旨に矛盾を感ずること、当時の弁護人丸茂忍が証人として自分は、吉岡がこの間のをやろうじゃないか、と言ったのをきかなかったか、と質問したのに対し、樋口がこの前のを片つけにゃいけんのう、と言ったのはきいた、と答えたと思うが正確な記憶はない。後日公判調書の記載が自分の記憶と相違していたことなどから民間の速記士を雇い公判廷での質問応答を速記させるようにした等の証言をしたこと、一審八回以降の公判について速記録が作成されている(証第一五八号の一ないし四)事実から丸茂弁護人が一審公判調書の記載の正確性に関しいだいていた不信の程度が凡そ推測できること、吉岡と樋口との間に前記のような質疑応答がなされたものであれば、弁護人が当然証人に対し反対尋問をするであろうことが予想されるのに、その記載がないこと」等を理由として、前掲一審三回公判調書中の記載については疑いを持たざるを得ないものとしている。しかし、本件は強盗殺人罪に関するもので、前記前岡証人の供述によって認められるその際の吉岡の興奮状態からして、同人が右謀議に関して質問を発するにつき突如「人殺しの話をしたかどうか。」との言葉を用いたとしても必ずしも異とするに足りないのみならず、その前段階で既に丸茂弁護人から「その時泥棒をやったり、殺人をやるという話があったか。」との質問がなされている経過からみても(一審三回公判調書中二冊三七五丁裏七行目)、右吉岡の発問は決して唐突奇抜なものとは考えられず、何ら不可解とするに足りない。また証人樋口豊の二次控訴審五三回公判での前掲証言のほか、その後の当審に至るまでの各供述を通じて認められる同人の当時の心境からすれば、前記吉岡の質問に対する「一九日の晩にきめたのをやろうと言ったのはきいた。」との同証人の応答は、被告人らを庇いながらも吉岡の質問につられてつい不用意に自己の隠し持つ真実を露呈したものとみるべきである。さらに、証人丸茂忍の二次控訴審五四回公判での「自分は吉岡と樋口の問答を酒代の精算の意味にとったが、これは自分の感じであるので調書について異議もいっていない。これは自分が間違えているかもしれないので速記の許可を願ったものである。調書が違うんだとは自分はいっていない。」旨(二次控訴審五四回公判調書中四〇冊一五六四八丁裏以下・一五六五三丁)及び当審九回公判での「速記はそのことでいれたのではない。」旨(六五冊二五三三丁)の各供述に照らせば、丸茂弁護人が一審公判調書の正確性に関しいだいていた不信の程度が二次控訴審判決のいう程のものであったとは到底考えられない。なお、吉岡と樋口との間に前記のような質問応答がなされたものであれば、弁護人も当然証人に対して反対尋問をするであろうことが予想されるのに、その旨の記載がないことも不可解である、とする二次控訴審判決の判断も亦理解できない。訴訟関係人の間で裁判所の予期する適切な反対尋問が行われないことのあることは、決して稀有なことではなく、そのような記載がないからといって不可解とするには及ばない。その他二次控訴審判決が右調書の正確性を否定する理由として掲げるところは、樋口証人の供述態度やその供述の全趣旨を酌むことなく、供述の末節にとらわれた結果とみられるのみならず、前記物証(“真実”中の振り仮名のつけてある手紙)をも否定するもので、納得することができない。

(2) 阿藤は一月二二日平生町三木停留所で吉岡に出会った際同人に対し前記(3)の謝り酒代金の支払を督促したに止まる旨主張する。しかし、このことに関し一審一〇回公判では「謝り酒代金の残り(真田を五〇〇円で売った残金)があるのできつい請求をした。」(五冊九七七丁裏以下)、検察官に対しては「吉岡は謝り酒代金八〇〇円を一月二〇日迄に自分に支払うことになっていたにもかかわらず、支払わないので同人に厳重督促をした。」(阿藤検三回四九冊一九二〇〇丁裏)、二次控訴審四一回公判では「吉岡に酒代の支払をずいぶんきついこといって催促した。」(三二冊一二五〇三丁)旨各供述し、上申書には「吉岡は一九日に来たのみでいっこう酒代を払おうとせず困っていたところ出会ったので、少し酒に酔っていたため自然に声もいくらか高くなり強く催促した。」(六冊一二六一丁裏)、上告趣意書には「吉岡は酒代の期限が過ぎているのに、それを支払おうともしなかったから、支払を強く催促したに過ぎなかったのが、この時の事実である。」(七冊一七二七丁裏以下)旨各記載し、さらに当審二六回公判では、裁判長または裁判官の問に対し「吉岡に真田代金の不足分を請求した。」(七八冊七一八九丁裏・七二五四丁・同丁裏)、「(吉岡が金を持って来なかったらどうするつもりであったか、との問に対し)支払期日を延ばしてもらう考えでいた。」(七八冊七二五三丁裏・七二五五丁裏)旨供述しながら、弁護人の問に対しては「吉岡にまだ金にならんという、あんな真田が悪かったわけです。あれは悪いから金にならんというふうに言った。」(七八冊七三一九丁裏)、「いや売れないいうんじゃないんです。三木停留所ではいくら売れたかという金額を言ってないわけです。」(七八冊七三二〇丁)、「金額は言わず、酒代を持って来いと言った。」(七八冊七二〇丁裏)、「(すでに使い込んでるんだから、ちょっとでも余計吉岡に一つ持ってこさそうという気持があったんじゃないか、との問に対し)多分それはあったと思います。金額を言っておりませんから。」(七八冊七三二一丁裏)等の旨供述し、謝り酒代金につきその全額を請求したというのか、不足分を請求したというのかさえ明らかでなく、殊に当審二六回公判での供述の如きはしどろもどろで一体何を言おうとしているのかよく判らない。阿藤は吉岡から謝り酒代金の支払いに充てるため預っていた真田の換価金(それが五〇〇円であったか、六〇〇円であったかは判然しないが((当審二六回公判阿藤供述七八冊七一八八丁))、いずれにしても謝り酒代金八〇〇円((二次控訴審二一回公判証人地家英夫供述二二冊七八八一丁裏。阿藤は当審二六回公判七八冊七一八三丁裏で大体九〇〇円から一、〇〇〇円位というが、該供述は同人検三回四九冊一九二〇〇丁裏・磯部登警六九冊四三一二丁裏・地家英夫警四三冊一六七四一丁の各記載に照らし信用できない。))の大半に相当。)を吉岡には無断で当時既に費消していた関係から(阿藤は当審で初めてこのことを認めた。当審二六回公判阿藤供述七八冊七二四三丁裏以下)、吉岡に対し謝り酒代金の全額を請求し得べき筋合でなかったことは勿論、仮に不足分を請求するにしても、これに自己の費消分を補填してその全額を地家に支払える能力がなかったことからすれば(前記(4)参照。)本気で、しかも「きつく」あるいは「厳重に」督促し得る筋合でもなかったといわなければならない。阿藤は右自己の費消分につき「働いた賃金があるので、母にもいうてその方から出してもらう」考えであったようにも供述するが(当審二六回公判七八冊七二五五丁二行目以下)、前記(4)の状況からその見込があったものとは認められないのみならず(殊に当時まだ支払期日が二五日迄延期されてもいなかった。前掲(3)参照。)右供述は、その前後にまたがる「吉岡が金を持って来なかったらどうするつもりであったか。」等の問に対する阿藤の「支払期日を延ばしてもらう考えでいた。」旨の供述(七八冊七二五三丁裏・七二五五丁裏)及び同人の上告趣意補充申立書中「一月二七日自分は徳山市で働いた勘定九八〇円を受取った。これは一月一八日が勘定日だったのが遅れていたものである。自分は一月はこの勘定を受けた以外には一銭の収入もなく、また支払ったこともなく、この勘定とても右から左へと焼石に水の如くであった。勘定のうちから五〇〇円を母親に渡し、夕食に代用食としてパンとバターで一五〇円を支払った。その金も翌二八日内妻の親元に二人で行った時には途中の汽車賃・バス賃等に費消し僅か五〇円が残っていただけであった。」旨の記載(七冊二二三八丁以下。同補充申立書は二次控訴審三三回公判で刑訴法第三二八条書面として証拠調済。)に徴しても信用できない。一方吉岡としては前記真田約五〇反を八〇〇円ないし一、〇〇〇円相当のものと値踏みし、これを阿藤に手渡したことにより一応謝り酒代金の支払に関する自己の責任を免れ得たものと考えていたことが認められ(証人吉岡供述二次控訴審八回公判調書中一四冊四七七六丁裏以下・同審一六回公判調書中一九冊六六五〇丁以下・六六五九丁裏・六七〇二丁以下・同審一七回公判調書中一九冊六七三一丁裏以下・六八〇三丁・六八一一丁以下当審一二回公判六七冊三六〇二丁以下・三六三一丁以下・当審一三回公判六八冊三七二七丁以下。この点に関する吉岡供述は、二次控訴審四〇回公判証人阿藤小房の「吉岡が持ってきた真田は一反二〇円位のものか。」三二冊一二一九五丁裏以下、「吉岡は馬車の金に払うつもりで持ってきたんでしょう。五〇反もあったらその金は払えると思ったんでしょう。」三二冊一二二〇〇丁裏末行以下との各供述によっても肯認される。)、阿藤がいうように吉岡が、一八日夜阿藤方に真田を持参した際「これでもし足らない場合には後からまた追加して持ってくる」と言ったり(当審二六回公判阿藤供述七八冊七一八七丁裏以下)、一九日橋柳旅館で阿藤から「これでは足らんから、もっとええ真田を持って来い。」と言われて「持って来るような返事」をする(同供述七八冊七一九〇丁裏以下)筈はなく、また一月二二日三木停留所で阿藤に出合った際、真田が換金されたことさえも知らされず、このことについて聞きただしもせずに(当審二六回公判阿藤供述七八冊七一九〇丁裏・七三二〇丁・二次控訴審一七回公判調書中証人吉岡供述一九冊六八一二丁・同審一八回公判調書中同証人供述二〇冊七一一一丁裏以下・当審一二回公判同証人供述六七冊三六二九丁以下)、阿藤の言い成りに「金ができなかったら、まだ真田を今晩持ってくるから待っとってくれ。」などと答える(当審二六回公判阿藤供述七八冊七一八九丁)筈もなかったもので、それらは凡て阿藤の虚言としか認められない。あまつさえ「自分が使い込んでいたので、吉岡にちょっとでも余計持って来さそうという気持もあった。」(吉岡から絞れるだけ絞ろうとの意とも解される。)というに至っては理不尽も甚しいというのほかはない。さらに、謝り酒代金の支払についての話しだけなら、何もわざわざ吉岡を光本時計店横付近まで連行する必要もなかったものとも考えられる(一審五回公判調書中被告人吉岡供述二冊四六九丁・二次控訴審一七回公判調書中証人吉岡供述一九冊六八〇七丁以下・当審一二回公判同証人供述六七冊三六二六丁。これに反する趣旨の阿藤供述は岩井武雄検二回四九冊一九二一一丁以下「一月二二日三木停留所で吉岡に出会った際阿藤が『ちょっとこい』と吉岡を光本時計店横に連行した。」旨の供述記載に照らすも信用できない。)。以上の認定のほか阿藤の供述(殊に当審二六回公判供述)・上申書その他の記載を通じて考究すれば、一月二二日三木停留所で阿藤が吉岡に向い謝り酒代金の支払に関する話をしたとしても、それはただ表面だけのことで、これに関連せしめて一九日に橋柳旅館でした謀議の決行を促すためのものであったと認めざるを得ない。因に、その際久永も吉岡に向い謝り酒代金の支払について「期限が切れるから早くせいと言った」というが(一審一〇回公判調書中久永供述五冊九八五丁)、その支払につき何等関係のない久永がそのような発言をしたというのは納得できない。仮にもしその際久永が阿藤の尻馬に乗って発言したものとすれば前段の認定に照らし、久永も「橋柳旅館で話したろうげ。あれをやろうで。」等の趣旨のことを言った、との吉岡供述の方が寧しろ真実であるとみなければならない(二次控訴審一七回公判調書中証人吉岡供述一九冊六八〇八丁裏・同審一八回公判調書中同証人供述二〇冊七一一四丁・当審一二回公判同証人供述六七冊三六二七丁裏・当審一六回公判同証人供述七〇冊四六六七丁裏以下。)。殊に当審一六回公判でのこの点に関する久永がした反対尋問に際しての両者の問答の結果から吉岡供述の方が真実であるとの心証を得た。なお、その際吉岡が「久永らはその際よく飲んでいた」と述べたのに対し、久永は「自分は飲んでいない。」旨主張したが(七〇冊四六六八丁裏一一行目・四六六九丁一〇行目)、同人は二次控訴審四七回公判で原田弁護人の尋問に対し「三木停留所で吉岡がバスに乗ったのはよく覚えている。その時自分も酔うていて自分も吉岡に何か言うたようにもあるし、言わんようにもあるしよく判らない。」旨供述している(三六冊一四二一三丁裏)。

(3) 一月一九日の橋柳旅館での状況に関し、先ず阿藤は上告趣意書中に、吉岡が本件の謀議を始めたという同旅館二階三畳(一審五回公判調書中被告人吉岡供述二冊四六六丁裏・二次控訴審一三回公判調書中証人吉岡供述一七冊五七六五丁以下・同審検証調書添付一四図((一五冊五一八二丁))同審一六回公判調書中同証人供述一九冊六六六八丁以下・当審一二回公判同証人供述六七冊三六四〇丁裏以下。)には当時赤間清が間借りして居住していた関係上、被告人らがその部屋を使用できなかったもののよう記述するが、「当時橋柳旅館の奥の部屋にペンキ屋が泊っていたほかには誰も泊っていなかった」こと(二次控訴審二九回公判調書中証人樋口豊供述二六冊九四五二丁裏以下)及び「被告人らが主におった部屋は広い部屋で、話をするときには小さい方の部屋から出たり入ったりした。それは最初の日だけでなく二〇日・二一日も同様であった」との状況(当審八回公判証人木下六子供述六四冊二三四〇丁以下)が認められ、且つ赤間清の検察官に対する供述調書中「自分は二五年暮頃家出して一〇日か一五日位の間橋柳二階の三畳位の部屋に間借りしていたが、自分がいる間に阿藤らが橋柳の二階にきて食事をしたり泊ったりしたことはない。」旨の供述記載(三五冊一三八〇六丁裏以下)、弘埜昌代の検察官に対する「赤間清が二五年暮から一〇日間位橋柳旅館二階三畳間にいたが、一月一九日にはもういなかった。阿藤らはその三畳とその奥の六畳とを使用した。」旨の供述記載(三五冊一三八一七丁以下)に照らすも阿藤の前記上告趣意書の記載は信用できない。同人は当審二六回公判で「橋柳旅館で借りたのは一部屋だけであるが、勝手に他の部屋を使ったようにも思う。」旨供述するに至った(七八冊七一九一丁裏以下)。次に稲田は橋柳旅館で吉岡から廊下に呼び出され「おやじや兄にここにきて酒を飲んだことを話してくれるな、と言われた。」旨供述し(一審一〇回公判調書中稲田供述五冊九五八丁・同人上申書六冊一二八五丁・当審二七回公判同人供述七九冊七四七四丁)、松崎は同様廊下に呼出された際吉岡から「荷馬車に悪戯したときに買った謝り酒代金を二〇日には必ず支払うから心配するな、と言われた。」旨供述する(松崎供述一審一〇回公判調書中五冊九五七丁裏・二次控訴審四四回公判調書中三四冊一三五〇一丁・当審二七回公判七九冊七五七三丁裏以下・同人上申書六冊一二五七丁)。しかし、その際吉岡の言ったことが稲田のいうとおりの内容であるとすれば、なにもわざわざ同人を廊下に呼び出してまで吉岡がそのようなことを依頼するとは考えられず、さらに松崎は右謝り酒代金の支払いにつき何ら関係ないことが前掲(3)の認定から明らかであり、これまた吉岡が松崎をわざわざ廊下に呼び出してまでそのようなことを話す必要があったものとは考えられない。久永はその際吉岡から廊下に出るよう呼びかけられたことさえも否定するが(当審一六回公判での吉岡に対する久永の質問七〇冊四六六九丁裏以下)、二次控訴審四四回公判での松崎供述(三四冊一三五〇三丁裏)によれば、久永もまた稲田・松崎と同様その際吉岡から廊下に出るよう呼びかけられたことが認められ、且つ同審六四回公判証人木下六子の供述(四六冊一八二〇四丁以下)によれば、久永は右呼出しに応じ廊下に出て吉岡と話し合った事実が認められる。

(4) 阿藤・稲田が約束の一月二五日には勿論、同月二七日徳本組から賃金を受取りながらも地家に対し前記謝り酒代金を支払わなかったことに関し、阿藤は「一月二六日夜楽団を見に行った際劇場で馬車の持主に出会ったので、同人に仕事の銭をもらったら払うから待ってくれるよう頼んだら、先方も自分の話をきいてくれて『それでは待つから。』と話がまとまった。それで自分はいくらか安心して楽団を見て帰った。」旨(阿藤上申書六冊一二六六丁裏以下)、稲田は「一月二六日平生座で馬車の持主に出会い『必ず酒代は払います。』と期限に払えなかったことをわびたら『できなければよい。できたときでよいから。』とのことであった。阿藤も大変安心したようであった。」とか(稲田上申書六冊一二八九丁以下)、「一月二六日平生座で地家に出会った際約束の二五日に支払できなかったことをあやまろうと思っていたら、先方から『酒代のことはどうでもいい。払わんでもいいから悪いことだけはしてくれなよ。』と言われた。その時阿藤がおったかどうかは記憶にない。」旨(当審二七回公判稲田供述七九冊七五〇丁以下)各弁解するが、右各上申書の記載及び供述を彼此対照してみると、その間に相違があって直ちに納得できないのみならず、馬車主は謝り酒代金の支払について何等関係がなく、また地家は一月二六日夜平生座へ行った事実がないことから(二次控訴審二一回公判証人地家英夫供述二二冊七九一〇丁裏以下)以上の弁解はいずれも採用できない。

(二) 一月二〇日及び翌二一日の橋柳旅館での謀議について。

証人樋口豊の二次控訴審五三回・五八回・六〇回・当審七回各公判を通じての供述によれば、一月二〇日及び翌二一日にも被告人らは橋柳旅館二階に寄り集まり木下六子・柳井三枝子がいる部屋の隣室で仕事仲間の樋口豊の居合わせた席上八海の早川惣兵衛方に押入って金銭を奪取することの話合いが進められ、且つその話合いの内容は「決行の日を二四日頃とし、夜一〇時から一一時半頃迄に阿藤方か同人方近くの橋に集まる。強盗は罪が重いからなるべくやらないが、家人に見つかったら、しようがないから、とことんまでやる。」との趣旨のものであったことが認められる(三九冊一五三三七丁以下・四二冊一六二六八丁以下・四三冊一六七八六丁以下・六四冊二一一六丁以下。)。そしてこれらの事実は、一月二〇日には午前あるいは午後から夜一〇時頃迄の間、翌二一日には午前中から夜八時頃迄の間(同夜八時半頃阿藤は「旅館に何時までもいては銭がかかるばかりだから」との母からの伝言で橋柳旅館から人島の自宅に引あげた。)稲田・松崎・久永が相前後して阿藤のいる橋柳旅館二階に寄り集まり、樋口豊もこれに同席した事実(阿藤上申書六冊一二六〇丁以下・一審一〇回公判調書中阿藤供述五冊九五九丁・九七六丁以下・当審二六回公判阿藤供述七八冊七三三一丁裏・稲田上申書六冊一二八五丁以下・松崎上申書六冊一二九七丁裏以下・二次控訴審四四回公判調書中松崎供述三四冊一三五〇四丁以下・当審二七回公判松崎供述七九冊七五七五丁。)、右両日にも木下六子・柳井三枝子のいる部屋の隣室の小部屋で被告人らが寄り集まって何事か密かに話合った事実(当審八回公判証人木下六子供述六四冊二三四〇丁以下)、一月二八日夜樋口豊が久永方で同人が警察から呼出を受けていることを知って自分にも同様呼出がきているかも知れないと心配して帰宅をためらっていた際、警察の呼出に応じて出頭の途中久永方に立寄った阿藤が樋口に向い「お前にもきていないか。」「お前にはきちょるかもわからんのう。」と尋ねた事実(当審三三回公判松崎供述八六冊九九〇五丁裏以下・二次控訴審四四回公判調書中松崎供述三四冊一三五三三丁以下・同審二五回公判調書中証人樋口豊供述二四冊八六四八丁裏以下・同審二九回公判調書中同証人供述二六冊九四七八丁以下・九五三八丁以下・同審六〇回公判調書中同証人供述四三冊一六八一八丁以下)によっても裏付けられるところである。なお二次控訴審六〇回公判証人樋口豊の供述によれば、一月二八日夜久永方で松崎は、樋口に前記のように尋ねた際同人が「帰ってみなわからん。吉岡がひっぱられたから、どうせあのことでひっぱられるんじゃろうから、一人行くより、みんな帰ってから打合わせて行ったらよかろう。絶対言わんように。おれもいい具合に言ってやる。」と答えたのに対し「そこはたのむ。」と言い、また久永の母が「樋口さんがいうように、みんなが帰ってからよう話して行った方がいい。」「吉岡が口を割ったんじゃないか。」と言ったのに対し「そんなことはなかろう。」と答えたりした事実が認められる(四三冊一六八一八丁以下)。松崎は当審三三回公判で「自分は吉岡が馬車をひっくりかえした件や一五日と一九日同人と一緒にいたことなどから証人として警察から呼出を受けたものと考えていた。一月二八日夜久永方で樋口にも呼出がきていないかを尋ねたのは、同人も吉岡を知っている関係からである。」旨等弁解するが(八六冊九九〇五丁裏以下)、松崎は吉岡と樋口とはそれまで余り関係のない間柄であることを知っており(八六冊九九一三丁)、且つ前記認定によって明らかなように右馬車の件は樋口には何等関係ないことをも知っていたことからしても、右弁解は納得できない。

(三) 一月二三日夜吉岡が阿藤から前記謀議に基く犯行を決行するための集合日時等の連絡を受けたことについて。

この点に関する原審以来の吉岡の公判廷での供述は概ね次のとおりである。

一月二三日には地家がきたのち、稲田が自分方にきて「阿藤が用事があるから行け。」と言って帰ったので、自分は直ぐ阿藤方へ出かけた。途中阿藤方近くの土手のところで阿藤・松崎・久永の三人が酒に酔い歌をうたいながら阿藤方から八海橋の方へ向いて出てきたのに出会った。その際阿藤が「明晩やるから懐中電灯と手袋を持ってこい。」と言い、自分が「何時頃や。」ときくと、阿藤が「一〇時か一一時頃こい。」と言った。なお、その際阿藤は、自分を除け者にして、他の者らと「やったあとは火をつける。」とか「埋める。」とか話し合っていた。自分はそれから帰って寝た。どこへ出てこいと言われたか記憶にないが、八海橋にくるように言われたようにも思うが、その点はっきりしない。いつも阿藤方に集るので阿藤方に行けばよいと思っていたことだけは記憶にある。右阿藤に会った際稲田がいたかどうかは判っきりしない、というにある(一審五回公判調書中被告人吉岡供述二冊四六九丁裏以下・一審一〇回公判調書中同人供述五冊九九八丁裏以下・一次控訴審昭和二八年八月八日公判調書中同人供述六冊一三八六丁以下・公判証人吉岡供述二次控訴審二回一二冊三七一四丁以下・同審一五回一八冊六三七五丁裏・六三九一丁以下・同審一七回一九冊六八八七丁裏以下・同審一八回二〇冊七一一三丁・七一二三丁裏以下・七一三〇丁・七一九三丁裏・同審六一回四四冊一七一二九丁裏以下各公判調書中。当審証人供述一二回六七冊三六一一丁裏以下・一三回六八冊三七五三丁・一四回六八冊三八五二丁以下・一六回七〇冊四六二八丁以下。)。

被告人らは、二三日夜阿藤方付近で吉岡がいうように同人に出会ったことがない旨主張し、同夜の行動に関し、

阿藤は、検察官に対し「二三日の午後八時頃から自分方で寝た。その夜は誰も自分方に遊びにきた者はない。」(阿藤検三回四九冊一九二〇〇丁裏)、一次控訴審裁判長宛上申書中で「二三日夜は雪も少し降っていた。寒いので早く寝ようとすると稲田が遊びにきた。」(阿藤上申書六冊一二六二丁裏)、二次控訴審四一回公判で「二三日は午後から田名に仕事に出かけて四時か四時半頃久永方へ帰り、それから稲田と二人で久永方を出て帰宅した。その日は父の一七回忌に当る日で法事のため夜は外出しなかった。夕食を済ました頃かに稲田がきた。それは稲田に吉岡に対し酒代を何とかしてくれと伝言を頼んであったからである。その際稲田から吉岡が払うようなことを言ったようきいた記憶もあるがはっきりしない。その夜は小雪もちらつき寒かったので早く寝た。絶対に稲田のほか誰も訪ねてきたものはなかった。」(二次控訴審四一回公判調書中阿藤供述三二冊一二五〇四丁裏以下)、当審二六回公判で「二三日暗くなった頃地家が自分方に訪ねてきた。その時自分と稲田とが別々に地家に会ったと思う。」(七八冊七一八五丁以下・七二四四丁以下)「二三日夜は稲田に、吉岡に対し自分方にくるよう伝言を頼んだ。稲田がきて、吉岡が後からくる、とのことであった。自分はそのとき父の法事であるし、吉岡もくるとのことであったので外出しなかった。当時ひどく貧乏していたので法事どころでなかった。」(七八冊七一九四丁以下)、「二三日夜地家がきたのは夕方である。その日地家と稲田のどちらが先に自分方にきたか判らない。」(七八冊七二四五丁以下)、「自分方に地家がきた際同人と稲田とが会ったことは妹から後にきいたことである。自分が地家と会った際には稲田はいなかった。」(七八冊七二四九丁裏以下)旨各供述し、

稲田は、検察官に対し「二三日午前八時頃松崎・阿藤・久永・樋口・岩井と田布路木へ砂利取りに行ったが、水が冷たかったので田名へ行かせてくれと中野に頼んだ。それから平生に行き朝鮮人の秋山方で酒を飲んだり昼食を食べたりしたのち、田名へ行ったが、中野が籠を持ってきてくれなかったので、砂利を取ることができないで火にあたっていた。午後五時頃皆で久永方へ帰ってから阿藤が一杯飲もうと言って酒一升と牛肉を買ってきたので、皆で阿藤方へ行った。阿藤方からまた皆で福屋方へ行き酒を飲んで晩一一時頃帰宅した。」(稲田検三回四九冊一九二〇六丁裏以下)、一次控訴審裁判長宛上申書中で「二三日は仕事の帰り八海橋のところで阿藤と別れるとき、阿藤が、吉岡が家にいたら酒代の期間が過ぎているので貰ってきてくれ、とのことであった。それで吉岡方へ行ったら同人が便所にはいっていて、今晩は必ず阿藤方へ行くから、とのことであったので自分はそれ以上何も言わず帰宅した。それから阿藤方へ行き直ぐ福屋へ行ったら松崎・上田がきていた。一〇時過ぎ頃まで話をしてから、松崎と別れて帰った。」(稲田上申書六冊一二八六丁以下)、当審二七回公判で「阿藤に言われてみれば、自分も阿藤方で地家に会ったかもしれないが、その日時は判らない。自分が酒代の件で吉岡方へ行ったのは、最初は二三日では次は二四日・二五日の三回だけである。二三日には仕事の帰りに吉岡方に寄った。その際吉岡は便所にはいっていた。外から阿藤方へ行くよう伝えたら、吉岡は直ぐ行くとのことであった。自分は夕食後七時前後頃阿藤方へ行ってみたが、吉岡はきていなかった。阿藤を福屋へ誘ったが、行かんとのことであったので自分だけ行った。福屋には松崎がきていた。福屋には一〇時か一〇時半頃までいた。」(七九冊七四〇二丁以下)旨各供述し、

松崎は、検察官に対し「二三日午後四時半か五時頃田名から帰宅してから、一人で八時頃福屋へ行っていると、間もなく稲田がきた。一一時頃帰った。」(松崎検三回四九冊一九二〇四丁裏)、一審裁判長宛上申書中で「二三日夕方から福屋へ遊びに行っていると、一〇分位して稲田がきて阿藤方へ行っておったと言った。一一時頃まで遊んで帰った。」(松崎上申書六冊一二九八丁以下)、当審二七回公判で「一月二三日福屋へ行ったとき上田がいた。のちに七時頃になって稲田がきた。」(七九冊七六一五丁)旨各供述し、

久永は、検察官に対し「一月二三日午後六時頃阿藤の母に頼まれてランプ油を持って行く途中、堅ヶ浜三角バス停留所で阿藤と稲田とに出会った。二人は麻郷へ行くと言っていたが、一〇時頃には帰るとのことであった。その夜は阿藤方へ行って泊った。翌朝七時頃自分は帰宅したが、その間阿藤は帰らなかった。」(久永検三回四九冊一九二〇二丁裏)、二次控訴審四七回公判で「二三日は仕事が済んでから岩井と自分の二人が田布路木の中野方へ行ったと思う。」(二次控訴審四七回公判調書中久永供述三六冊一四二一五丁以下)、当審二八回公判で「自分は二三日夜八時頃岩井と一緒に中野方に行き、帰ってから自宅で寝た。その日には三角バス停留所には行ったことがない。」(七九冊七六五七丁裏以下・七六四九丁以下)旨各供述している。

右のように二三日夜の行動に関する被告人らの供述または上申書の記載は、相互に必ずしも一致しないのみならず、同一人の供述でありながら異なるものもあり、殊に阿藤の当夜外出しなかった理由についての供述にはそれ自体矛盾があるなど、果してどこまでが真実であるのかよく判らない。なかんづく、阿藤は二三日に自分方に地家が訪ねてきた旨供述するが、それが二三日でないことは前記(一)に認定のとおりである。阿藤はまた二三日稲田を吉岡方に使いにやったのは、同人から謝り酒代を貰うためであったというが、阿藤が当時その支払について吉岡に前記のような性急な督促のできる筋合でなかったことも前記(一)に認定のとおりであって、この点に関する阿藤・稲田の各供述は共に信用できない。

しかるに、

(1) 二次控訴審四四回公判証人阿藤サカヱの「自分方に皆が集まって酒を飲んだのは二二日か二三日かどちらかはっきり覚えないが、一時間か二時間か飲んでから皆外へ出て行った。父の命日がその日の頃にあたり、皆が飲んでいるとき自分はその傍にいたが、兄周平が辛抱してから墓碑をきらなければいけない、と言ったと思う。その日は命日か何かで飲んだのか知りませんが、その日が何せ父親の何かじゃないかと思う。父の何回忌か知らんが、そういうふうなことであった。(特に阿藤の反対尋問に対し)皆で飲んだのは二三日と思います。今日まで、皆がきて飲んだのを覚えているから。」との供述(二次控訴審四四回公判調書中三四冊一三三八九丁以下・一三四四八丁裏六行目)、及び同証人の当審一一回公判での「すき焼をした当時父の命日が二三日であることは知っていた」旨(六六冊二九一九丁裏)、「二二日夜には木下もきていたことだし、阿藤は外へ出ていないと思う。」旨(六六冊二九四三丁裏)の各供述、

(2) 木下ムツ子の司法警察員に対する供述調書中「一月二三日夜阿藤が仕事から帰るとき久永・松崎・稲田・樋口の四人を連れて帰った。その時阿藤は焼酎一升を持ち帰り自分に一杯飲むからすき焼を作ってくれと言ったが、自分が七輪に火をおこし、妹が大根をついてすき焼の仕度をした。焼酎を飲み終ってから一緒に福屋の娘さんの処に遊びに行くと言って出て行った。」旨の供述記載(三冊五一五丁以下)、

(3) 一審三回公判証人木下ムツ子の「二三日夜阿藤が仕事から帰り今から飲むと言って樋口・松崎・久永・稲田らと焼酎を飲み遊びに出ると言って出て行った。」旨の供述(二冊三八八丁裏)、

(4) 当審八回公判証人木下六子の「阿藤方ですき焼をした日は阿藤のお父さんか誰かの法事の日である。」旨の供述(六四冊二二八三丁以下・二四〇〇丁以下。)、

(5) 二次控訴審五三回・五八回・六〇回各公判証人樋口豊の「一月二二日には自分は福屋へは行っていない。翌二三日夜福屋へ行ったら、阿藤らも福屋にきていた。」旨の供述(右各公判調書中三九冊一五四二〇丁裏以下・四二冊一六四〇六丁以下・四三冊一六七九五丁以下・一六七九八丁以下・一六八五五丁以下。もっとも、樋口証人は一月二三日夜阿藤方で飲酒した記憶がないよう供述するが((右各公判調書中三九冊一五四二一丁以下・四二冊一六四〇丁・四三冊一六七九五丁以下・一六八七〇丁以下))、同証人の当審七回公判での「一月二四日より前のような気もするが阿藤方ですき焼をして食べたように思う。」旨の供述((六四冊二一九四丁裏以下))及び前記(1)・(2)・(3)・(4)の各供述によれば、右樋口もまた一月二三日夜阿藤方で被告人らとすき焼で飲酒したことが認められ、樋口証人は二次控訴審の右各公判での供述に際しこのことに関する記憶を喚起できなかったものと考えられる。なおこの点に関する同証人の供述の信用できないことは、同人の司法警察員に対する昭和二六年一月三〇日付供述調書中「自分は一月二三日夜阿藤方で同人・久永・松崎・稲田とすき焼で焼酎を飲んだ。その後阿藤ら四人が自分より一足先に出てから自分が福屋へ行ってみたら右四人も全部福屋にきていた。」旨の供述記載((四九冊一九一三〇丁以下))に照らすも明らかである。)、

(6) 当審五回公判証人上田節夫の「一月二三日夜福屋方で中本ほか一人が今日下松で勘定を貰って帰った、と言った(六三冊一六七四丁裏以下・一七四八丁裏)。自分も貰う金があったので二四日朝下松へ賃金を取りに行き午後四時過ぎ頃帰宅した(六三冊一六七一丁裏以下)。二三日夜自分が福屋へ行ったとき阿藤・稲田・松崎・久永もいたように思う。中本清一・福屋治郎・まあちゃんもいて、自分が行ったのは口論か喧嘩の後であった。その前自分は福屋の使いで小行司のまあちゃんのところへ行った。その日が二二日であると警察で述べたことは今記憶にないが、調書に二二日とあれば間違いである。自分は下松の日石に賃金を取りに行ったのは二四日に間違いないから、その前日の二三日夜中本らから福屋方で、その日中本らが下松で勘定を貰ったことをきいたのである。もし中本らからそれをきいたのが二二日であるとすれば、当時自分は金に困っていたので間一日おいた二四日に下松へ勘定を取りに行く筈がない。二三日夜皆が集っているとき、稲田から下松で同人の賃金も一緒に貰ってくるよう頼まれた。そのようなわけで、福屋で阿藤が口論したのは二二日ではなく二三日であったと思う(六三冊一七四八丁裏以下・一八六七丁裏以下)。二四日下松に賃金を取りに行った際稲田の分ももらってきてやった(六三冊一八一九丁裏以下)。」旨の供述、

(7) 当審二七回公判での稲田の「上田に下松の賃金を取りに行ってもらうよう頼んだことがある。頼んだ場所は福屋と思う。上田は頼んだ明くる日にもらいに行ったと思う。」旨の供述(七九冊七四四四丁裏以下・なお六三冊一八六六丁稲田の質問参照。)、

(8) 阿藤の父阿藤荘松の戸籍謄本中同人は昭和一〇年一月二三日午後四時平生町で死亡した旨の記載(六九冊四二九一丁裏)、

(9) 証人樋口豊の二次控訴審五八回公判での「二四日仕事からの帰途阿藤が『一〇時かその頃になったら吉岡が橋のところにくる。吉岡が早くくれば一一時半にならんでも行く。』と言った。」旨の供述(四二冊一六四一一丁以下)及び同審六〇回公判での「二四日仕事からの帰途阿藤が『吉岡は一〇時頃橋のところにくる。』と言ったのは阿藤か稲田か吉岡に連絡したものと思う。自分としては吉岡に連絡できているものと思った。」旨の供述(四三冊一六七九四丁裏以下)に、前掲阿藤の「自分は二三日夜稲田に吉岡に対し自分方にくるよう伝言を頼んだ。」旨及び稲田の「自分は二三日夜吉岡方に行き、便所にはいっていた同人に阿藤方へ行くよう伝えたら、吉岡は直ぐ行くとのことであった。」旨の各供述を総合して考察すれば、被告人らは一月二三日夜人島の阿藤方ですき焼で飲酒したのち麻郷の福屋方へ遊びにでかけたが、それまでの間稲田が阿藤の使いで吉岡方に行き便所にはいっていた同人に外から声をかけて阿藤方までくるよう伝えたところ、吉岡が「直ぐ行く」と返答したことが認められ、このことに前掲(一)・(二)の各認定事実を合わせ、且つこれらを46冒頭掲記の吉岡供述に照らして考究すれば、被告人らは右福屋への途中阿藤方近くの土手付近で右呼出に応じて同人方へ向ってくる途中の吉岡に出会った事実及びその際吉岡が阿藤から「明晩やるから懐中電灯と手袋を持ってこい。」とか「一〇時か一一時頃こい。」と言われた(吉岡はその場所が阿藤の家であったのか八海橋であったのか記憶上判然しないが、いずれにしても阿藤の家に行ってみれば間違いないと考えた)事実を認めないわけにはゆかない。しかも前記阿藤方での飲酒は「まあどうせやれば金がはいるんだから気晴らしにやるか。」とのことからであったとさえ認められる(二次控訴審五三回公判証人樋口豊供述三九冊一五四二一丁)。

被告人らは阿藤方ですき焼で飲酒してから一緒に麻郷の福屋方へでかけたのは一月二三日夜ではなく二二日夜である旨供述するが、該供述はこれと同旨の他の各供述と共に前記(1)ないし(9)の各証拠に照らしては勿論、久永の二次控訴審四七回公判での「一月二二日は仕事が済んでから家に寄り阿藤方へ行った。それから阿藤方から家に帰ったように思う。」旨の供述(二次控訴審四七回公判調書中三六冊一四二一四丁裏以下)及び前記稲田の検察官に対する第三回供述調書の記載に照らすも信用できない。殊に

(1) 二次控訴審四四回公判証人阿藤サカヱは阿藤の尋問に対し、一旦「阿藤方で被告人らが集まって飲んだのは二三日である。」旨答えながら(三四冊一三四四八丁裏六行目)、次には「それが二二日か二三日かよく覚えない。」旨答えたが、後の答は阿藤の「二二日じゃなかったんかね。」等との誘導によるものであることが同公判調書の記載(三四冊一三四四八丁裏以下)によって明らかに看取されるばかりでなく、それがすき焼で飲酒した日に関するものであるとすれば、当審一一回公判での同証人の「阿藤方で久永・松崎・稲田・樋口がきて夕刻すき焼をして飲んだのは、二二日であったと思う。」との供述(六六冊二九一八丁裏・二九四八丁以下)と共に、同証人の司法警察員に対する「二三日の晩阿藤方で焼酎を飲んだ際自分はすき焼を手伝った。集って飲んだ人は稲田・松崎・久永・樋口と兄周平である。」旨の供述(阿藤サカヱ警四九冊一九一四一丁以下。なお同人の検察官に対する供述調書中同旨の供述記載がある八四冊九一〇〇丁以下。)に照らすも、信用できない。

(2) 福屋シズヱは検察官に対し「二二日夕方頃稲田・松崎・久永・阿藤らが自分方にきた。二四日夜七時頃にも稲田・上田の二人がきた。今年になって稲田・松崎・久永・阿藤らが自分方に遊びにきたのはその二回だけである。二五日警察の方がきてきかれたことがあるのでよく覚えているが二四日の晩稲田が私方にきたのは間違いありません。」旨供述しているが(一冊二三一丁以下)、右供述はその全体からみて被告人ら四人が一緒に福屋方へ行った日が果して二二日だけであるかの点については必ずしも確信ある記憶に基くものであるか疑問であり、後記(3)の判断に照らしてみても、この点に関する右供述は採用できない。

(3) 福屋治郎・福屋ユキは司法警察員に対しいずれも「二二日夜九時頃阿藤・稲田・松崎・久永・樋口が自分方にきた。その翌日二四日夜は稲田・上田の二人が自分方にきて稲田の帰ったあと松崎が稲田を訪ねてきた。」旨供述しているが(四八冊一九一一八丁以下・一九一二〇丁以下)、福屋方に稲田・上田の二人が遊びに行き、稲田が帰ったあと松崎が稲田を訪ねて福屋方に行った日が二四日であることは証拠上(稲田・松崎の当審二七回公判での供述七九冊七四一八丁裏以下・七五四六丁裏、当審五回公判証人上田節夫供述六三冊一六八五丁裏以下・一審四回公判調書中証人福屋ユキ供述二冊四一七丁以下。)明らかであり、被告人らが福屋方へ行ったのは、その翌日が二四日であれば、その前日の二三日ということになる。前記福屋治郎・福屋ユキの司法警察員に対する供述調書中に、それが二二日とあるのは調書の書き違いか、同人らの言い違いかのいずれかであるとしか考えられない。

なお、この点に関する二次控訴審四〇回公判証人阿藤小房の供述(三二冊一二一五三丁以下)の如きは頗る曖昧で証拠資料として採るを得ない。仮りに同証言によるも、人島の阿藤方で被告人らがすき焼で飲酒したのち麻郷の福屋方へ出かけた日が二三日ではなく二二日であると認むべき心証を得ない。

(四) 一月二四日夜八海橋から早川惣兵衛方に至る道中での謀議について。

吉岡供述によれば、一月二四日夜被告人ら及び吉岡が八海橋から八海の早川惣兵衛方へ向かう道すがら、阿藤が「やっぱり夫婦喧嘩にした方がよい。事件にせん方がよい。」、「体に血がついたら石油か揮発油かアルコールかで拭けばよい。俺も一寸人に聞いたんだが服についたらだめだ。」、「松崎が口笛を吹いたら逃げる。固まって逃げないようにせよ。久永はロープを探せ。稲田は金を探せ。吉岡は戸をあける。俺は斧を探す。」と言い、これに呼応して稲田が「事件にしない方がよい。」、「なるべく血をつけないように気をつけよう。」などと言った。とにかく阿藤は歩きながら「向こうが起きてきたら殺す。殺したときには夫婦喧嘩にして事件にせん方がよい。」との話しぶりであった。斧で殴ぐるのは吉岡・阿藤・稲田・松崎・久永の順とのことであったが現場では吉岡が三番目になった、というのである(一審五回公判調書中二冊四七一丁裏以下・同審一〇回公判調書中五冊九九九丁・二次控訴審二回公判調書中一二冊三七一九丁裏以下・同審五回公判調書中一三冊四二〇八丁裏以下・同審一一回公判調書中一六冊五三九一丁以下・同審四二回公判調書中三三冊一二八一二丁以下・当審一二回公判六七冊三五七九丁以下・当審一六回公判七〇冊四四七二丁)。この点に関する真偽の判断は、後記三以下の認定にも関連するので、後に判示する。

三、被告人らのアリバイと犯行時刻等について。

(一) 本件犯行時刻に関連のある吉岡供述。

吉岡供述によれば、同人は一月二四日夜凡そ八時頃麻郷の新庄方を出て(二次控訴審二回公判調書中一二冊三六〇四丁裏・同審八回公判調書中一四冊四七五二丁・四六六〇丁・同審五六回公判調書中四一冊一六〇七九丁裏・同審五九回公判調書中四三冊一六五九六丁裏・当審一二回公判六七冊三五三九丁・三五四一丁以下・当審一四回公判六八冊三八四八丁以下、当審一六回公判七〇冊四四八六丁以下)、八海橋方面に向う途中鳥越峠付近道端の小屋の中で馬車の上に筵を敷いて寝てから人島の阿藤方へ行き障子の破れ目から中をのぞいたが、阿藤の母と子供が寝ているだけで外に誰もいない様子であった(二次控訴審二回公判調書中一二冊三六九三丁以下・三七〇二丁裏以下・同審一一回公判調書中一六冊五三八五丁以下・同審一二回公判調書中一六冊五五九四丁裏・同審四二回公判調書中三三冊一二七四九丁裏以下・当審一二回公判六七冊三六〇九丁以下・当審一三回公判六八冊三七五八丁以下・当審一四回公判六八冊三八四八丁以下。当審一六回公判七〇冊四四九九丁以下・なお、右鳥越峠で寝た時間については判然しないが、一時間ともいう当審一四回公判六八冊三八四八丁。)。それでまだ時間が早いのかと思い引き返してぶらぶら八海橋を渡り八海の石地蔵辺まできた際また新庄方へ行く気になりその方へ行きかけて麻郷の鳥越橋付近の増野煙草屋で新生一個を買ってから、また新庄方へ行ったのでは迷惑をかけるし、それに阿藤に言われた時間に間に合わんようになってもいけないと考え再び阿藤方へ向った(二次控訴審二回公判調書中一二冊三七〇三丁以下・同審二回公判調書中三三冊一二七五六丁以下・当審一二回公判六七冊三五三九丁以下・三六〇九丁裏以下・三七〇八丁裏)。八海橋上の西詰から五八米位の地点まできたとき阿藤と久永とに出会った(当審検証現場での指示六七冊三三二五丁以下・当審証人尋問調書中六六冊三一三三丁裏以下)。その時間は判然しないが一〇時過頃である(二次控訴審一三回公判調書中一七冊五七九九丁以下・当審一二回公判六七冊三五三九丁以下・当審一四回公判六八冊三八四八丁・三九八二丁・当審一六回公判七〇冊四四八六丁)。阿藤が吉岡に「懐中電灯と手袋を持ってきたか。」と尋ね、吉岡が「懐中電灯は持ってきたが、手袋は忘れた。」と答えながら三人が橋の西詰方向へ歩きかけていた時分松崎が平生の方から駆けつけ、間もなく西からきた稲田にも出会い五人揃って早川方に向い石地蔵付近(その付近で清力用蔵に追越された。)から二手に分れ稲田・松崎・久永が川岸の道を行き、吉岡・阿藤の二人がそのまま早川方前に通ずる道を行き(一審八回公判調書中四冊七六三丁裏・二次控訴審三回公判調書中一三冊三九六七丁裏以下・同審五六回公判調書中四一冊一六〇八一丁以下・一六〇五七丁以下・当審検証現場指示六七冊三三二五丁以下・当審証人尋問調書中六六冊三一三三丁裏以下・当審一二回公判六七冊三五七五丁以下・当審一六回公判七〇冊四四六九丁以下。右清力用蔵に追越された点につき一審五回公判調書中二冊四七二丁・二次控訴審三回公判調書中一三冊三七六五丁以下・同審一二回公判調書中一六冊五四四四丁以下・五五八九丁裏以下・同審五六回公判調書中四一冊一六〇八〇丁裏以下・同審六三回公判調書中四六冊一八〇四三丁裏以下・当審検証現場指示六七冊三三二五丁裏・当審証人尋問調書中六六冊三一三一丁以下・当審一二回公判六七冊三五七三丁以下・三五八四丁以下・当審一六回公判七〇冊四四九一丁裏以下)、同人方屋内に侵入したのが一〇時三十分過(二次控訴審五回公判調書中一三冊四二二六丁裏・同審六一回公判調書中四四冊一七一七二丁以下・当審一二回公判六七冊三五三八丁裏)、右侵入時から早川方脱出時までの所要時間が三〇分前後(一審四回公判調書中二冊四四一丁裏・二次控訴審二回公判調書中一二冊三五九三丁以下・同審五六回公判調書中四一冊一六〇八二丁以下・当審一六回公判七〇冊四四八四丁裏以下)、八海橋東詰南方約二〇米付近土手上で奪取金分配後吉岡が八海橋を渡り間もなく引返してまた八海橋を渡り同橋東詰から東方約二三米付近道路下で寝て(その時間は判然しないが三〇分以上のようにも言う)から平生町中本自動車店に着いたのが一二時過から一二時三十分頃までの間である(一審四回公判調書中二冊四四一丁裏・一審一〇回公判調書中五冊九九七丁裏以下・一次控訴審昭和二八年六月八日公判調書中六冊一三〇九丁以下・二次控訴審二回公判調書中一二冊三五八〇丁裏以下・同審三回公判調書中一三冊三九五二丁以下・同審五回公判調書中一三冊四二二五丁以下・同審一四回公判調書中一七冊五九三四丁裏以下・同審五六回公判調書中四一冊一六〇六〇丁裏以下・同審五九回公判調書中四三冊一六五九六丁以下・同審六一回公判調書中四四冊一七一六九丁裏以下・当審一二回公判六七冊三五九一丁裏以下・当審一四回公判六八冊三八五七丁以下・当審検証現場指示六七冊三三三六丁以下・当審証人尋問調書中六六冊三一三六丁以下)というのである。なお吉岡は、二次控訴審五九回公判で「自分がこれまでに述べた時間は大体のところを言ったもので、いちいち時計を見て行動していたわけではないから正確には判らないのが本当である。自分はその夜時間を大体の想像で行動していた。一審三回公判で曽村証人がいうように、曽村が一〇時三五分か四〇分頃に平生の岩井商店付近で阿藤に会ったものとすれば、自分が阿藤に八海橋上で会ったのは、それよりも後のことになるので、自分の供述を変更して八海橋上で阿藤と会った時間を一〇時四〇分か一一時頃と述べるようになったのである。自分は曽村証言の時間を正確であろうと考えたことと自分が阿藤と早川方へ行ったことは間違いないことから、八海橋上で阿藤と会った時間は曽村の言う時間より遅くなるのが当然と考えている。」(四三冊一六五九九丁以下。当審一六回公判でも同旨供述七〇冊四四八九丁以下。)、二次控訴審五六回公判で「八海橋上で阿藤に出会ったのは最初同人方をのぞいてから三〇分位後である。」(四一冊一六〇五一丁)、当審一四・一六回各公判で「八海橋上で阿藤に出会ったのは新庄方を出てから約二時間後である。」(六八冊三八四八丁・七〇冊四四八六丁以下)、当審一三回公判で「一審検証に際し八海橋上で指示した地点は被告人ら四人全部と一緒になった場所である。」(六八冊三七六一丁以下)旨各供述する。

(二) 被告人らのアリバイについて。

被告人らはいずれも一月二四日夜一〇時過頃から右吉岡がいうように同人と行動を共にしたことがない旨主張するので、差当って先ず当審公判での被告人らのこれに関連のある同日夕刻から二五日にかけての行動に関する供述をみると次のとおりである。

【阿藤当審公判供述要旨】

二四日自分は午後三時頃田名の仕事を終り四時頃稲田らと一緒に久永方に寄って帰宅の途についた。途中稲田が人島の自分方においてある弁当箱を取りに行くというので、ついでに自分方から自転車を持ってきてくれるよう同人に頼み、自分は八海橋のところで待っていた。自分がなぜそのとき帰宅を思い止まったのか今ではよく判らないが、多分松崎・岩井らと午後七時に久永方に集って田布路木の中野方へ賃金をもらいに行く約束があったので、それをもらってから帰宅した方がよいと考えたからであると思う。稲田から自転車を受け取って午後五時前頃八海の吉岡方へ行った。稲田とは吉岡方前で別れて同人方へは自分独りが行った。吉岡方では兄一人がいて、吉岡はゆうべから戻らん、とのことであった。それから、平生の岩井方に寄り同人と一緒に各自自転車に乗って久永方へ行った。金森がきていて「徳山に人夫がいる。」とのことであったため自分・久永・稲田・岩井の四人が行くことになった。松崎は下松の方で受験のためもう一人二人いるときまで待つことにした。金森は自分がよく知らない人である。岩井が自分ら仲間の仕事の責任者であったので、金森とは岩井がよく話し合ったのだと思う。徳山の仕事はアパート建設の穴掘りの仕事ときいた。自分・松崎・久永・岩井の四人は午後七時頃久永方を出発して田布路木の中野方に七時半頃着いた。久永は松崎の自転車に乗せてもらって行った。中野方では主人が不在で奥さんがいた。自分は一〇時頃まで待ったが中野が帰宅しないので、同人方を出て久永を自分の自転車に乗せて帰る途中チェーンが切れたので、そこから一緒に歩いて久永方前で別れ、泉商店でパンを買い、次に薪を買おうと思い岩儀商店前に出たとき、店の前で人がトントン・トントンと戸を叩き「今晩わ・今晩わ」と声をかけていたが店の人は起きなかった。自分はそこを素通りして人島の家に帰宅し風呂にはいってから食事をして直ぐ床にはいった。そのときは一一時半頃であった。松崎は自分と久永より一時間位先に中野方から帰った。寝てから床の中で賃金をもらえなかったことで、一二時頃まで自分と母とが言い合いをした。その時間は一〇分か一五分位である。母は内職もしていたので、そう自分の賃金のことをガツガツはしていなかったが、木下もきているし金がいるとのことで、母は不機嫌であったらしく小言をいった。妹が「兄さんはあす早いから、それにもう時間も遅い。」と言ったので言い合いをやめた。程なく一二時を打つのをきいた。その夜中野方へ行くことは、岩井が言いだしたと思う。自分のもらい分は、はっきりせんが、前年の残り一〇日分位で一日二〇〇円なんぼかであった。それをもらって家の生活費に入れる考えであった。その後には自分は中野方へ請求に行った記憶がない。それは徳山の仕事に朝出て夜遅く帰るからであった。当時徳山の徳本組でした賃金をもらう当があって二五日がその支払日であったので、岩井に代表で行ってもらったが、中野方で岩井に委任状を渡した記憶はない。当時の自分方の暮らし向きは、自分がよく出て一〇日ないし二〇日位働き、一日二〇〇円余りで三〇〇円にはならなかった。母が内職でそれを補っていたが、自分は飲み代などがあって全部入れなかったため、非常に苦るしかった。二五日には磯崎停留所からバスで田布施に出て汽車で徳山へ行った。右停留所までは歩いて出た。徳山では仕事はじめで、現場の足場を作ったりなんだりいうことで、穴をやらず、自分らは歌舞伎座の整理か何かをした。その仕事は丸太棒片づけで一日仕事で請でやった。昼まで働き、働いたところで弁当を食べ、昼から映画へ行った。徳山のその日の仕事は自分・稲田・久永がした。岩井は汽車に乗り遅れてあとからきて徳本組へ行ったが、賃金はもらえなかったとのことであった。同人は昼前頃現場にきて自分らと一緒に弁当を食べた。岩井は仕事をしなかったと思う。自分らは金森に現場に一緒に連れて行ってもらった。アパートの仕事ときいていたが、道具がなく段取りができていなかったため歌舞伎座の方へ回されて跡片づけの仕事を請でやらされたのである。上田も小関ら三・四人と一緒に仕事をした。午後四時頃徳山発の汽車でそれらの人達と一緒に帰った。上田とは田布施で別れた。稲田は吉岡を探しその結果を知らせる約束で一旦帰宅した。自分は帰宅後松崎・木下六子と三人連れで人島の家を出て大野散髪店に吉岡を探しに行く途中稲田と出会った。大野から松崎と別れて自分・稲田・木下の三人が上田方へ行き、自分と木下とがその夜から上田方に泊めてもらうことにした。同人方に泊めてもらう話は、それ以前に既にできていたものである。また自分は徳山から帰宅の際来合わせていた松崎から八海で人殺しがあったときき、その事件のことは右稲田と出会った際同人からもきいた(以上当審二六回公判供述七八冊七一八三丁以下)。

【久永当審公判供述要旨】

久永の当審公判廷での供述の多くは、しどろもどろで矛盾にみちながらも、その裡に事案の真相に触れるとみられる微妙なものがあるので、一部を問答体のまま掲記する。次のとおりである。(答は概ね速記録のとおりである。)

裁判長「この裁判所で山崎博元巡査を調べたとき、押入れに隠れたというようなことを言っていたね。」

久永「はい。」

裁判長「その事実はあったのか。」

久永「それが事実は、その僕は公判のときに記憶があるのはあったんです。で、その前に僕が公判廷で述べたことと、それから現在お母さんがいっていることや、こうくらべてみて、どうもそのはっきりせんことになってしもうた。」

裁判長「ところがね、山崎証人にあんた反対尋問のときに、そこを尋ねて。」

久永「いや、その当時は。」

裁判長「いや、当時尋ねて、あんたの問うことと、山崎証人の証言とが一致したということは記憶しておるかどうか。」

久永「ええ、しております。」

裁判長「記憶しておるね。」

久永「ええ、しております。」

裁判長「そういう事実はあったね。」

久永「ええ、そうです。それはあります。」

裁判長「供述とあんたの反対尋問と一致したということ。」

久永「それはあります。」

裁判長「そうすると、あとから考えてその押入れに隠れた事実は違う、とこういうんか。」

久永「ええ。」

裁判長「うん。」

久永「どうも、その方が二四日の日は押入れへはいったでなしに、間違うておるんじゃないか、と僕は今思うんです。」

裁判長「ああ、そうか。」

久永「ええそうです。」

裁判長「そうすると、山崎はあんたが帰ったときにはおったんか、いなかったんか。」

久永「僕は帰ったときには山崎巡査はおりません。」

裁判長「いなかった。」

久永「はい、そうです。」

裁判長「そういうんか。」

久永「ええ。」

裁判長「今の記憶では。」

久永「ええ、それでお母さんに……」

裁判長「そうすると、山崎巡査は、その晩にきたのか、こんのか。あんたがおる間に。」

久永「その晩は山崎さんはきております。」

裁判長「きたんか。」

久永「はい。」

裁判長「それならいつきたというのか。現在の記憶では。」

久永「僕が帰って間もなく岩井さんが外を通ったのを覚えておるんです。そのときは山崎さんは話声しよったから、山崎さんはきておると僕はずっと思っておりました。二四日の晩は。」

裁判長「そうすると、山崎がきたときは、あんたはどうしておったというのか。」

久永「僕は寝ておりました。」

裁判長「寝ておったのか。」

久永「はい、そうです。」

裁判長「寝ていて寝床でまだ目を覚ましておったというのか。」

久永「はい、そうです。」

裁判長「そのときに山崎がきた。」

久永「はい、そうです。」

……中略……

裁判長「あんたは、山崎が二四日の晩にきたことについて、現在記憶がはっきりしているのか。」

久永「現在で、やっぱりそのとおりです。」

裁判長「そのとおりじゃ判らん。はっきりしているのか、はっきりしてないのか。」

久永「はっきりしとります。」

裁判長「はっきりしておる。」

久永「ええ、山崎さんがきとった、ということははっきりしております。」

裁判長「はっきりしとる。」

久永「はい。」

裁判長「そうすると、山崎がいつきたとか、そのとき家族はどういう状態であったかということは、はっきりしているのか、はっきりしておらないのか。」

久永「ええ、はっきりしております。」

裁判長「はっきりしているのか。」

久永「はい。」

……中略……

裁判長「二四日夜山崎がきたことを知っている以上、あんたが帰る前にきたか、あとからきたかということは、はっきりしそうなものだが、それがこれまでの公判・上申書・上告趣意書等では、あんたが帰ったときには、きておったといい、あるいはまだきていなかったといい、どうして、そう供述を変えるのか。」

久永「…………」(答えない)

裁判長「あんたの考えで供述を変えたのか、あるいは変えた方がいいということを誰かにきいて変えたのか。」

久永「いいえ、僕はきいて変えたんでなしに……」

裁判長「あんたの考えで変えた。」

久永「ええ、やっぱり考えで、そうじゃなかったかのう思うたり。」

裁判長「しかし、事柄として二四日の夜のことで山崎のことを警察のときから言っているというんでしょう。」

久永「はい。」

……中略……

裁判長「山崎がきたのは、あんたが帰宅する前にきたが、あとからきたかということは関連する事実として重要なことじゃないかね。あんたとしては。」

久永「ええ、そうです。」

裁判長「じゃあ、あんたとしては、そのことをはっきり覚えておりそうなもんだが、覚えているとおりに言いそうなもんだが、そこがききたい。どうしてそう供述が変ったか。まあ無理に答えを求めるわけじゃないから、答えんなら、答えんでもいいが。」

久永「…………」(答えない)

……中略……

前堀弁護人(久永主任)「山崎が押入れから出てくるのを見たから、隠れておったんだろうと思っただけか。」

久永「ええ、そうです。」

……中略……

前堀「上告趣意書に書いてあるような書きっぷりでいくと、あなたが帰ってきたときに山崎巡査が既にきておって押入れに隠れたと。あなたが帰ってきたので体裁が悪くて押入れに隠れたんだというふうに読むような書きっぷりになってると思うんですがね。あんたも、そういうふうに思っていたか。この上告趣意書に書かれてあることだけからいうと、そうなると思っていたか。」

久永「ええ、僕が帰って、山崎さんが帰ったと思ったら、はいって、それから僕が寝て、それから山崎さんが出てきたと、そういうふうな。」

前堀「そういうふうなのは、その当時の記憶だったんですか。」

久永「ええ。」

前堀「あんたが帰ってきて、帰ってきたときには、そうしたら、山崎はどこにおったかということは、あんかは知らんのじゃね。」

久永「ええ、判りません。」

前堀「そして、もうあんたが寝たと。そうしたら押入れの中から出てくる姿を見た記憶を思い出したから、こう書いたんだ、とこういうんですか。」

久永「はい。」

前堀「ところが、その中に書いてあることから判るように、それまではずっとあんたが先帰って、山崎があとから少し遅れてきたんだという説明になっていることが逆になるでしょう。」

久永「ええ、そうです。」

前堀「逆になるということに気がついて、あの点が違うから、そこを調べてもらいたいという気持があったか。」

久永「全然ありませんです。」

前堀「そんなこと気がついていないのか。」

久永「はい。」

……中略……

前堀「上告趣意書を書く当時お母さんのあまり喜ばないような山崎との事がらが判るようなことを書く気持になったのは、どういうつもりだったのか。」

久永「山崎巡査がその一時間時間狂わして嘘ばかり言うから、それでこれはお母さんのことじゃあるんじゃが、もう書いてしまえ思うて書いた。」

……中略……

前堀「押入れの話を出したら、山崎もかぶとをぬいで、時間を本当のことを言うと思っておったのか。」

久永「はい。」

……中略……

前堀「あんたが帰ってきたときに山崎が押入れに隠れて、あなたが寝てから押入れから出てきたというような事実があったことがあるのか。」

久永「あります。」

……中略……

前堀「それがそうすると一月二四日であったということは、今日の話からいうと、あなたの思い違いであったということになるのか。」

久永「そうです。僕の思い違いです。」

……中略……

前堀「あなたも、この前山崎証人に対して、押入れに隠れたじゃないか、というようなことを念を押しておったね、念を押した方が間違いですね。」

久永「はい。」

前堀「これはね、あなたのお母さんのその後のこの法廷での証言をきいておっただけで、あなたが自分のそれまでに思うておった押入れの件が間違いであったということは判りましたか。あるいはそのときにはまだ判らなかったですか。」

久永「そのとき、ああ僕の方が間違いかのう、そういうふうに思うのは思っておりました。」

前堀「そうですか。」

久永「はい。」

前堀「そうすると、その後いろいろ考えてみて間違いであると、押入れの件は日が違うということは、もう責任を持って言えますか。」

久永「はい。」

……中略……

前堀「山崎証人はこの前裁判所で、山崎がきたときにはあなたがおって、それからあなたが外に出て、そして山崎はずっと久永方におった、そしたら、遅い時間にあなたが帰ってきた。そこで押入れにはいった、とこういう順序に言っておったということは、今覚えていますか。」

久永「ええ、覚えています。」

前堀「そこで、最初にあなたが出かけて行くまでのときね、あなたが外へ出たとの山崎の言葉はですよ、外へ出たという前には、山崎がきたわけでしょう。」

久永「ええ。」

前堀「その山崎がきたときには、あんたがおったと言うたか、まだ帰っていなかったと言うたか、今覚えていますか。」

久永「僕が山崎さんが言うのとは、僕がおったと。」

前堀「だから、山崎の証言は、山崎自身が初めきたときには、あなたが先帰ってきておったと。そこはそういう形は合うているんでしょう。違いますか。しかし途中でまたあんたがもう一ぺん出て行ったと。こういう事実は違うんですね。」

久永「違います。」

前堀「あんた出て行ったことないんですね。」

久永「ありません。」

前堀「したがって、帰ってきたときに押入れに山崎がはいっておったと。で、あんたが寝てから出てきたというようなことは事実じゃないんですね。」

久永「ええ、事実じゃありません。」

前堀「これは嘘だと。山崎が嘘を言っているというふうにいえるんですか。」

久永「ええ。」

……中略……

前堀「山崎巡査があなたの記憶からいうと時間を嘘をいうておるというふうなことが判ったのは、いつでしたか。」

久永「あれは平生公民館でやったときは、そうも感じなかったんですが、伏見さんの裁判のときは一時間違う、と僕は思っておりました。」

……中略……

前堀「何時間位どうなっていると言うた。」

久永「僕と一時間程余計針が回っておると。」

前堀「余計針が回っているというのは、時間が遅いということだね。」

久永「ええ、遅いいうことです。」

……中略……

前堀「そうすると、あんたの今日でも覚えておる時刻というのは、いつ頃に覚えておるの。」

久永「一〇時半頃です。」

前堀「一〇時半頃に覚えている。」

久永「はい。」

前堀「そして、山崎がきたというのは、どれ位になるの。」

久永「山崎さんが帰ったのが……」

前堀「帰ったんじゃない。きたんが。」

久永「きたのは、僕お母さんに徳山へ…」

前堀「そんな長道を言わんと時刻を言えんかな。」

久永「いや、それは岩井さんが通った頃には、山崎さんがきとった思います。」

前堀「きとった。」

久永「はい。」

前堀「そうすると、その時刻はなんとも言えんか。」

久永「それは僕判りません。」

前堀「それがもう一一時になっておるか、一二時になっておるか言えんか。」

久永「ええ、判りません。」

前堀「そうすると、一時間位遅う言うておるというのは、どの時刻からいうて一時間程遅いというんだ。」

久永「一〇時半。僕が帰ったのが一〇時半。」

前堀「だから、君が帰った時間は、君何も、山崎は君が帰った時間が一時間程遅いというふうに言っているんじゃないんだ。あんたは一〇時半に帰ったという記憶なんでしょう。」

久永「ええ。」

前堀「で、岩井が何時にきたかいうことはあんた判らんなら、一時間程嘘を言っているとか、どうだいうことは言えんじゃないか。ゆっくり考えて答えてくださいよ。山崎がきた時間が判らなければ、今度岩井が声をかけたという時刻やね、これが判っておってやね、それで山崎がその時刻について嘘を言っているということでなけりゃあ、山崎が嘘を言うているということは言えんでしょう。理屈は判りますね。だからそこはどうなんですか。」

久永「ほじゃけん、岩井さんが通った頃にきておったと思うだけですよ。」

前堀「思う。」

久永「ええ。」

前堀「それだったら、山崎が何時とそれを言おうとじゃね、あんたから山崎が言うておることが違うという理屈は出んでしょう。それよりもどれ位前にきたかということは、あんた知らんのでしょう。」

久永「知りません。」

……中略……

青木弁護人(松崎主任)「あなたがね、今山崎巡査がね、一一時四〇分位にきたというのはね、一時間位遅く言ったというんでしょう。」

久永「ええ。」

青木「そうするとね、一一時四〇分にきたと山崎巡査がいったのがね、一時間位遅らせて嘘をいっているんだということになれば、あなたが山崎巡査の本当にきたという時間が、大体あなたの頭の中にあるんじゃないの。」

久永「ええ、それは僕は間もなくきたと思っておるんです。」

青木「間もなくきたというのは、いつを標準にして。あなたが帰って……」

久永「いや、僕が帰って……」

青木「帰って間もなく……」

久永「ええ、そうです。」

青木「それじゃ判っているじゃないですか。それじゃゆっくりと言うからね。ゆっくり落ち着いて言いなさいよ。あんたがね帰ってきてね。それからどうしたの。」

久永「それから僕は直ぐ休みました。」

青木「直ぐ休んだ。」

久永「ほじゃけん、山崎さんがきたということは僕知っています。」

青木「きたことは知っているの。」

久永「ええ。」

青木「直ぐ休んだって、直ぐ休むのはいい。多少あったでしょう。さっき言った、あした徳山へ行くからなんとか言ったね。お母さんに早く起してくれ、と言ったのか。」

久永「はい。」

青木「そして直ぐ寝たの。」

久永「はい。」

青木「で、そのあとに山崎巡査がきたことを知っているの。」

久永「はい、知っています。」

青木「それなら大体判るじゃないの。」

前堀「判る。」

久永「判ります。」

……中略……

前堀「岩井さんがくるよりも前に、岩井さんの声がかかるより前に、山崎がきたこと知っているのか。」

久永「ええ、知っています。」

前堀「知っているんなら、そういうたらええじゃないか。じゃ、若干少し間もなくしてきたと言うんですね。」

久永「はい、そうです。」

前堀「そうすると、あなたが帰ったのは大体一〇時半頃と言われるんですね。」

久永「はい。」

前堀「そうすりゃ、一〇時半頃を基準にして一一時四〇分頃というふうに山崎が言うとすりゃあ、一時間位嘘を言っているということになるんですね。」

久永「そうです。」

……中略……

佐々木弁護人(阿藤・稲田主任)

「そうすると二四日の晩は、あんたは実に帰ったのちに間なしに山崎さんがきたと言うんですね。」

久永「はい、そうです。」

佐々木「間なしということは時間でいうたら、たとえば、五分とか、一〇分とか、三〇分とか、そういう表現で言ったら。言えませんか。どの位か。」

久永「時間で言うたんじゃあ、それが判らんし、まあちょっと位たってか、なんぼうかたってからでしょう。」

佐々木「ですから、時間で判らなければやむを得ませんが、たとえば、五分とか、三〇分とかいったような、そういう見当でも判りませんか。」

久永「僕のまあ考えで一〇分、どういうか、ちいたあたっておるんじゃないかという僕の頭にあるんです。」

佐々木「あなたの頭では一〇分位。」

久永「ええ。」

佐々木「あなたが帰ったのが一〇時半頃という根拠はどういう点なの。」

久永「僕たしかうちの時計を見たと思います。」(以上当審二八回公判供述七九冊七六三〇丁以下)

以上のほか、

二四日は田名海岸に仕事に行き四時か五時頃帰宅した。中野へは自分方から皆と一緒に出発した。その時間は六時になったか、ならんか、過ぎておったか、その程度であったと思う。行くとき自分は松崎の自転車の後部に乗せてもらった。帰りは阿藤の自転車で帰った。自分が中野方からもらう分は二五年中の熊川橋工事の賃金の残り五〇〇円か六〇〇円であった。自分が岩井から借りた自転車に乗り、岩井も別の自転車に乗って、二人で中野方へ行ったのは二三日のことである。二三日には田名の仕事から帰って出かけ、中野方に着いたのは八時頃であった。そのとき岩井は米を貰った。何時頃帰宅したか忘れたが帰ってから外出せずに寝た。その日岩井から借りた自転車は後方に大きな荷台がついて、前車輪は普通のタイヤであるが後方のタイヤは大きい分であった。岩井が乗った自転車はチューブの替わりに繩を入れたものであった。なお自分が岩井から借りた自転車は川添のもので、自分もその家に岩井と一緒に行って同人に交渉して借りてもらったものである。返すときは自分で川添方まで持って行って屈けた。川添は岩井と同居しているか、岩井の近所の人であった。(以上当審二八回公判供述七九冊七六四〇丁裏以下・七六五六丁裏以下・七七二三以下)

……(岩井が二四日夜久永方前を通ったというときの状況につき)……

岩井が声をかけて通ったのを自分はうつらうつらしてきいた。岩井は「チャンジュウさん」と声をかけた。岩井が通ったとき母が出たが母から何もきいていない。翌日岩井と徳山で出会ったとき同人が「家の前をチャンさん言うて声をかけて通ったんじゃが知っておるか。」と自分にきいた。夜静かだったら、うちの前を歩く音と自転車で通った音とは判る。岩井はうちの前をすっと通ったんじゃないかと思う。通りながら自分を呼ぶのをきいた(以上当審二八回公判供述七九冊七七三八丁以下。なお右の点につき、前堀「山崎が酒飲み終って母と寝床にはいって関係しているのを知っているか。」久永「知っておったと思います。」前堀「もう、あんたはそれを知らん顔をして寝たふりをしとった。」久永「そうです。」前堀「そこで、外を『チャンさん』という声で通ったということは、聞く機会があったんですか。」久永「そうです。」((当審二九回公判供述八〇冊八〇四一丁以下))。裁判長「ここで山崎証人に反対尋問の際、あんたそのとき押入れに隠れたな、と念を押したのは。」久永「そのときにゃ、その記憶の方が……」((当審二九回公判供述八〇冊八〇四五丁))。母が山崎と関係していたのは、岩井が通る前であったと思う。その点はっきり記憶しているので間違いない。岩井が通ったときは、母は布団の中にいて、電灯に何かかけて暗くしてあった((当審三〇回公判供述八〇冊八〇九〇丁以下))。人によって自分の呼び方が違うが岩井は「チャンさん」と呼ぶ((当審三三回公判供述八六冊九九二四丁裏))。)。

……(二五日の行動につき)……

朝一番バスで三木停留所から田布施駅に出て二番の汽車で徳山へ行った。汽車から降りて直ぐ清水建設の歌舞伎座の仕事の方へ行ったのが午前八時頃である。歌舞伎座での仕事の最中か、昼ご飯を食べるとき岩井に徳本組へ行ってもらうよう頼んだと思う。徳山で映画館へはいったのは午後三時か四時頃である。中で上田と会ったと思う(当審二八回公判供述七九冊七六六一丁裏以下)。

山崎検事「前の晩どこへ行くという話はなかったか。」

久永「徳山で仕事があるけえいうんで、その話が……」

山崎「行先が判らなければ行けないでしょう。」

久永「徳山ですよ。」

山崎「それじゃ、最初どこの場所という約束であったか。」

久永「そこまでは判らないですよ。」

山崎「判らなかったですか。前の晩には。」

久永「とにかく金山さんがきて仕事のことをいうたんじゃが、徳山のどこへ行けということは。結局その僕はあんまり。現場へ。ただ徳山へ行ってから、その現場へ行って、歌舞伎座の方に仕事があるからいうんで、そこへ行ったんですけえ。どうこう、こうこういうても……」(当審二八回公判供述七九冊七六六四丁以下)。

【松崎当審公判供述要旨】

一月二四日は午後三時頃田名海岸の仕事を了え午後四時頃久永方に寄った。その途中岩井か久永かが、中野へ前の賃金をもらいに行こうと言ったので、七時に久永方に集って出かける約束をした。久永方から一応帰宅して夕ご飯を食べ六時過ぎ頃久永方へ行った。そこに金森のまっちゃんという人がきていて、徳山で四人程人手がいるとのことであった。さしむき阿藤・稲田・久永・岩井の四人が行くことになって、自分はまだ人がいるかどうかをきいてもらうことにした。七時ちょっと過ぎ頃久永方を阿藤・久永・岩井と一緒に出た。自分は久永を自分の自転車の前に乗せた。このことははっきり覚えている。中野方には八時前に着いた。同人方で自分と阿藤が三べん将棋をさし、その後阿藤と子供が一ぺんさすのをみてから、自分は九時に一五分前を指しているのをみて、それからちょっとして中野方を出た。出るとき中野方の時計を見た。九時前であった。自分が皆より先に中野方を出たのは、稲田に明日の徳山の仕事のことを知らせるためと、福屋方でシズヱと遊びたい気持が多分にあったからである。中野を出てから久永方に寄って、行くとき借りた革手袋を返し、煙草の火を借り、まんじゅうを食べてから麻郷の福屋方に行ったのが九時半頃であった。稲田がおらんかと尋ねたら、福屋のお母さんが「たった今帰った。」と言ったので、同人方から途中人に稲田方への道をきいて八海の同人方へ行った。大きな声で呼んだら稲田が出てきたので「あした徳山へ仕事に行け。一番の自動車で行け。」と伝えて、煙草に火をつけてから人島の阿藤方へ行って部屋に上り二〇分か三〇分いた。阿藤から頼まれていたとおり「風呂がぬるくなっておろうから、わかしておいてくれ。」と伝え、木下六子と阿藤の妹サカヱとを連れて帰宅してから、同人らにパスを渡して自分は寝た。中野方から自分のもらう賃金は二五年の熊川橋と田布路木の前の川で弟と二日位仕事をした分で一、〇〇〇円ちょっと超えており、皆より多少多かった。自分は二五日徳山へ行かなかったのは、下松に試験を受けに行っていた関係と、四人いるとのことであったからである。別に家にしなければならない用事があったわけではなかった。二五日は朝母に頼まれて繩ない機械をなおし、ちょっと繩をない、一〇時頃久永方へ行き雑談をした。その際久永の母に八海で大きな事件があったと話をした。久永方から帰宅して夕刻人島の阿藤方へ行った。阿藤方で六子と話をしているうち阿藤が帰った。三人が阿藤方を出て大野散髪店へ行く途中稲田と出会い、四人で同店へ行ってから自分は別れて帰宅した。事件のことは二五日朝一〇時頃父が母に「行商で通ったとき人だかりがして人殺しがあった。」と話しているのをきいて知った。そのことを久永方で自分から話した記憶がある。自分がその日夕刻人島の阿藤方へ行ったのは、徳山の仕事のことをきくためと、阿藤の妹サカヱや木下六子がいるので遊びたい気持とからであった。阿藤方で自分もあすから徳山の仕事へ行こうということになった。二四日夜稲田方で同人に印鑑を預けた記憶はない(以上当審二七回公判供述七九冊七五四三丁以下)。

【稲田当審公判供述要旨】

二四日は仕事の帰り午後四時頃久永方へ寄った。阿藤と一緒に久永方を出て、途中八海橋のところから阿藤方に預けてあった弁当を取りに行った。序に自転車を持ってくるよう阿藤から頼まれたので、同人方から自転車を持ってきて阿藤に渡した。阿藤が吉岡方へ行くので、自分も一緒に行った。阿藤が一人吉岡方にはいり自分は道端にいた。吉岡がいないとのことであった。それから帰宅して夕食を済ませてから七時か七時過頃福屋方へ行った。翌朝早く福屋治郎が餠つきに出かけるということであったので、いつもより早く福屋を出た。その際福屋のお母さんが「えらい早いじゃないか。も少し遊んで帰りゃええのに。まだ九時一〇分だから。」と言ったのを覚えている。それから帰宅して寝ているとき道路端から「稲田」と呼ぶ声がした。出てみると松崎がきていて「あしたから徳山の仕事へ行ってくれ。」とのことであった。その際、前に徳山でドラム罐を押して働いた賃金が二五日にもらえるようになっていたので、それをもらってきてくれ、と松崎に頼まれて同人から印鑑を預った。それで松崎は帰った。二五日には朝五時頃に自宅を出て人島の阿藤方に誘いに寄り同人と一緒に田布施の駅に出た。徳山の仕事は昼前に終った。徳山で上田と会った。同人と映画館で会った時間は忘れた。徳本組の賃金をもらうのを岩井に頼んだのは自分らが仕事で行かれなかったからである。自分は世話人が行かんでも、印鑑か委任状持って行けばもらえると思っていたが、もらえなかったとのことであった。午後六時過か六時前後かに阿藤の依頼で吉岡方へ行ったが同人は不在であった。それから帰宅した際おばあさんから早川惣兵衛夫婦が殺されたことを初めてきいた。それから家を出て八海橋を渡り阿藤方寄りの道にはいったとき、阿藤・木下・松崎の三人に出会った。そのとき事件の話をし、吉岡が不在であることを伝えた。吉岡が行っているかもしれないというので大野散髪店へ行ったが、吉岡はいなかった。松崎とそこで別れてから、八時前後に阿藤を上田方へ連れて行き、二、三〇分話をして自分は帰宅したが、途中福屋方へ寄ったかどうか記憶にない。阿藤が上田方に間借りすることは、その日徳山から帰る汽車中で、阿藤から上田に直接頼んだもので、自分が斡旋したのではない。自分は阿藤を上田方へ連れて行っただけのことである(以上当審二七回公判供述七九冊七三九〇丁以下関係部分要約)。

以上被告人らの各供述を検討するに、阿藤・松崎・久永・岩井武雄の四人が二四日午後七時頃平生町の久永方を出発して同七時半頃田布路木の中野末広方に到着し、折から外出中の同人を暫時待ち合わせたが容易に姿を現わさなかったため、それぞれ帰宅の途についたことは、当審四回公判証人岩井武雄の供述(六一冊一二五一丁以下)・一次控訴審証人中野良子の供述(一次控訴審証人中野良子尋問調書中六冊一一七五丁以下)に照らし明らかである。しかし、その餘の当夜の行動に関する被告人らの前掲各供述には、他の関係証拠に照らし多く信用できないものがあるので、以下順次これらについて判断する。

(1) 二四日夜右中野方への往復に際しての自転車の使用について。

阿藤は当審二六回公判で「久永は中野方へ行くときには松崎の自転車に同人と二人乗りし、帰りには自分の自転車に二人乗りした。」と供述するが(七八冊七二一四丁以下・七三三九丁裏)、二次控訴審四一回公判では「行きには自分の自転車に松崎を乗せ、岩井の自転車に久永を乗せたと思う。」と供述しながら、さらには「松崎は一人じゃったと思う。四人で三台の自転車であった。」旨供述し(三二冊一二五三八丁以下)、同審五一回公判では「行くとき二人乗りした者は誰誰か判らぬ。帰りに自分が久永を乗せたがどこに乗せたかはっきりしない。」旨供述し(三八冊一五〇八二丁裏以下)、当審四回公判で証人岩井武雄に対し「中野へ行くとき久永は証人と二人乗りして行ったのではないか。」との反対尋問をした(七八冊七二一四丁以下・六一冊一三八五丁)。久永は松崎が当審二七回公判で「中野方へ行くとき久永を自分の自転車の前に乗せた。このことははっきり覚えている。」旨供述する(七九冊七六一四丁以下)に対し当審二八回公判で「自分は行くとき松崎の自転車の後部に乗せてもらった。」旨供述し(七九冊七六五八丁裏)、また阿藤が当審二六回公判で「中野方から久永と二人乗りして帰る途中チェーンが切れた。」(七八冊七三三九丁裏)、二次控訴審四六回公判で「チェーンが切れたのは石地蔵を過ぎ天池の手前である。」(三五冊一四〇三二丁裏以下)と各供述するに対し、司法警察員に対し「二四日夜中野方から阿藤の自転車に二人乗りして帰る途中平生町築廻で、その自転車がパンクした。」旨供述しながら(久永警一回四冊八八三丁裏)、検察官に対しては「月回でチェーンが切れた。」旨供述し(久永検四九冊一九一六八丁裏)、上申書には「天池でチェーンが切れた。」と記載し(六冊一二九四丁裏)、二次控訴審四六回公判では「天池の曲り角でチェーンが切れ、石地蔵の手前で降りた。」旨供述し(三五冊一四〇三二丁裏・一四〇三五丁裏以下)、同審四七回公判では「曲り角からちょっと行ったところでチェーンが切れた。」旨供述する(三六冊一四二一七丁裏以下)。以上のように関係被告人らの各供述は、相互に矛盾するものがあるのみならず、同一人の供述でありながらその都度異なるものがあり、且つ検察官の実況見分調書の記載(四八冊一八八八八丁以下。天池及び築廻付近に関するもの。)に照らすも直ちに信をおけない。当審四回公判証人岩井武雄は「二四日夜中野方へ行くとき各自別別の自転車に乗った。久永には日頃自分が使用していた自転車を貸し、自分は同居人の川添から借りた自転車を使用した。中野方へ行く前田名の仕事現場からの帰りに久永に自転車がなかったので、自分の自転車を貸すことにして、久永方にそれを置き、自分は徒歩で帰宅してから川添の自転車を借りて出かけた。」旨供述し(六一冊一二六一丁・一二四八丁以下・一二六二丁以下)、その供述は、当審一五回公判証人川添秀雄の「事件発生の二四日夕食後間もなく同居人の岩井武雄が田布路木の中野方へ行くのに同人の自転車が今ないから貸してくれとのことであったので、自分の赤ノーリツ・コースター・八吋の自転車を貸した。その日以外自分は他人に自転車を貸したことがないように思う。」旨の供述(六九冊四〇四五丁以下)、竝びに当審六回公判証人山崎博の「自分が二四日夜九時半頃久永方に行った際、久永の母サイ子が炊事場に立っており、久永が寝間の上がりかまちに腰かけ、同人の弟恵工が炊事場付近の土間に立ち、弟勝也は布団の中にいた。同人方入口まできたとき入口右側の表道路側に自転車が置いてあったので、お客がきているのかと思った。久永方では自転車を持っていない。」旨の供述(六三冊一九一〇丁以下・一九五二丁・二〇三七丁裏)によっても裏付けられる(もっとも、岩井証人は久永に貸した自転車は返ってこないでそのままになっていると供述するに対し、竹下サヲリ・岩井ちゑ子は検察官に対し右自転車は後日返還されたよう供述する((四八冊一八八五三丁以下・四八冊一八八五九丁以下))が、該各供述は岩井証人の当審四回公判六一冊一二四六丁以下の供述に照らし真実に反するものであることが窺われる。なお六一冊一二四八丁裏に「湯田の山口銀行」とあるのは「西の町の山口銀行」の誤りである。八五冊九三三一丁以下参照。)。これらに、前掲阿藤・松崎の当審公判各供述によって認められる同人らが同夜各その自転車を使用した事実を合わせ考えると、二四日夜阿藤・松崎・久永・岩井武雄の四人が、田布路木の中野末広方への往復に際し、各自一台宛の自転車を使用したものと認めなければならない。この事実は、後記認定の同夜久永が中野方から一旦帰宅して再び外出したのち、阿藤が「チャンジュウ」と呼びかけて自転車で久永方前を通過した事実とうらはらをなし本件解明の重要な鍵点である。

久永の前掲の当審公判での「自分が岩井から借りた自転車に乗り岩井も別の自転車に乗って中野方へ行ったのは二三日のことである云々」の供述竝びに二次控訴審四七回公判での「二三日仕事が済んでから岩井と二人で田布路木へ行ったよう思う。その夜常会があって、中野が留守であったので、中野のいるところまで訪ねて行き、岩井が何か品物を貰って自分と一緒に帰宅した記憶がある。」旨の供述(三六冊一四二一五丁以下)は、前段認定に引用の各証拠のほか、当審証人岩井武雄の「二三日には中野方へ行った記憶がない。」(当審四回公判供述六一冊一三九一丁以下。当審証人尋問調書中八五冊九二三四丁裏以下)、「中野方へ行って同人をその外出先まで訪ねて行ったことはない。」(同証人尋問調書中八五冊九三〇二丁裏以下)旨の供述、二次控訴審一九回公判証人中野良子及び同審二〇回公判証人中野末広の「久永と岩井の二人で自分方に賃金を貰いにきたことの記憶はない。」旨の各供述(二次控訴審一九回公判調書中二一冊七三五八丁以下。同審二〇回公判調書中二一冊七五〇九丁裏以下)に反するのみならず、久永自身の、上告趣意書中「自分は二三日午後五時頃田名から帰宅後岩井と二人で徒歩で田布路木へ賃金を貰いに行った。自分はその際八時過に帰宅したが、岩井は途中から帰宅した。」旨の記載(久永上告趣意書七冊一八二六丁裏以下)竝びに検察官に対する「自分は一月二三日午後六時頃阿藤の母に頼まれてランプ油を持って行き、その夜は阿藤方に泊った。」旨の供述記載(久永検四九冊一九二〇二丁裏)にも反し到底信用の余地がない。しかも、久永の二四日夜の行動に関する以上の供述の変化は、同人の当審二八回公判での弁解(七九冊七六四二丁裏以下)によるも、一向に要領を得ず全く納得することができない。

(2) 二四日夜中野方への往復に際し阿藤が使用した自転車について。

阿藤は当審二六回公判で「自分が二四日夜中野方への往復に使用した自転車は、田名からの帰途稲田に依頼して人島の自宅から持ってきてもらったもので、中野方から久永と二人乗りして帰る途中チェーンが切れた。それを二五日に妹に言ってなおさせた。」旨供述し(七八冊七二〇三丁裏以下・七三三九丁裏・七二二〇丁裏)、さらに右チェーンの切れた場所につき二次控訴審四六回公判で「チェーンが切れたのは石地蔵を過ぎ天池の手前である。」旨供述する(三五冊一四〇三二丁裏以下。二人乗りして帰ったとの点については前段(1)で否定するところである。残る問題は阿藤の自転車のチェーンが同人の言うとおり天池で切れたか、どうかの点及びその自転車が果して阿藤方のものであったかどうかの点である。)。

しかるに、

(イ) 前掲阿藤・松崎・久永の当審公判での各供述によって認められる同人らが岩井武雄と共に久永方から田布路木の中野方に出発するに際し、阿藤が故障のない自転車を使用した事実、

(ロ) 当審四回公判証人岩井武雄の「二四日夜中野方へ行くため六時半過頃久永方に集った際、阿藤が今くる途中自転車のチェーンが切れたので八海橋手前東の橋の樋門のところの小屋にてぶらかしてきた(置いてきたの意)と言いながらも自転車を持ってきていたことは間違いなく、同人がその自転車に乗って中野方へ行った。」旨の供述(六一冊一二五五丁以下・一二六二丁)、

(ハ) 当審八回・二次控訴審六四回・六五回各公判証人木下六子の「二四日夕方阿藤と一緒に八海の上田方から平生の久永方へ行き途中八海橋のところで、阿藤は一緒にいた稲田に、上田から自転車を借りてくるよう依頼し、久永方近くで阿藤が稲田から自転車を受取った。」(当審八回公判六四冊二二七八丁以下・二二八九丁・二次控訴審六四回公判調書中四六冊一八一四〇丁以下・一八二〇九丁同審六五回公判調書中四七冊一八五一九丁裏以下)、「その後自分が阿藤の妹サカヱと一緒に松崎方から帰る途中岩井商店付近で阿藤と出会った際同人がチェーンの切れた自転車を持っていた。」(当審八回公判六四冊二二九二丁・二次控訴審六四回公判調書中四六冊一八一四九丁以下・同審六五回公判調書中四七冊一八三九二丁以下)、「岩儀商店前で阿藤に出会ってからのち妹サカヱは自分らより先に帰り、自分と阿藤の二人は上田方へ帰った。その際チェーンの切れた自転車を阿藤が上田方に持ち帰った。」(二次控訴審六四回公判調書中四六冊一八一四九丁以下)、「岩井商店前で阿藤と出会った際同人が持っていたチェーンの切れた自転車に妹のサカヱは触っていない。」(二次控訴審六五回公判調書中四七冊一八三九二丁以下)、「自分は人島の阿藤方に自転車があったという記憶が全然ない。」(二次控訴審六四回公判調書中四六冊一八一三八丁・同審六五回公判調書中四七冊一八五〇二丁裏以下)旨の供述、

(ニ) 当審五回公判証人上田節夫の「二四日夕刻自分方に阿藤・木下六子・稲田がきて阿藤に自分方の部屋を貸すことにして同人らが出て行ったあと、稲田が引き返してきて阿藤に自転車を貸してもらえまいかと言ったので、稲田に自分の自転車を渡した(八海橋上で稲田が阿藤に自転車を渡すのを見たとの点は、これが供述に際しての前後の状況竝びに前掲木下証人供述に照らし措信しない。)。その夜遅く阿藤が帰ってきた際、同人が田布路木へ行く途中八海の池のところの樋門の辺で自転車のチェーンが切れたため歩いて行ったので遅くなった、と言った。自分は二五日昼前その自転車を修理してから徳山の徳本組へ燃料廠で働いた金をもらいに行った。自転車を修理した店は八海の字は知らないが“シンジョ”という店である。自分は二四日午後五時頃阿藤に自転車を貸したことは事実である。」旨の供述(六三冊一六六六丁以下・一六九〇丁以下・一七〇一丁裏以下・一八一七丁・一八六五丁以下)、

(ホ) 裁判官の証人上田節夫尋問調書中「二四日夜一一時か一二時頃阿藤が自分方に帰ってきた際、八海橋の樋門で自転車のチェーンが切れたので、平生座入口の自転車屋で自転車を借りて田布路木へ行ってきた、と言った。二六日阿藤・稲田らと平生座に行った際平生座の中で阿藤・稲田から阿藤が自転車を自分から借りたことを黙っているようにも頼まれた。」旨の供述記載(四九冊一九二六一丁以下・一九二六九丁裏)、

(ヘ) 二次控訴審一九回公判証人中野良子の「二四日夜阿藤らが田布路木の自分方にきた際、誰が言ったかはっきり判らないが、自転車のチェーンが切れたとか、外れたとか、兎に角チェーンのことを言っていた。チェーンのことが話に出たことを覚えている。」旨の供述(二一冊七三四一丁裏以下。同証人の供述は、正木・原田両弁護人の執ような反対尋問にもかかわらず、自転車のチェーンが切れたというのは阿藤らが中野方へくるまでのことであったことに一貫している。)、

(ト) 後記(3)で認定の二四日夜平生町の久永方前を“チャンジュウ”と呼びかけて自転車に乗って通った者が阿藤である事実、

(チ) 当審二六回公判での阿藤の「自分は二四日夜中野方からの帰り久永方前を経て平生座前を通り岩儀商店前に出た。」旨の供述(七八冊七三三九丁裏・七二八八丁以下)

を総合して考察すれば、阿藤が二四日夜田布路木の中野方への往復に使用した自転車は、最初稲田に依頼して上田から借り受けた自転車ではなく、同自転車のチェーンが途中で切れたため、久永方と岩儀商店との間のどこかで、これと取り替え入手した別の自転車であり、阿藤は中野方からの帰途久永方前を通過したのち、右のどこかでその自転車と先に置いてあったチェーンの切れている上田の自転車とを取り替え、これを押して岩儀商店前付近に差しかかった際木下六子・妹サカヱに出会い、その後これを上田方へ持ち帰ったものと認めざるを得ない。

当審八回公判証人木下六子の「二四日夜岩井商店前で阿藤に出会ってからチェーンの切れた自転車を妹サカヱが持って帰ったように思う。」旨の供述(六四冊二三三五丁裏)は、同証人の同公判でのその後の「岩井商店前から自転車を押して帰ったのは妹と思うが余り細かいことをよく覚えていない。その点前の公判で述べたことも記憶にない。」(六四冊二三三六丁以下)「岩井商店前から自転車を誰が押して帰ったかについては今記憶にない。」(六四冊二三四九丁以下)旨の供述竝びに前掲二次控訴審六四回・六五回公判での同証人の各供述に照らし、同証人の記憶違いに基くものとみるべきである。

証人阿藤サカヱは一審四回公判で「二四日夜岩井商店前で兄と出会った際同人から自分が自転車を受取って乗ろうとしたときチェーンが切れていた。二五日自分がその自転車を平生町土手町須山自転車店へ持って行ったとき、主人が出てきたが、店員の時政に修繕してもらった。」旨供述し(二冊四二四丁以下)、二次控訴審四四回公判でも「二四日夜岩井商店前の広い道に出る辻で阿藤と出会った際同人から自分が自転車を受取って乗ろうと思ったらチェーンが切れているので押して帰った。二五日朝その自転車をチェーンの修理に世山自転車店へ持って行った。」旨供述する(三四冊一三三五二丁以下・一三三六八丁裏以下)が、以上の各供述は同公判での同証人の「誰になおしてもらったかはっきりしたことを覚えていない。時政という人は八海の方の家の人だと福屋シズエからときどききいていたので、前に証人に出たとき、その名前を錯覚してから言うたんではないかと思う。」旨の供述(三四冊一三三六九丁以下)、二次控訴審四〇回公判での証人阿藤小房の「二四日のあくる日サカヱがチェーンが切れたのを世山で川尻の息子になおしてもらったということを、二六年の夏警察がききにきたときサカヱが言ったのをきいた。時政ではない。」旨の供述(三二冊一二二六五丁以下)、阿藤サカヱの検察官に対する供述調書中「自分は母小房から次の内容の手紙を貰ったが、自分は世山自転車店の川尻に自転車をなおしてもらった、と母に話した記憶がない。(手紙原文の写を同調書に添付。その文面―・卜部検事が大阪まで行って調べたのですか、自転車の件を阿藤サカヱの証言に世山自転車店の時政という店員に修理したというが、世山には時政という店員使ったことがないので、サカヱの証言ウソというわけといったが、大阪迄行って調べたのか、以前の事が、私のきいたのは川尻とサカヱにきいたといったのです。)」旨の供述記載(阿藤サカヱ検四三冊一六七五六丁以下)、二次控訴審三三回公判証人木下六子の「チェーンの切れた自転車を修繕に出したことを知らない。」旨の供述(二八冊一〇四八〇丁裏)に照らし既に信用できないのみならず、世山作槌の検察官に対する供述調書中「自分は平生町土手町で自転車修理販売業を営んでいるが二六年一月当時自分方に“時政”またはそれに似た名前の店員を使用したことはない。終戦前後頃阿藤の母が自転車の修繕を頼みにきた記憶がかすかにあるが、二五・二六年になってからは阿藤方からの自転車の修理を頼みにきたものは誰もいない。」旨の供述記載(世山作槌検四三冊一六七五一丁以下)、竝びに前記上田節夫が二五日同人の自転車を修繕したとの点に関する神所武人の検察官に対する供述調書謄本中「自分は昭和二一年暮頃から同二七年四月頃までの間八海で自転車修理販売業を営んでいた。昭和二六年一月二五日上田が自分の店に自転車の修理にきたことがある。その後同人が警察に逮捕され、二、三日して釈放されてから右修理代金の残二〇〇円を払いにきたことはあった。その代金は四〇〇円であったと思う。それらのことについては当時警察からきた黒縁眼鏡の人に話してあるはずである。どんな修繕であったかはいろいろの客があり修繕も多いので思い出せない。本人の上田がチューブとチェーンを取替えペタルのねじを取替え後タイヤに傷あてをしたとのことであるが、自分にはその点思い出せない。当時中古品を使えばチューブ・チェーン各一本の取替ができた。」旨の供述記載(神所武人検四八冊一八八一六丁以下。上田の代金が四〇〇円であるとすれば、同人はチェーンの取替のみでなく、その際兼ねて他の箇所の修理をも依頼したとも推測され、代金四〇〇円であることからチェーンの取替をしたことまで否定することはできない。)垰博一の検察官に対する供述調書謄本中「自分は上田節夫とは青年団で顔見知りであった。事件のあった夜の翌日である昭和二六年一月二五日朝九時半頃平生の帰りに増野方に寄って事件をきき、それから神所自転車店に寄った際上田が神所方で自転車を修繕してもらっていた。どこを修理していたか記憶にないが分解する程大がかりなものではなかった。自分が神所方で上田に会ったのは二五日朝に間違いない。」旨の供述記載(垰博一検四八冊一八八二一丁以下)、佐伯武の検察官に対する供述調書謄本中「自分は昭和二六年一月当時熊毛地区警察署岩田駐在所に巡査として勤務していた。同月二五日本署からの連絡で早川惣兵衛方捜査本部に午前一〇時から一〇時半頃までの間に自転車で到着し、付近の店の聞き込みをやった。午前中神所方にも寄ったと思う。当時自分は黒縁眼鏡をかけていた。」旨の供述記載(佐伯武検四八冊一八八二七丁以下)、土手タマヱの検察官に対する供述調書謄本中「二五日八海事件のことをきいて現場に行ったが警察が繩張りをして中に入れないので帰った。その日から自分方に聞き込みにきた刑事の手帳に、その日上田が麻郷の方から自転車で帰り自分に時間をきき、一一時二〇分だと自分が答え、上田は自転車がなおったので一一時五〇分の汽車で行かねばならぬといい判を探して行った旨自分が刑事に話したよう書いてあるとのことであるが、自分の記憶としては上田が二五日朝自転車を修繕したといったのをきいた。また、上田が自分方家の斜め南方で自転車を出し手で後輪を回している姿を見た記憶がある。それが朝早くか、自転車がなおってからのことかは記憶にない。」旨の供述記載(土手タマヱ検四八冊一八八三二丁以下)、司法警察員富山義敬の各捜査報告書中「上田節夫が二五日朝自転車を四〇〇円で修理したと言って帰宅した事実がある。」旨(昭和二六年一月二五日付四三冊一六七七六丁裏)及び「上田は二五日神所自転車店で自転車の車体の取替をして四〇〇円借りて内二〇〇円支払った事実がある。」旨(同月二七日付四八冊一八九九六丁裏)の各記載に照らすも信用できない。

(3) 一月二四日夜平生町久永方前を声をかけて通過した者は誰か。またその時刻等について。

久永当審三三回公判供述(八六冊九九二四丁以下)・阿藤当審三三回公判供述(八六冊九八八五丁裏)・当審四回公判証人岩井武雄供述(六一冊一二七六丁以下)・当審六回公判証人山崎博供述(六三冊一九四七丁以下)によれば、久永の渾名は“チャンジュウ”か“チャンサン”のいずれかで、岩井武雄のみは“チャンサン”と呼んでいたのに対し、阿藤・稲田・松崎はいずれも“チャンジュウ”と呼んでいたことが認められる。そして、山崎博上申書(二冊四〇八丁)・一審証人山崎博尋問調書(一冊一一七丁)の各記載、二次控訴審二六回公判調書中証人山崎博供述(二五冊八九六二丁裏)、当審六回公判同証人供述(六三冊一九二一丁裏以下)、二次控訴審四五回公判調書中証人久永恵工供述(三五冊一三六四二丁裏)、一審五回公判調書中証人久永サイ子供述(二冊四五四丁裏)、二次控訴審三一回公判調書中同証人供述(二七冊九九〇二丁裏以下)、同審三八回公判調書中同証人供述(三一冊一一八四〇丁以下)を通じてみれば、一月二四日夜久永方前を通った者の呼び声は“チャンサン”ではなく、“チャンジュウ”であったことが認められ、すでにこのことからしても、その呼び声の主は岩井武雄ではないことが明らかであり、且つこれに、同夜中野方からの帰途松崎に次いで阿藤が久永方前を通った事実(前掲阿藤・松崎の当審公判での各供述)、右呼び声がかけられたのは松崎が久永方前を立ち去った後のことであった事実(一審五回公判調書中証人久永サイ子供述二冊四五一丁以下)を合わせ考えれば、右声の主は阿藤であったと認めざるを得ない。しかも当審六回公判証人山崎博の供述(六三冊一九二三丁以下)によれば、右呼び声がかけられた時刻は、久永が中野方から一旦帰宅して再び外出してから一五分ないし二〇分位のちの午後一〇時前頃で、且つ前記引用の証人山崎博・同久永サイ子の各供述及び山崎博上申書の記載によれば、久永方居間で山崎博が酒を飲み、久永の母サイ子がその傍らで右山崎のシャツの襟飾りをつけていた際のことであり、その際阿藤は自転車に乗ったまま久永方前を通過したことが認められる。なお、右声の主が阿藤であったことは当審四四回公判証人岩井武雄の「自分は二四日中野方から松崎・久永・阿藤の順で帰ったのち、一一時頃中野方を出て一一時半頃帰宅したが、久永方前を通ったことはない。その方が遠道になるし、別に同人方に寄る必要も理由もなかった。」旨の供述(六一冊一二六九丁以下)により一層明白である。

この点に関する前掲久永の当審公判供述は以上の認定に照らし、自己が同夜中野方から帰宅後再度外出したことを隠蔽するための全くの嘘言であることが明らかである。殊に、その供述中その際の久永方家人や山崎等の状況に関する部分は前記認定と異にし、且つ前記呼び声が「チャンサン」であったり「チャンジュウ」であったりすることは真にその声をきかなかったことの証左であり、いずれも久永が外出中の不知の間のできごとであったことを物語るものにほかならない。

なお、証人久永恵工は当審一一回公判(六六冊三〇一九丁裏)・二次控訴審四五回公判(三五冊一三六四二丁裏)・一審四回公判(二冊四三〇丁)で、また証人久永サイ子は当審九回公判(六五冊二六〇八丁裏)・二次控訴審三一回・三八回公判(二七冊九九〇三丁・三一冊一一八三九丁裏以下)・一審五回公判(二冊四五四丁)で、いずれも前記呼び声の主は岩井武雄であった旨供述するが、その各供述は前掲引用の証人山崎博の各供述及び山崎博上申書の記載中に一貫して「久永方前を“チャンジュウ”と声をかけて通ったとき、サイ子が戸をあけて外へ出て見てから、あれは周ちゃん(阿藤の意)しゃろう、と言った。」とある点に照らすも到底信用することができない。のみならず、当審四回公判証人岩井武雄の「自分が一月二九日久永方に行った際同人の母サイ子から、二四日の晩家の前を“チャンジュウ”と声をかけて通ったのは、あんたにしてくれ、と頼まれ、そのため山崎が岩国の検察庁に呼び出しを受けて出頭する前夜同人の勤務している駐在所にサイ子と二人で山崎を訪ねたことがあるが、同人は巡回中で不在であった。サイ子はその際何か手紙を書いていた。自分は同じように働いているし、皆おばさん達もよくしてくれるので、つらい気になってしまった。二月に第一回目に検察庁に呼び出しを受けて出頭する前松崎方へ行った際、松崎・久永・阿藤三人の母がいて、同人らから、岩井さんあんた忘れてはいかんからここで覚書を書きなさい、と言われて、書いたのが証一〇三号の書面である(註その内容―二四日久永宅六時三〇分集合七時発田布路木中野宅へ(チンギン)を取りに行き阿藤久永松崎と私の四人で行く。松崎九時一〇分阿藤、永久一〇時頃。私は一一時頃一一時三〇分頃帰り久永の前でチャンジュウと声をかけると返事がないので二・三間先に行くと戸の開く音がしたが、おそいので止まらずに帰った。家で間もなくして前の時計一二時をうつ。阿藤オーバ白、下駄松崎黒服。)。その記載にある時間と自分が久永方前を通ったとの点は事実に相違することがらであり、服装のことは阿藤の母と松崎の母に言われて書いたものである。久永と阿藤と二人が一緒に帰ったようにあるのは、久永のおばさん達から、一人で帰ったより二人で帰った方がいいんじゃないか。と言われたのでそうしたが、どうしてそれが都合がよいのか自分には判らない。」旨の供述(六一冊一二八三丁裏以下・一三六三丁裏以下。一二八六丁裏一一行目に「松崎のおばさんと阿藤のおばさん」とあるを「松崎のおばさんと久永のおばさんと阿藤のおばさん」と速記録訂正につき八六冊九八〇一丁裏参照。)に照らし、右証人久永サイ子・同久永恵工の前記認定に反する各供述は、共に肉親の情から出た偽証であったと認めないわけにはゆかない。してみれば、これらの供述は、これに副う証一〇三号の記載及び岩井武雄の警察以来二次控訴審二一回公判迄の供述と共に採用することができない。

(4) 阿藤・久永は中野方から一緒に帰ったのか。

阿藤・久永はいずれも当審で、同人らは阿藤の自転車に二人乗りして一緒に中野方から帰宅した旨供述し、且つ阿藤は久永方前で同人と別れた旨供述するが(前掲当審公判供述)、その虚言であることは、前段迄の認定により既に明らかであるのみならず、久永の「平生町横土手新道路十字路で阿藤と別れて帰宅した。」旨の供述(警一回四冊八八三丁裏。二次控訴審検証調書添付第一図一五冊五一八〇丁によれば当時久永方は右十字路付近ではない。)に照らすも信用すべからざることが明らかである。

(5) 二四日夜中野方から帰宅の順序と、その後の被告人らの行動。

(イ) 以上の各認定事実に当審四回公判証人岩井武雄の「中野方から松崎・久永・阿藤・自分の順に別々に帰った。」旨の供述(六一冊一二六九丁以下・一三三四丁以下・一三九九丁以下)、一次控訴審証人中野良子尋問調書中その供述として「(二四日夜阿藤・松崎・久永の三人は、初め誰か一人帰り、あとの二人はその後連れ立って帰ったのではないか、との問に対し)いいえ三人別々に帰った。」旨の記載(六冊一一七八丁裏)、二次控訴審一九回公判調書中証人中野良子の供述として「二四日夜自分方にきた阿藤・松崎・久永・岩井の四人は皆別々に帰った。」旨の記載(二一冊七三〇〇丁)、阿藤・松崎の前掲当審各公判供述を総合すれば、二四日夜田布路木の中野方から松崎・久永・阿藤・岩井武雄の順に各自自転車に乗って帰途についたことが認められる。その後の被告人らの行動に関する判断は次のとおりである。

(ロ) 久永について。

久永は平生町の自宅に同夜九時三十分頃山崎博がくる前すでに帰宅し、同人がきてから四・五分位のち再び外出し、同夜遅く八海の上田節夫方に他の被告人らと共に立寄り、深夜一二時過頃母サイ子と山崎博とが同衾中帰宅した。

右の事実は、

一、当審六回公判証人山崎博の「一月二四日夜九時三十分頃自分が久永方へ行った際、久永が寝間の上がりかまちに腰かけ、母サイ子が炊事場に立ち、弟恵工がその付近の土間に立ち、弟勝也が布団の中にはいっていた。四・五分して久永が外出したのち恵工に自転車を入れてもらい、間もなく自分は酒を飲み出し、一一時頃から休んでいるうち、久永が帰ってきて外から“おかあ”と叫んで硝子戸をがたがたさせたので、たまげて押入れの中に隠れた。自分が押入れに隠れたのはサイ子と同衾し関係していたからである。四・五分して押入れから出たときには、サイ子が火鉢に座っていた。恵工・勝也は睡っていた。久永も布団の中にはいっていた。それから一〇分か一五分位して一時頃かに久永を出た。」旨の供述(六三冊一九〇四丁以下)竝びに、これに対する久永の反対尋問に際し交わされた次の各供述(六三冊二〇三一丁裏以下)、

久永「僕は一〇時頃田布路木を帰ったんです。山崎巡査は九時三〇分頃うちにおった、と言われるでしょう。ほじゃから、僕の行動としちゃ九時三〇分はおかしいんじゃないんですかとききよるんですが。」

山崎証人「僕が行ったときには、あんたがおったから、ほでおったというんです。」

………中略………

久永「僕が腰かけておったという。僕じゃないんじゃがね。腰かけとったのは。」

山崎証人「いいえ。あんたがかけとったです。」

裁判長「あんたが久永方へ行ったときには、隆一はあがりのとこのかまちのとこに腰かけとった、とこういうんか。」

山崎証人「はい。」

久永「僕はうちのとにかくもうちょっとうちのお母さんにあした仕事へ行くのに早いから、あした早う起してくれんかというようなことを覚えておらんですか。その日に。」

山崎証人「それは一番最後のことでしょう。」

久永「最後じゃないんですよ。僕が帰ってすぐ僕が寝るときにお母さんに言うたんですよ。」

裁判長「そういうことは言ったんか。久永は。」

久永「私が、押入れにはいっておるときか、寝てからじゃったと思うんですが、あのときにお母さんあした早う起してくれ、徳山のところへ行かないけんから、ということを言ったです。よしよし言うて。」

裁判長「いつごろ言いよった。」

久永「それは押入から出たときですね。かはいっとるときか。」

裁判長「押入れにはいっとるときか、押入れを出てからか、あんたこう言うんか。」

久永「はい。」

裁判長「そういうことは言ったというんだ。押入れにはいっておったようなことは判っておるんじゃないんか。判っておらんのか。」

久永「僕は帰ったら、山崎さんの自転車が食堂の方に、自転車がはいっておったと思うんですが。」

裁判長「押入れの点違うのか。違わんのか。あんたが戻ってから押入れから出たんが、寝間にはいったときに。」

久永「僕はね……」

裁判長「そういうことは判らんのか。」

久永「僕は押入れから出たんじゃなしに、僕が帰ったら押入れにはいって、それから大分して山崎さんが出ちゃったんです。僕はそういう記憶が残っているんです。」

裁判長「証人。今言うことは判ったか。」山崎証人「とにかく、あんたは外から帰ってきたときに、お母さん言うたときに、がたがたいうから、たまげて私は中にはいったんです。」

久永「それで、すぐじゃなしに、ずっと長いことはいっておったで。」

山崎証人「あまり……」

久永「僕が寝静まる迄ははいっておったんでしょう。すぐじゃなしに。」

山崎証人「それは、あまりひさしくははいっておらざったと思います。」

裁判長「無理に聞かなくてもいいんだがなあ。」

久永「僕今の気持は九時半とか、何とか言うけ、はがいんですよね。」

裁判長「はがいけりゃ、そういう点をあなたが一番よく知っているんだから、答えられるように尋ねたらええんだ。」

久永「僕は一〇時四〇分頃帰ったんじゃから、あんたが言うのは九時半・九時半いうて。」

山崎証人「僕は九時半頃と思う。」

………中略………

久永「僕帰ったときには、火鉢のまわりに銚子徳利やら何やらみな出とったと思うんじゃがね。」

山崎証人「それは私はちょっと覚えん。」

一、久永の上告趣意書中「中野方より帰ったのが丁度一〇時三、四〇分過と記憶します。帰ってみると、普通出入口の方の戸に錠がおりていたのでガタガタと音をさせると、母が出てきてあけてくれましたので、家にはいりました。そのとき何時も借りて乗る見覚えのある山崎巡査の自転車が店の中に置いてありましたので、山崎巡査がきているのに気がつきましたが、素知らぬふりをして部屋にはいった。弟二人は既にやすみ、母一人が火鉢のそばで針仕事をしていた(このとき山崎巡査は素早く押入に隠れていた。)……中略…… 時間も遅いので明日徳山に仕事に行くための弁当の準備と朝六時に起してもらうよう頼んで弟の傍にはいり眠った。……中略…… 山崎巡査は以上の状況を(私が床に入ってから、山崎巡査は押入から出て母と話していた。)充分知っていると思います。云々」の記載(七冊一八二〇丁裏六行目以下)、

一、久永の当審二八回・二九回・三〇回各公判を通じての前掲各供述。なかんづく、二八回公判での裁判長の「この裁判所で山崎博元巡査を調べたとき、同人は二四日夜あんたが家へ帰ったとき押入れに隠れたというようなことを言っていたね。」「その事実はあったのか。」との問に対する「それが事実はその僕は公判のときに記憶があるのはあったんです。云々」との供述、前堀主任弁護人の「上告趣意書に書いてあるような書きっぷりでゆくと、あなたが帰ってきたときに山崎巡査がすでにきておって押入れに隠れたと、あなたが帰ってきたので体裁が悪くて押入れに隠れたんだというふうに読むような書きっぷりになってると思うんですがね。あんたもそういうふうに思っていたか。この上告趣意に書かれてあることだけからいうと、そうなると思っていたか。」との問に対する「ええ。僕が帰って、山崎さんが帰ったと思ったらはいって、それから僕が寝て、それから山崎さんが出てきたと、そういうふうな。」との供述、続く同弁護人の「そういうふうなのは、その当時の記憶だったんですか。」との問に対する「ええ。」との供述、竝びに前掲(3)に判示するように、右各公判を通じての、同夜久永方前を岩井武雄が声をかけて通り過ぎたとの供述及びその際の久永方家人や山崎等の状況に関する供述は、むしろ久永が中野方から帰宅後再度外出したことを物語るものである事実、

一、証人木下六子の当審八回公判(六四冊二二九六丁以下)・二次控訴審六四回・六五回各公判(同各公判調書中四六冊一八一五五丁以下・四七冊一八四一〇丁以下)を通じての供述及び証人上田節夫の当審五回公判供述(六三冊一六九六丁以下)によって認められる久永が二四日夜一一時頃以後に八海の上田節夫方に他の被告人らと共に立ち寄った事実を総合してこれを認める。

久永は前記のとおり当審二八回公判で、裁判長の「この裁判所で山崎博元巡査を調べたとき、同人は二四日夜あんたが家へ帰ったとき押入れに隠れたというようなことを言っていたね。」、「その事実はあったのか。」等の問に対し「それが事実は、その僕は公判のときに記憶があるのはあったんです。で、その前に僕が公判廷で述べたことと、それから現在お母さんが言ってることや、こう比べてみて、どうもその判っきりせんことになってしもうた。」、「どうも、その方が二四日の日は押入れへはいったんでなしに、間違うておるんじゃないかと僕は今思うんです。」、「僕が帰ったときには山崎巡査はおりません。」、「山崎がきたとき、僕は寝ておりました。」(七九冊七六三〇丁以下)と各供述する。そこで、この点に関する久永及び母サイ子の供述経過をみると、久永は一審一〇回公判では「自分が寝てから山崎がきた。」旨(五冊九八五丁裏)、二次控訴審四七回公判では「自分が帰ったとき山崎はいなかったように思う。」旨(三六冊一四二一九丁裏)、「途中目がさめて初めて山崎の声がしたようだから、きていることが判った。」旨(三六冊一四二二一丁裏以下)各供述し、上申書中には「自分が家にはいったとき丁度山崎巡査は火鉢の側にいた。」と(久永上申書六冊一二九四丁裏)、また上告趣意書には前掲のとおり各記載し、久永サイ子は当審九回公判で「山崎がきたとき隆一は布団の中にはいっていた。」旨供述する(六五冊二六〇〇丁以下)ほか、警察以来一貫して同旨の供述をしている(久永サイ子警一回四八冊一八九〇五丁裏・警二回四八冊一八九〇七丁裏・一審五回公判調書中証人久永サイ子供述二冊四五三丁・二次控訴審三一回公判調書中同証人供述二七冊九九〇一丁・同審三八回公判調書中同証人供述三一冊一一八二九丁)。これによってみれば、今さら「前に僕が公判廷で述べたことと、それから現在おかあさんが言ってることや、こう比べてみて、どうもその判っきりせんことになってしもうた。」との前記久永の当審二八回公判での弁解は全く理解できない。反面前記山崎証人の反対尋問に際し交わされた問答からして、久永には二四日夜帰宅時の状況として、山崎の自転車が店内に入れてあった事実、山崎が一旦押入に隠れて久永が就寝した頃押入から出てきた事実、久永が就寝に際し母サイ子にあす朝徳山へ行かなければならないから早く起してくれと依頼した事実、且つそれが山崎がまだ押入に隠れている間か押入から出てからかは判然しないが、いずれにしても山崎が押入に隠れた夜のことであった等の記憶の存することが明らかであり、しかもこれらの記憶が前掲山崎証人の供述に一致する事実を看過するわけにはゆかない。

また、久永は当審二八回公判で「二四日夜自分が中野方から帰宅した時間は一〇時半頃で、確かその際家の時計を見たと思う。」(七九冊七七一八丁以下)、「山崎は自分が帰宅してから一〇分位のちにきた。」(七九冊七七一八丁。山崎が久永帰宅後一〇分位後に久永方にきたとの点はともかく、以上の供述は結局山崎が一〇時四〇分頃久永方にきたことを表明するものと解す。)旨供述するが、その供述は、これに先行する久永の同公判での「山崎は自分が寝てからきたので、その時間がもう一一時になっておるか一二時になっておるか判らない。」旨(七九冊七六九九丁裏以下)などの供述経過等(前掲当審公判供述参照)に照らしすでに信用できないのみならず、久永の当審六回公判証人山崎博の反対尋問に際しての裁判長の問に対する「自分は二四日夜一〇時四〇分頃帰宅した。」旨の供述(六三冊二〇三七丁裏)、警察での「二四日夜自分は一一時一〇分前に帰宅して就寝した。」旨の供述(久永警一回四冊八八三丁裏)、検察庁での「二四日夜自分が帰宅したのは一〇時二〇分頃である。」旨の供述(久永検四九冊一九一六八丁裏)、一審一〇回公判での「二四日夜自分は一一時に一〇分か一五分前に帰宅した。」旨の供述(五冊九八五丁裏)、最高裁判所第三小法廷宛上申書中の「二四日夜自分は一〇時四〇分頃自宅にいた。」旨の記載(久永上申書七冊二二一三丁)、二次控訴審四七回公判での「二四日夜自分が帰宅した際時計を見た記憶はない。一〇時半以上過ぎていたんじゃないかと思う。」旨の供述(同四七回公判調書中久永供述三六冊一四二一八丁裏)などからみても到底信をおけない。もっとも、一次控訴審に提出した上申書中には「二四日夜一〇時半頃帰宅した。」旨記載あるが、さらに「自分が家にはいったとき丁度山崎巡査が火鉢の側にいた。」とあって(久永上申書六冊一二九四丁裏)、「自分が寝てから山崎がきた。」旨の前掲当審公判での供述とは全くその際の状況を異にし、いずれも自己の真の記憶に基くものとは考えられない。

さらに、久永は当審二八回公判で上告趣意書の前掲記載に関し「山崎巡査が時間を一時間狂わし嘘ばかり言うので、押入の話を出したら山崎もかぶとを脱ぎ本当の時間を言うものと思い、母に関することではあるがあえて書いてしまった。」旨供述し(七九冊七六六七丁裏以下)、且つ時間の点に関し「山崎証人の平生公民館での供述についてはそうも感じなかったが、伏見裁判の際の供述は一時間違うと自分は思っていた。」旨供述する(七九冊七六九八丁裏以下)。しかし、久永は前掲のとおり当審公判で「上告趣意書作成当時にはその記載のように記憶していた。」旨供述し、また山崎証人は一審平生公民館での尋問に際し「二四日夜自分が久永方に着いた時間は一一時四〇分頃である。」旨供述したが(一審同証人尋問調書中一冊一二二丁裏・一二七丁裏。同証人に対する平生公民館での尋問はこれ以外にない。)、一次控訴審(伏見裁判長係)では右一審での供述を変更して「自分は一〇時のサイレンが鳴ってから四・五分後に駐在所を出て久永方へ行った。久永方までは徒歩で一五分位である。」旨供述しており(一次控訴審同証人尋問調書中六冊一二一二丁裏以下。一二一二丁)、しかもその供述は、久永の前記一次控訴審に提出の上申書中の記載にもほぼ一致するのみならず、一次上告審である最高裁判所第三小法廷宛提出の上告書中には「山崎の第二審での一〇時のサイレンをきいてから出かけたとの証言を採用してもらいたい。」旨の記載がある(久永上申書七冊二二一三丁)ことなどに照らせば、前記上告趣意書作成時の段階では、もはや山崎証人に時間の点について真実を供述させる手段として、母親の恥をさらしてまで山崎が押入に隠れた事実を記載する必要があったものとは認められない。

久永はまた当審二八回・二九回各公判で「自分が帰宅した際山崎が押入に隠れたのは一月中のことではあるが、二四日のことではなかった。自分が山崎証人に当審六回公判でそのことについて念を押したのは、山崎がそのことを認めた場合には二四日に同人は一〇時半頃からきておって母と関係があったんだ、ということの証明になると考えたからである。」旨供述するが(七九冊七六三一丁以下・七六八〇丁以下・七六九一丁以下・八〇冊八〇四七丁裏以下・八〇五〇丁。押入に隠れたのは二四日ではないとの点については久永の母サイ子も同旨の供述をした。当審九回公判六五冊二六〇四丁裏以下・二次控訴審三一回公判調書中二七冊九九四五丁裏)、当審六回公判で山崎証人が裁判長の主尋問に対し、あえて自己の恥をも押え、前記のとおり自分が押入に隠れた事実をすでに供述したのちになって、久永が反対尋問に際し同証人に重ねて右の事実を肯認せしむべき供述を求めた経過・状況等からしても、なぜ山崎がそのことを認めた場合には同人が二四日夜一〇時半頃から久永方にきていたこと等の証明になるのであろうか。もっとも、山崎証人の当審六回公判での供述(六三冊一九二〇丁以下)によれば、同人が久永方で押入に隠れたことが他にも一度あったが、それは同僚の古田某が久永方に訪ねてきて右古田と一緒に久永方から帰った際のことである。これと異り久永の帰宅に際し山崎が押入に隠れた事実については、それが早朝徳山へ行く日(それが一五日であり且つ現に久永が同日徳山へ行ったことは同人の当審二八回公判供述七九冊七六六三丁以下・当審九回公判証人久永サイ子供述六五冊二六一五丁・一審四回公判証人久永恵工供述二冊四三〇丁裏以下・当審一一回公判同証人供述六六冊三〇三七丁裏以下によって認められる。)の前日で、しかも久永が就寝に際し母サイ子に「あす朝徳山へ行かなければならないから早く起してくれ。」と依頼した事実と結びつく夜のできごととして久永及び山崎証人の各記憶に存すること(当審山崎証人の久永の反対尋問に際しての供述・その際の久永の尋問及び裁判長の尋問に対する供述によってそのことが認められる。)からみても、久永の当審公判での前記供述はこれと同旨の当審九回及び二次控訴審三一回各公判での証人久永サイ子の供述と共に採用することができない。要するに、これらの供述は上告趣意書の記載に関する前段の供述と共に、今さら露顕した真実を糊塗するための窮余の弁解に過ぎないものと認めざるを得ない。(山崎博の検察官に対する二四日夜久永方に行った際の時刻・状況は先に提出した上申書に記載のとおりである旨の供述(八四冊九一二二丁以下・九一三四丁以下)は、以上の認定竝びに右山崎が当審六回公判で証人として尋問された際の供述態度・内容((中にも右各検察官調書につき、これに記載の供述は事実と相違する旨の供述がある))及び右山崎の検察官に対する昭和三三年一二月一四日付・同月一五日付各供述調書の記載((四九冊一九二七二丁以下・一九二八九丁以下))に照らし信用できない。)。

弁護人は、当審証人山崎博の二四日夜同人と久永の母サイ子と同衾中久永が帰宅したとの点に関する供述は、これと同旨の久永上告趣意書の記載にヒントを得たものであるとか、あるいは同記載に基く検察官の誘導によるものである旨及び当審証人岩井武雄の証第一〇三号のメモに関する供述は当審証人丸茂忍及び同松崎ツヤの供述によって虚偽であることが明らかである旨主張するが、山崎証言に関する右主張は以上の認定経過に照らし到底採用できない。また右メモに関する松崎証言は岩井証言に照らし信用できないし、丸茂証言では右岩井証言を虚構のものと断ずる資料とするに足りない。

(ハ) 阿藤について。

阿藤は当審二六回公判で、二四日夜中野方から帰宅の途につき久永方前を通り過ぎてからの自己の行動につき「途中泉商店でパンを買い、平生座前を通り岩儀商店前を経て人島の自宅に帰り、風呂にはいってから食事をして就寝したのが一一時半頃である。昼家を出てから何も食べてないので途中買ったパンを食べた。就寝後床の中で賃金を貰えなかったことで母と言い合いをした。妹が、兄さんはあす早いから、それにもう時間も遅い、と言ったので言い合いをやめた。程なく一二時を打つのをきいた。」旨供述する。

しかし、阿藤は、

司法警察員に対しては「久永方前を通り泉商店でパン二個と翌日の弁当のおかずに天ぷら一枚・佃煮五〇匁を買ってから岩儀商店前で妻らと出会い、三人連れで午後一〇時四〇分頃人島の自宅に帰り、風呂にはいって寝たのが一一時半過である。」(阿藤警一回四冊七八九丁以下)、検察官に対しては「久永方前を通り泉商店でパン二個を一個一〇円で買ってから裏町三角の岩井乾物屋のところで妹と木下に会い一一時頃人島の自宅に帰った。」(阿藤検四九冊一九一六六丁裏)、「途中平生町で天ぷら・パン・佃煮等を買い、妹・木下と一緒に人島の家に帰って寝た。」(阿藤検二回四九冊一九一七五丁裏)、「土手町乾物屋泉豊方でパン・佃煮・天ぷら等を買い裏町岩井儀一方付近路上で木下・妹に会い人島の自宅に帰った。」(阿藤検三回四九冊一九二〇一丁以下)、

一次控訴審に提出した上申書中には「久永方前を通り途中土手町泉商店でパン・佃煮を買ってから割木を買おうと岩井商店前付近にきた際妹・木下に会い、三人で人島の自宅に帰り風呂にはいり食事をして就寝したときには一一時半を回っていたと思う。」(阿藤上申書六冊一二六四丁裏以下)、「途中久永方前を過ぎてから一〇時四五分頃曽村と会い、その後女と妹と一緒に帰宅した際一一時を回っていた。」(阿藤上申書六冊一三〇五丁)、

二次控訴審四一回公判では「久永方前を通り泉商店でパン二、三個・佃煮と塩昆布とを一〇〇匁位買いオーバーのポケットに入れてパンをかじりながら帰宅した。途中曽村に出会った。朝割木を買ってきてくれと頼まれていたが、遅くなったので全然買う気はなかった。曽村とは元八代組の車庫のちょっとこちらの側で会った。そこから一〇米位のところで(約二分後)、妹と木下とに出会った。同人らは岩儀商店前を通り過ぎた丁字形の交差点に立っていた。自分は同店を起した記憶がない。一一時少し過に人島の家に帰った。」(三二冊一二五四〇丁以下)、

一審二回公判では「中野方からの帰り泉に寄ってパンと佃煮を買いパンは妹にやり佃煮は翌日の弁当のおかずにした。」

(一冊二〇三丁)、

一審一〇回公判では「久永方前を通ってから佃煮とパンを買い、岩井酒場の前で曽村と会った。少し行くと妹と六子が松崎方へパスを借りに行っての帰りに出会った。パンは妹にやり佃煮を自分が持って人島の家に帰ったのが一一時半頃で、それから風呂にはいって寝たのが一二時過である。」(五冊九七九丁裏以下)、

検察官事務取扱検察事務官に対しては「中野方から帰宅したのは一〇時四〇分頃である。」(阿藤検弁解録取書中七五冊六四三三丁)

旨供述または記載し、

阿藤小房は、

司法警察員に対し「一一時過頃周平・娘・六子の三人が帰宅した。時間も相当になっており、よそ様も寝ているので余り物音を立てないように注意して風呂をあたためてやり、周平が風呂にはいり食事を終ってから、一一時三〇分過に自分も風呂にはいって寝たのが零時過である。」(阿藤小房警四九冊一九一四二丁裏以下)、

検察官に対し「二四日夜周平はサカヱ・六子と一緒に一〇時三〇分過頃帰宅した。一〇時のサイレンが鳴ってしばらくした頃周平が帰宅したことに間違いない。」(阿藤小房検四九冊一九一九四丁裏)、「二四日夜人島の家で家族の寝た位置は炬燵を中心にその方に皆が足を向け、台所及び土間側に沿って寝ている自分の方に足を向け自分とは真反対に同じ側に沿って周平と六子とが並び(自分から向い右が周平左が六子)、台所土間側とは反対の側に頭を向けてサカヱと孫とが並んで寝た。」(阿藤小房検四八冊一八八八三丁以下)、

二次控訴審四〇回公判で二四日夕方周平が帰って食事をするものと思い待っていたが、帰らなかったので、自分らは先に食事を済まし、他の者は皆風呂にはいったが、自分だけは風呂にはいらずに待っていた。午後一〇時半に時計を見てから間なしにサカヱが自転車をついて帰り、それから間なしに木下・周平の二人が帰った。周平の食事中に自分が風呂にはいった。風呂は六子が焚いた。六子が暗いので恐ろしいというのをサカヱが焚かせた。一二時より前に皆寝た。自分は弁当のご飯の支度のため米をしかけて寝たのが一二時過である。寝てから皆がやかましくがあがあ言い合っていたので、自分が朝早いから早く寝なければいけんと言った。(阿藤の二四日夜寝るとき布団の中で自分と母とが勘定のことで口喧嘩をしたことはないか、勘定貰ってこいと。の問に対し)朝のご飯の支度を六子にやらせ、と周平が言った。あるよ、布団の中にはいるまでじゃろう。」(三二冊一二二五一丁裏以下・一二三五〇丁裏以下)

旨供述し、

阿藤サカヱは、

司法警察員に対し「二四日夜自分が六子と松崎方から帰る途中岩儀商店倉庫前を通りがかった際同店を“今晩わ今晩わ”と起しているのをきいた。兄周平であった。兄は薪を買おうと思ったが起きん、と言った。そこから三人で吉兼の横を通り新道路に出て帰宅したのが一一時前頃である。それから兄は風呂にはいり夕食を食べた。自分ら母と六子との三人は炬燵にはいり一二時前頃までぐだりぐだり話をしていた。寝たのは一二時頃である。兄は夕食後炬燵にはいり六子と一緒に寝た。」(阿藤サカヱ警四九冊一九一三九丁以下)、

一審四回公判で「二四日夜自分と木下六子の二人が松崎からの帰り裏町に上る岩井商店の前で兄周平に会った。その際“今晩は”と起す声がしていた。兄は自転車を押しておりパン一個・佃煮・天ぷらを持っていた。三人は一一時頃帰宅した。それから兄と母とが風呂にはいりご飯を食べて寝た。」(二冊四二三丁以下)、

検察官に対し「二四日夜人島の家で自分・母・健一の三人は同じ布団にはいり、風呂場側に沿い時計の方に頭を向け、風呂場側からみて母・健一・自分の順で並んで寝た。兄・六子の二人は一緒に風呂場側とは反対の道路側に頭を向けて寝た。」(阿藤サカヱ検四八冊一八八八〇丁以下)、「二四日夜自分・木下の二人が松崎方の帰り岩井商店付近にきたとき、同店の方で“今晩わ今晩わ”と呼ぶ声をきいた。木下が今頃遅く誰が店を起しているのだろうか、顔を見てやろうかと言って立ち止まったとき、一人の男が自転車を押して自分の方にきた。兄周平であった。同人は母に頼まれて割木を買って帰ろうと思い店を呼んだが起きんのじゃと言った。その付近で兄からパン一個貰った。自分は家に近くなってから一足先に家にはいった。一一時に一五分位前かと思う。時計は見ていない。家に帰ってから見たら兄は豆と昆布と一緒の佃煮を五〇匁位・細長い天ぷらを一枚か二枚持っていた。帰ってから、母が風呂をあたため、兄がはいった。その後母が食事の準備をして食べさせ、その後片付も母がした。寝たのは一一時半頃と思う。布団の中で母と周平がごだごだ言った。自分がもう一二時になるから寝ようと言った。そのとき枕元の柱時計が一二時を打った。」(阿藤サカヱ検八四冊九〇九〇丁裏以下)、「一月二四日夜自分と六子と母の三人がパンを三つに分けて食べた。昆布と天ぷらは弁当のおかずにし残りは家で食べたと記憶する。」(阿藤サカヱ検八四冊九一〇九丁裏)、

二次控訴審四四回公判で「二四日夜木下と一緒に松崎方からの帰る途中“今晩わ”と起しておる声をきき立ち止まってみた。こちらへきたら兄であった。それから一緒に帰った。兄と出会った場所は細い道から岩井商店前の広い通りに出る辻である。兄はパン一個を持っていた。それを自分が貰った。帰宅して兄は風呂にはいり食事して寝た。寝床にはいってから母と兄との間でやりとりがあった。そのうち一二時が鳴ったのを覚えている。自分が一二時になったんだから寝ましょうと言ったので静まった。内容はお金のことか、どういう話かはっきり判らない。兄は余り言わなかったが母がなんとかかんとか言っていた。その夜寝た位置は、兄と六子の反対側に自分と健一とが頭を向け(表からみて自分・健一の順)、母は健一の横か家の裏側の方に頭を向けて寝た。」(三四冊一三三五一丁裏以下・一三四〇〇丁裏以下、一三四〇七丁裏以下)

当審一一回公判で「二四日夜阿藤と出会った際阿藤からパン・天ぷら・佃煮を受取って帰ったように思う。帰宅したのは一一時前頃である。帰ってから兄は風呂に入ってから食事をしたように思う。兄と母の言い合いは一二時。それから黙って寝た。言い争いはお金のことである。その夜は母が風呂を焚いたと思う。岩儀商店の前で“今晩わ”と三べんか四へん言った。それで人のくるのを待っているところに兄がきた。声は誰か全然判らなかった。自分は何年間もあのときの声を兄と思っていたが、今度兄にきいたら兄は自分でないと言った。その夜は月夜であったと思う。明るかった。」(六六冊二九二三丁・二九四五丁裏以下・二九四九丁以下)

旨供述し、

さらに、木下六子は従前

司法警察員に対し「二四日夜阿藤の妹と二人で松崎方から引き返す途中岩儀商店前で阿藤に出会った。その際阿藤は割木を買って帰ろうと思ったと言った。帰宅後阿藤が服を脱ぐ間に、自分が風呂を焚きそえて、阿藤が入浴してから夕食を食べたのは一〇時頃である。阿藤が夕食中阿藤の母が入浴し、自分らは阿藤の夕食後寝た。床にはいってから、阿藤の母が今日勘定貰ってきたか、ときくと、阿藤がおやじさんが留守で貰えなかった、と答え、さらに母が勘定貰ってこんにややっていけんじゃないか、と言って、阿藤と口喧嘩をした。自分は阿藤の手枕で寝た。午前一時の柱時計は知っているが一二時は知らなかった。」(木下六子警三冊五一六丁裏以下)、「二四日夜阿藤が夕食時になっても帰ってこなかったので自分らは先に食事をした。午後一〇時過頃阿藤が帰宅し入浴後食事をして直ぐ寝た。」(木下六子警四八冊一九一〇一丁以下)、

検察官に対し「二四日夜人島の阿藤方で家族が寝た位置は炬燵を中心にして皆その方に足を向け、自分と阿藤は炬燵に向い自分が右阿藤が左に一緒に寝、母が自分・阿藤から炬燵に向って左側で勝手場入口とは反対方向に頭を向け、妹が自分・阿藤から炬燵に向って右側に各寝た。したがって自分・阿藤の真反対の炬燵の側には誰も寝ていない。」(木下六子検四八冊一八八八五丁以下)、

一審三回公判で「二四日夜自分と阿藤の妹の二人が松崎方から帰る途中岩井商店前で阿藤に出会い三人一緒に帰宅したのが一一時前である。阿藤は岩井商店前で戸を叩かず声をかけていた。」(同三回公判調書中証人木下六子供述二冊三八九丁以下・三九一丁裏)、

二次控訴審三三回公判で「二四日夜松崎方からの帰り阿藤が“今晩わ今晩わ”と声をかけていた。同人は割木を買うと言ったが、自分が買わんでもあしたでいいと言って、一緒に帰った。一一時頃か一一時前頃家に着いたように思う。阿藤は風呂にはいり食事をして寝た。風呂はもうわかしてあった。阿藤がはいってからたきかえた。自分は床の中で柱時計が一二時になったのを知っている。ぽんと一時が鳴るのを夢現に覚えている。阿藤がその夜自分らと会う前にパン・塩昆布を持っていたと思う。一つしかないパンを三人位で分けて食べた。」(同三三回公判調書中証人木下六子供述二八冊一〇三六二丁裏以下・一〇三六六丁裏以下)、

二次控訴審三七回公判で「二四日夜自分らは阿藤より先に夕食を済ましていた。風呂にもはいっていたように思う。自分と阿藤の妹が松崎方から帰る途中岩井商店前で“今晩わ今晩わ”と無性に叫んでいる人がいた。妹がお兄ちゃんじゃないの、と言ってその方へ近寄って行った。自分らがその方へ近寄るまでそこにじっとしていた。自分は阿藤の声とは判らなかったが阿藤であった。阿藤は薪を買って帰らんにゃと言ったが、自分がもうええと言って連れ合って帰った。帰宅してから阿藤がハン・塩昆布・佃煮を持っているのを見た。阿藤は帰宅してから食事もし風呂にもはいったが、そのどちらが先であったか判らない。自分も阿藤と一緒に風呂にはいった。その夜阿藤方で寝た位置は炬燵を中心にして自分と阿藤とは東の方の母屋の方に頭を向け、阿藤の母が裏の入口の方の風呂の方へ頭を向け、妹と孫とが母の反対方向に寝た。床にはいってから誰が朝ご飯をたきに起きるか、と言った者がある。」(同三七回公判調書中証人木下六子供述三〇冊一一五七一丁以下・一一五七六丁裏以下)

旨供述している。

以上の各供述を仔細に検討すれば、阿藤はじめ各自の供述間には、二四日夜阿藤が人島の自宅に帰宅した際の状況等につき多く異なるものがあるのみならず、同一人の供述でさえその間に矛盾する点があって一貫しないもののあることが明らかである。アリバイを主張する者の供述としてはまことに腑に落ちない。ことに、阿藤が当審公判で同夜帰宅後就寝に際し中野方で賃金を貰えなかったことで母と口喧嘩したように供述しながら、どのような内容の発言をしたかについての裁判長の尋問に対しては、その返答に窮した。しかも、右の口喧嘩については、つとに木下六子が一月二九日司法警察員の取調べに対し供述しているかにかかわらず(前掲木下六子警三冊五一八丁以下)、阿藤は当審二六回公判で(七八冊七二九三丁裏)、また阿藤の妹サカヱは二次控訴審四四回公判で初めて自己の供述として言いだしたもので、このことは、口喧嘩の当事者であるはずの阿藤の母小房が、二次控訴審四〇回公判でそのことに関する阿藤の尋問に対し前掲のとおり、まともな供述をすることすらできなかったことと合わせて不可解というほかない。もし、それが真実であったとするならば、「当時木下もきているし、金のいることで母が不機嫌であったらしく、中野方で賃金を貰えなかったことに小言を言ったことから言い合いになった。」(当審二六回公判阿藤供述七八冊七三四六丁以下)との事実の如きは、阿藤の当審公判供述からみて同夜の特に印象に残るべきできごととして、木下六子ひとりのみならず、阿藤ら家族の記憶に存するものと考えられるにもかかわらず、阿藤及びその家族によって早期にこのような事実が語られなかったことは、同夜阿藤が真に人島の自宅に帰宅して就寝したとの事実を疑わせるに十分である。果して、証人木下六子の当審八回公判(六四冊二三一六丁裏以下・二四六七丁以下・二三六七丁以下)・二次控訴審六四回(四六冊一八一二八丁裏・一八二四五丁・一八二七二丁以下)・六五回公判(四七冊一八四二二丁裏以下・一八四二六丁以下・一八四三一丁以下・一八五一四丁裏以下・一八五〇一丁裏以下)供述によれば、同人のこれに関する前記司法警察員に対する供述は、阿藤の依頼により且つは阿藤を庇う自己の心情から、他の就寝時の状況等と共に二四日夜阿藤が人島の自宅に帰宅したものと偽るための虚構の供述であったことが明らかであり、さらにこのことと前述の供述経過等からみれば阿藤・阿藤サカヱ等のこの点に関する前記供述はいずれも後日木下の右供述に気がつき、これに符合させるためのものであったと考えざるを得ない。

ともあれ、証人木下六子の当審八回公判・二次控訴審六四回・六五回公判での各供述及び証人上田節夫の当審五回公判での供述によれば、阿藤は二四日夕刻一旦人島の当時の自宅に帰ったが(このことは、当審一一回公判証人阿藤サカヱの二四日阿藤が中野方へ行く前一度帰ってきたようにも思う旨の供述によっても窺われる。)、その朝稲田を通じて八海の上田方に間借りするよう依頼してあったことから、木下六子を連れて右上田方に行き同人から間借りすることの承諾を得て平生町の久永方へ寄ったうえ、同人・松崎・岩井武雄と共に田布路木の中野方へ出かけた。一方木下六子は、上田方では若い男が一人であるため人島の阿藤方で同人の帰宅を待つことにし、同人と一緒に上田方を出た序に久永方でうどんを食べさせてもらうことになり、久永方近くまで行ったが、同人方に他人が集っている気配がしたため直ちに引き返して人島の阿藤方でその帰宅を待った。その後阿藤の妹サカヱと共に平生町の松崎方へパスを借りに行っての帰り、たまたま一〇時過同町裏町の岩井儀一商店付近で中野方から帰宅途中の阿藤に出会った(その地点は阿藤二次控訴審四一回公判供述三二冊一二五四三丁裏及び同審検証調書四五冊一七五四九丁第二図によれば岩井商店西南角に該当)。妹サカヱのみはひとり人島の家に帰ったが、阿藤・木下の二人はその足で八海の上田方に帰り、阿藤は直ちに再び外出して八海橋に向って出かけたのち、同夜一一時過頃上田方に他の被告人らと相前後して帰り、同人らが立ち去ったのち上田方で木下六子と共に就寝したことが認められる(四六冊一八一三七丁以下・四七冊一八三六〇丁以下・六四冊二二七六丁以下。同丁裏以下に二三日のこととして供述している点は二二八一丁裏以下によれば二四日のことの言い違いである。六三冊一六七六丁以下)。

阿藤は「上田方に間借することは二五日徳山から帰える汽車中で同人の承諾を得た。」旨供述する(二次控訴審五一回公判調書中三八冊一五〇九〇丁裏以下・上申書六冊一二六五丁裏)が、該供述は前掲証人木下・上田の各供述、就中証人上田の「最初二四日朝稲田がきて阿藤らに間借りをさせてくれんかと言った。その際自分はよく考えてみると答えた。その日午後五時過稲田が阿藤を連れてきて『実は今朝話してあった件じゃが、阿藤に今夜から家を貸してやってもらえまいか。』とのことであった。木下六子も一緒であった。父が福屋に留守番を頼んであった関係上『福屋にまだ相談してないのでいけん。』と答えると稲田が『あんたの家じゃろうが。あんたここの主人だから貸してもええじゃないか。』と言った。自分はそれもそうだと思い貸すことにした。自分が前に二五日に貸したと言ったのは、稲田・阿藤から『人に聞かれたら二五日から泊ったと言ってくれ。』と頼まれていたからである。」旨の供述(当審五回公判六三冊一六七〇丁以下)に照らしては勿論、証人岩井武雄の「阿藤が上田方を借りるという話は田名でされた筈である。」(当審四回公判六一冊一三九〇丁。同証人及び被告人らの従来の供述によるも同人らが田名で会ったのは二四日が最後である。)、「一月二四日の事件のあった日の仕事に取掛る前にひと休みしている際、阿藤が何のことからそんな話が出たか只今思い出せないが、お袋と喧嘩をして家におられんから上田節夫の部屋を借りたからその方に引越そうと思っていると言ったのを聞いた。」(裁判官の証人尋問調書中四九冊一九二二七丁)旨の供述に照らすも信用することができない(なお、証人樋口豊も「二四日に麻郷の阿藤の家かそれともあの近所の橋で集まって云々」((二次控訴審五三回公判調書中三九冊一五四一四丁以下))、「徳山の帰り阿藤と出会った当時阿藤は家を借りていたように思う。八海橋を渡った側の辺である。何日たってからかははっきり覚えないが、向うへ変ったよう聞いた。事件の晩は向うの家じゃなかったかと思う。」((当審七回公判六四冊二二〇六丁以下))旨供述している。)。

(ニ) 稲田について。

稲田は当審二七回公判で、自分は二四日仕事の帰り久永方に寄り阿藤と一緒に久永方を出てから昼に置いてあった弁当箱を取りに阿藤方に寄った。その際阿藤から頼まれて同人方から自転車を持ってきて途中で待っていた阿藤に渡した。それから阿藤が八海の吉岡方へ行くのに一緒について行ったが、阿藤のみが吉岡方を訪ね自分はその側にいた。その後帰宅して夕食後福屋へ行ったが翌朝早く福屋の治郎が餠つきに出かけるとのことであったので、いつもより早く同人方から帰宅して寝ているとき松崎が訪ねてきて、あしたから徳山の仕事に行くように言われ、その際徳山で貰うことになっていたドラム罐の賃金を一緒に貰ってきてくれと頼まれ同人から印鑑を預かった。松崎が帰ってからは就寝してその夜は外出していない旨供述する(稲田の上申書六冊一二八七丁以下・二次控訴審四一回公判調書中三二冊一二五四五丁以下・上告趣意書七冊一五九五丁以下も概ね同旨。)。稲田が二四日夕食後福屋方へ行ったことは福屋治郎の検察官に対する供述調書の記載(福屋治郎検一冊二三三丁以下)・一審四回公判調書同証人福屋ユキの供述記載(二冊四一七丁以下)によって認められる。しかし、稲田が持ってきて阿藤に渡した自転車は人島の同人方からのものではないことは前段認定のとおりであり、また稲田が阿藤と一緒に吉岡方へ行ったとの点は、その際の状況に関する阿藤供述に必ずしも一貫しないものがあって疑わしい(すなわち阿藤は、当審二六回公判で「自分が、稲田に自転車を持ってきてもらってから、それを押して吉岡方へ行った。」七八冊七二〇〇丁以下・七二〇六丁以下、司法警察員に対し「稲田に持ってきてもらった自転車に乗って吉岡方へ行った。」警一回四冊七八七丁裏、一次控訴審に提出の上申書に「吉岡方で、同人の兄が、吉岡は朝から出ていて今日は帰らないかも判らん、と言った。」六冊一二六三丁裏、「吉岡が二四日も朝から酒飲んでいなかった。」六冊一三〇四丁裏、二次控訴審四一回公判で「吉岡方へ行った際、兄が吉岡は朝から出てひとつも帰ってこない。いつ帰るか判らぬ、と言った。」三二冊一二五三六丁、当審二六回公判で「吉岡方では兄が吉岡は夕べから戻ってこないと言った。」七八冊七二〇〇丁裏以下、旨供述または記載している)。しかも、その各供述及び記載によれば右のように吉岡方を訪ねたのは地家に支払うべき謝り酒代金の取立のためであったというにあるが、当時阿藤が吉岡に対しその全額について請求できる筋合でなかったことは勿論、その一部についても請求できる実情でもなかった(従って一部についても請求の真意があったとは認められない。)ことは前掲二の(一)に認定のとおりであり、このことからしても二四日仕事からの帰りに吉岡方を訪ねたとの前記稲田・阿藤の各供述及び記載は納得できない。証人木下六子の当審八回・二次控訴審六四回・六五回各公判を通じての供述によれば、前段認定のように、二四日夕刻阿藤は一旦人島の当時の自宅に帰ったが、木下六子を連れ出し稲田と一緒に八海の上田節夫方に行き同夜から同人方に間借りすることの承諾を得たのち、阿藤・木下六子の二人は平生町の久永方へ向かったことが認められ、その間少なくとも阿藤が吉岡方を訪ねたことはなかったものと認めざるを得ない。(この点に関し、二次控訴審四六回公判証人吉岡渉は二四日夕刻阿藤・稲田のいずれもが吉岡を探して同人方を訪ねた記憶がない旨供述している。三五冊一三九一四丁。)さらに、右木下証人の各供述によれば、稲田は同夜一〇時過阿藤・木下六子の両人が平生町から前記上田節夫方へ帰るに際し八海橋西詰付近で阿藤の帰宅を待ち受けていたことが認められ(稲田がいた地点につき二次控訴審六四回公判調書中四六冊一八一五〇丁以下・一八二一六丁以下・当審八回公判六四冊二三七二丁裏以下)、且つ同証人の各供述に当審五回公判証人上田節夫の供述を合わせると同夜一一時過阿藤らと共に右上田節夫方に立ち寄り深夜帰宅した事実が認められる。したがって、同夜福屋方から帰宅後外出したことがない旨の前記稲田供述は全く虚言であると判断される。

なお、二四日夜稲田方に松崎が来訪したのが、二五日からの徳山での仕事の連絡と前記ドラム罐の仕事の賃金の受取の依頼のためであったかは極めて疑問とされる。前者については、後記松崎についての判断に譲るが、稲田が松崎から右賃金の受取方を依頼されて同人の印鑑を預ったとの点につき稲田は検察官に対し、また二次控訴審四一回公判でも当審でしたと同様の供述をしているが(四九冊一九一七〇丁裏以下・三二冊一二五四七丁以下。一次控訴審に提出の上申書中にも同旨の記載がある六冊一二八七丁裏。)、この点に関し松崎は当審二七回公判で稲田にその際印鑑を預けた記憶がない旨供述するのみならず、右賃金の受取り方を依頼した事実については何ら触れるところがない。もっとも松崎は検察官に対し、その際給料を貰ってきてくれるよう依頼した旨供述するが(松崎検二回四九冊一九一七二丁裏)、同人は稲田方へ出かける直前まで二五日徳山へ行くはずの阿藤・久永のみならず殊に右賃金の受取方を依頼されていた岩井武雄と久永方や中野末広方で同席していながら(当審四回公判証人岩井武雄供述六一冊一二六七丁以下。特に同証人は中野方で阿藤・松崎・久永三人から委任状を託されたとすら供述している。)なにゆえ稲田方まできて右賃金の受取り方を依頼し且つ印鑑まで預けなければならなかったのであろうか。不可解であり、この点に関する前掲稲田の供述及び記載はいずれも信用できない(松崎の供述によれば、同人は中野方からの帰途自宅に立ち寄らないまま稲田方にきたのであるから、もし稲田方で同人に印鑑を預けたとすれば中野方へ出発前すでに印鑑を所持していたことになる。)。

(ホ) 松崎について。

松崎の当審二七回公判供述によれば、同人は二四日夜、阿藤・久永・岩井武雄に先んじて中野方を出、途中久永方に立ち寄ったのち麻郷の福屋ユキ方に稲田を訪れたが、同人がすでに帰宅したのちであったことから直ちに八海の稲田方を訪れ、さらに人島の阿藤方に回り同所から阿藤の妹サカエ・木下六子と連れ立って平生町の自宅に帰り同人らにパスを渡したというにあって、右の事実及び松崎が同夜自転車を使用していたものであることは、前段までの認定によって明らかである。しかし、松崎が一審公判以来当審二七回公判でも供述するように、同人が中野方から他の者に先んじて帰り稲田方を訪ねた理由が同人に対し二五日からの徳山での仕事の連絡等のためであったか、また阿藤の妹サカエらにパスを渡したのち外出しなかったとの点については疑なきを得ない(松崎の一審一〇回公判調書中五冊九六一丁以下・上申書六冊一二九九丁以下・上告趣意書七冊一八三九丁以下・二次控訴審四四回公判調書中三四冊一三五一二丁以下にも以上の当審二七回公判供述と概ね同旨の記載がある。)以下これらの点について判断する。

阿藤は当審二六回公判で、「二四日夕刻岩井方に寄り同人と一緒に久永方へ行った際金森がきていて、徳山に人夫がいるとのことであった。自分・久永・稲田・岩井の四人がその仕事に行くことにし、松崎は下松の方の受験のためもう一人二人いるときまで待つことにした(七八冊七二一一丁以下)、金森は自分のよく知らない人である。岩井が自分ら仲間の代表責任者であったので、金森は一応岩井に話をされたんじゃないかと思う(七八冊七二七六丁以下)。徳山の仕事はアパート建設の穴堀り工事ときいていたが(七八冊七二一八丁裏)、二五日徳山へ行ってみたら仕事始めで現場の足場を作ったり、なんだりということで穴をやらず、自分らは歌舞伎座の方の丸太棒片付けなど整理仕事を一日仕事で請けて昼まで働いた。岩井は汽車に乗り遅れてあとからきた(七八冊七二一九丁以下・七三五九丁以下・七三七一丁裏以下・七二九〇丁以下)。」旨供述するが、司法警察員に対しては「中野方へ行くため久永方に寄った際岩井がきていて、間もなく平生町新町の人夫頭をしている金森のまっちゃんが岩井を訪ねてきた。明日から徳山のアパートの仕事へ行ってくれとのことであった。二五日徳山で歌舞伎座の仕事をした。」旨供述し(阿藤警一回四冊七八八丁以下・七八九丁裏)、さらに一次控訴審に提出の上申書中には「二四日中野方へ行く前岩井方へ寄り二人で久永方へ行った。丁度そこへ平生町新町の金森某がきて、明日から徳山のアパート建設に人夫が四人程いるから誰か行ってくれないか、と言うので、自分・岩井・久永・稲田の四人が行くことにした。」とあって(阿藤上申書六冊一二六三丁裏以下)これらは前記当審公判での供述と二四日夕刻久永方に金森某がきた際の状況を異にし、また二五日の徳山での現実の仕事の状況に関しては、稲田・久永とも前記当審阿藤供述と概ね同様の供述をする(二次控訴審四一回公判調書中稲田供述三二冊一二五四八丁裏以下・当審二八回公判久永供述七九冊七六六四丁以下。前掲のとおり久永供述は極めて曖昧ではあるが。)が、同被告人らの以上の各供述は次のことがらからして、いずれも真実に反するものと認められる。すなわち、二次控訴審四七回公判久永供述(同公判調書中三六冊一四二二三丁)・阿藤上申書の記載(六冊一二六五丁以下)によれば、同人らの二五日徳山で就労したという工事は清水建設請負のものであるところ、これに関する同建設の人夫出面表(証第一〇一号の一)には阿藤・稲田・久永が同日右工事に就労した旨の記録がなく(同出面表によれば同人らの就労は二六日からである。)、且つ証人岩井武雄の二次控訴審二一回公判での「二四日中野方へ行く前久永方で金森に会った記憶がない。」(二二冊七七九〇丁裏以下・七八二六丁裏以下)、当審四回公判での「二五日徳本組へ金を貰いに行った。金森まっちゃんという人は名前だけ知っている。つきあったことはない。二四日に同人に会ったことはない(六一冊一二九一丁裏以下・一三二八丁・一三六六丁以下。一二九二丁一一行目に二六日とあるのは二四日の誤りにつき八六冊九八〇二丁・九八〇七丁裏以下で訂正。)。二五日自分は徳山に行った際清水建設のアパート工事現場に行ったら阿藤らがいた。阿藤らがそこに行くことは前夜中野方できいていたので寄ってみたのである。そのとき阿藤らは何も仕事をせずに遊んでいた。徳本組に行ってから歌舞伎座の方へ回った。それは阿藤から、徳本組の用事が終ったら、歌舞伎座の方にくるように言われていたからである。阿藤らはその際も相変らず仕事もせず、先方が使ってくれないので、そこで遊んでいた。阿藤らは、歌舞伎座の方でも工事をやっていたので、仕事を見付けに行ったものと思う。」(六一冊一二九一丁裏・一二九三丁以下・一二九六丁以下)旨の各供述及び当審証人岩井武雄尋問調書中「阿藤らは二四日夜中野方で徳山へ行くことを話していたが、自分はその夜中野方へ行く前に久永方で金森まっちゃんに会った記憶がない(八五冊九二四四丁以下)。自分は徳山へは徳本組からドラム罐の賃金を貰いに行ったのである。徳本組へ行くときアパート工事の方に立ち寄ったところ、阿藤らは責任者がおらんから仕事をさせてくれんと言って何もしてなかった。今度歌舞伎座の方へ回ってみるといったので、徳本組からの帰途歌舞伎座の方へ寄った。そこでも阿藤らは仕事がなく遊んでいた。その際同人らはかたまって話をしていた。仕事に使ってくれんとの話を聞いたような記憶もある。同人らは仕事を終ったという様子も見られなかった。そこで弁当を皆と一緒に食べた(八五冊九二四七丁以下・九二五六丁以下・九三一六丁裏以下)。自分は二五日以後は汽車賃を使ってまで徳山へ行くより平生で仕事をした方がよいと考えていたので二五日に阿藤らと共に徳山に仕事を探しに行く気持はなかった(八五冊九二四四丁以下)。二四日夜自分が二五日から徳山の仕事へ行くことになってはいなかった(八五冊九二四六丁・九二八三丁)。阿藤らが徳山へ行く話は久永方で中野方へ行く前に聞いていた(八五冊九三一一丁裏以下・九三三五丁裏以下)。」旨の供述記載によれば、阿藤・稲田・久永の二五日徳山で清水建設請負の工事現場で就労した旨の各供述は全くの偽りで、同人らが同工事で就労したのは二六日からのことであったとみなければならない。同被告人らの右各供述は、検察官に対する吉岡健(二九冊一一一三八丁以下・一一一四九丁以下)・西村正(二九冊一一一五二丁以下)・内藤友一郎(二九冊一一一六五丁以下・一一一七九丁以下)・佐川操(二九冊一一一一六丁以下)・松岡豊(二九冊一一二八〇丁以下)の各供述調書中同人らの供述として、金森の世話できた人夫が徳山の清水建設の工事現場で働いたのは二六日からである旨の各記載に照らし一層信用できないものであることが判る。しかも、岩井証人の前記供述及び供述記載によれば、二四日夕刻阿藤らが中野方へ出発のため久永方に集った際同人方に金森某が訪ねてきた事実がなく、且つ同夜同証人が阿藤らから同人らが二五日に徳山へ行くことの話を聞いた場所は中野方のみならず同人方へでかける前の久永方でもあったことからすれば、二四日夕刻右久永方での集合前すでに同人らの間には二五日徳山へ行くことの約束ができていたもので、さらに被告人らの当審公判供述によって認められる同人らの二四日の行動(稲田も同日午後四時過頃までは他の被告人らと行動を共にしていた。)からして、稲田もまたそのことを知っていたものと認めなければならない。してみれば、松崎の一審以来当審二七回公判までの、二四日夜同人が中野方から他の者に先んじて帰途についたのは稲田に対し二五日からの徳山での仕事の連絡等のためであったとの供述もまた極めて不可解というほかない。なお、松崎は当審二七回公判で同人が二五日徳山へ行かなかったのは下松の受験の関係からである旨供述するが、その供述も、同人の同公判での直ぐその日の夕刻徳山の仕事の様子を聞きに阿藤方を訪ね同人と会った結果翌二六日から自分も徳山の仕事に行くことになった旨の供述(七九冊七五五〇丁七五五一丁裏以下・七六一五丁裏以下)に照らし疑なきを得ない。

さらに、証人木下六子の当審八回・二次控訴審六四回・六五回各公判供述、当審五回公判証人上田節夫の供述によれば、松崎もまた二四日夜一一時過頃阿藤・稲田・久永と共に八海の上田節夫方に立ち寄り深夜帰宅した事実が認められ、同夜自宅で阿藤の妹サカヱ・木下六子にパスを渡してからは外出したことがない旨の松崎の前記供述は採用の余地がない。

(6) 二四日夜の被告人らの行動に関する時刻について(後記認定の時刻及び時間は、これに関する資料がいずれも経験上正確なものであり得ないことから、すべて凡その時刻・時間を意味するものである。)。

(イ) 阿藤について。

阿藤は当審二六回公判で「午後一〇時頃田布路木の中野方を出発した。」(七八冊七二一七丁・七三三八丁以下)旨供述するほか従前も同旨の供述をし(検四九冊一九一六六丁裏・検三回四九冊一九二〇一丁・一審一〇回公判調書中五冊九七九丁・二次控訴審四一回公判調書中三二冊一二五三九丁裏・検弁解録取書七五冊六四三三丁)、且つ一次控訴審提出の上申書に「久永方前を一〇時半頃通り一〇時四五分頃曽村某に出会った。」(六冊一三〇五丁)、「岩井商店前まで来た際曽村某に出会った。」(六冊一二六四丁裏)旨各記載するが、右はいずれも二次控訴審六四回公判証人木下六子の「二四日夜人島の阿藤方から阿藤の妹サカヱと松崎について同人方へ出かける途中人島を出て細い道から大道路へ出、次に田の中の細い道に入りかけたとき確かサイレンが鳴った(四六冊一八一四六丁)、一〇時のサイレンをきいたのはたんぼ道を三分の一位はいったところである。その際松崎がおっつけ周ちゃんが帰ってくる、と言った(四六冊一八二〇三丁以下)。(松崎方からパスを借りて帰る途中岩儀商店付近で阿藤に出会った(四六冊一八一四八丁裏)。」旨の供述、当審四回公判証人岩井武雄の「二四日夜阿藤は九時半頃中野方を出た。」旨の供述(六一冊一二七〇丁)、前記(3)で認定の同夜阿藤が中野方からの帰途平生町久永方前を一〇時前頃自転車に乗り“チャンジュウ”と呼びかけて通過した事実に照らし信用できない。そして、右木下証人の供述による一〇時のサイレンをきいた地点から平生町岩井儀一商店西南角を経て南東に向い松崎方に至り更に同じ道を引返して右岩井商店西南角迄の徒歩所要時間を一・二次各控訴審検証結果(一次控訴審検証調書六冊一二三一丁第六図によれば前記木下証人のいうたんぼ道を経て岩井商店西南角迄は約二二八米、同地点から南東の道を経て松崎方迄の間は約一〇五米。これに二次控訴審検証調書一五冊五一五二丁一一行目記載の八海橋西詰・同東詰間徒歩所要時間約一分三〇秒((一次控訴審検証調書六冊一二三一丁第三図によればその間約一二〇米。従って毎分約八〇米。))を援用。)により算出すると約四分三〇秒で、さらに当審一〇回公判証人松崎ツヤの「松崎は一〇時ちょっと過ぎに帰り直ぐ手入をあけて出て直ぐはいった。」との供述六五冊二七五六丁裏により木下六子・阿藤の妹サカヱが松崎方でパスを借りるのに約一分を要したものとみると、前記(5)(ハ)で認定の阿藤と木下六子らとが出会った岩井商店西南角付近での時刻は凡そ一〇時五・六分頃(計算上は約一〇時五分三〇秒)である。これに基き、前記(2)で認定の阿藤の中野方からの帰途に際しての自転車の使用状況と二次控訴審検証に際しての右帰途に関する阿藤の指示(四五冊一七五二五丁一行目以下・これに添付の第二図)とに従い同人の久永方前通過時刻を一・二次各控訴審検証結果等(一次控訴審検証調書六冊一二三一丁第二図によれば吉本表具店前から大内橋迄は約二七〇〇米、同審検証調書六冊一二三六丁の図面によれば、右大内橋から久永方迄は約二五二米、二次控訴審検証調書四五冊一七五二七丁六行目以下の記載によれば右吉本表具店前久永方間の自転車による所要時間は約一五分一五秒である。この自転車の速度と前記毎分約八〇米の歩行速度を援用して算出すると、一次控訴審検証調書六冊一二三六丁図面及び同審検証調書六冊一二三一丁第六図によって認められる久永方・岩井商店西南角間約七二四米の所要時間は((但し前記(2)で認定の阿藤が自転車を取り替えた場所を証人上田節夫の尋問調書四九冊一九二六二丁の記載により平生座前付近と認定。従って久永方から平生座に通ずる道路の手前迄の約五六一米を自転車、その余の岩井商店西南角迄の約一六三米を徒歩によったものと認定。))約四分五六秒で、これに右自転車の取り替えに要した時間を約二分、後記認定の阿藤が岩井商店を呼び起していた時間を約一分と認定。)により算出すると一〇時ちょっと前頃(計算上は約九時五七分三四秒)で、前掲当審六回公判証人山崎博の“チャンジュウ”と呼びかけて久永方前を通過した際の時刻についての供述とほぼ一致する。また、中野方から平生町宇佐木吉本表具店付近の国道までの徒歩所要時間は約四分(二次控訴審検証調書の記載によれば、中野方・平生町国道間の徒歩所要時間は四分強―一五冊五一五三丁七行目以下。なお久永の二次控訴審四七回公判供述によれば、右区間を徒歩で通過したことが認められ、当審検証の結果によるも、同区間の地形からみて阿藤らもまた同所を徒歩で通過したものと認める。)、同地点から天池を通り久永方前までの自転車による所要時間は約一五分一五秒であるから(二次控訴審検証調書四五冊一七五二七丁六行目以下)、中野方出発時刻は凡そ九時三八分頃(計算上は約九時三八分一九秒)となり、阿藤の司法警察員に対する第一回供述調書(当審二九回公判の阿藤供述によれば、同調書の記載は真実であるという八〇冊七七九五丁)中同人の「二四日夜自分は九時四〇分頃中野方を出た。」との供述記載(四冊七八九丁)に一致するのみならず、当審四回公判証人岩井武雄の阿藤が中野方を出発した時刻に関する前記供述にも概ね符合する。次に阿藤が木下六子と共に岩井商店西南角から木下が先に通った田の中の道を経て八海橋に通ずる国道上に出、同所から八海橋を渡り八海の上田節夫方に到着した時刻を一・二次各控訴審検証結果等(一次控訴審検証調書六冊一二三一丁第六図によれば岩井商店西南角から田の中の道を経て八海橋に通ずる国道迄は二二八米、同地点から八海橋東詰までは同検証調書六冊一二三一丁第三図及び六冊一一七二丁平生町全図によれば二九五米にその二分の一((同第三図のヘ・ホ間をト・ホ間の約二分の一と認定))の約一四八米を加えた四四三米で以上に前記毎分八〇米の歩行速度を援用して算出すれば、右全区間の徒歩所要時間は約八分二三秒。二次控訴審検証調書一五冊五一五二丁一一行目の記載によれば八海橋東詰・同西詰間徒歩所要時間は約一分三〇秒、同西詰・上田節夫方間は一次控訴審検証調書六冊一二三一丁第三図及び二次控訴審検証調書一五冊五一八一丁第四図から勘案して八海橋西詰・福屋ユキ方((図面中福谷とあるは福屋の誤記と認める。))間の約四分の一。従ってその徒歩所要時間は同検証調書一五冊五一五二丁裏一二行目以下記載約二分の四分の一の約三〇秒。以上合計約一〇分二三秒、岩井商店西南角で費した時間を約三〇秒とみて以上を前記一〇時五分三〇秒に加える。)により算出すれば凡そ一〇時一六分頃(計算上は一〇時一六分二三秒)となり、さらに阿藤が上田方から直ちに引返して八海橋西詰に至った際の時刻は右時刻に三〇秒を加えた凡そ一〇時一六・七分頃(計算上は約一〇時一六分五三秒)となり、それより当審検証現場で吉岡が阿藤・久永に出会ったという八海橋上の地点に至り得る時刻は(同橋西詰から五八米の地点六七冊三三二五丁。その間の所要時間を前記毎分八〇米の歩速を援用算出すれば約四三秒。これを前記西詰の時刻に加算。)凡そ一〇時一七・八分頃(計算上は一〇時一七分三六秒)となり、この時刻は前掲吉岡が阿藤・久永に出会った凡その時刻として供述するところと符合するものとみるべきである。なお前記阿藤の上田方到着時刻はこれと同行した証人木下六子の供述(二次控訴審六四回公判供述「一〇時のサイレンきいてから一〇分か一五分して上田方に着いた。」四六冊一八一九二丁。当審八回公判供述「上田へは一〇時過位に行った。」六四冊二三七一丁。)にも概ね符合する。

阿藤は一次控訴審に対し「中野方からの帰途一〇時四五分頃曽村某に会った。」旨記載の上申書を提出し(六冊一三〇五丁)、且つその場所及び状況に関しては「岩井商店前にきたとき店がしまっており、曽村某に会い“今晩わ”と拶挨をした。曽村も岩井に酒を買いにきたのだが、店がしまっておりいくら起しても駄目なので仕方なく帰るところであった。」(上申書六冊一二六四丁裏)、「曽村には元八代組の車庫のちょっとこちら側で会った。」(二次控訴審四一回公判調書中三二冊一二五四三丁)、「曽村と会った場所は二〇七二丁の図面のとおりで赤点が自分の歩いた道である。」(二次控訴審四七回公判調書中三六冊一四三一九丁裏。右図面には、岩井儀一方家屋の北隅前道路上で阿藤と曽村とが出会ったよう記載されている―七冊二〇七二丁。)「岩井酒場の前で曽村に会った。」(一審一〇回公判調書中五冊九七九丁裏。岩井酒場とは岩井商店の意と解す。)、「岩儀では前に人が“今晩わ・今晩わ”と声をかけて起きなかったので自分は声をかけずに素通りした。」(当審二六回公判七八冊七二六〇丁裏以下)、「平生座前を通って岩儀へ出た。トントン・トントンときいた。」(当審二六回公判七八冊七二八九丁)というにあり、また曽村民三は「自分は平生郵便局集配係で平生座舞台方もつとめているが、二四日夜平生座で興行の女天晴の浪花節が一〇時一五分頃に済んでから、岩井商店に酒を買いに行った。俳優が酒を買ってきてくれといったのである。浪曲が済んで一五分位してから行った。遅かったので四口位起したが起きなかったので土手町の鈴木商店にも行った。同店でも起きなかったので自分は帰った。岩井から鈴木へ行く途中新市と裏町の境辺で一間半位の隔りで自転車を押している人に声をかけられた。声で阿藤だろうと思う。同人と会ったのは一〇時三五分か四〇分頃である。」(一審三回公判調書中証人曽村民三供述二冊三八一丁以下)、「二四日浪曲が済んで自分が帰宅したのは一〇時一五分頃である。俳優は自分より先に自分方に帰っていた。先方からお酒があるといいなと言われて自分が買いに行くことになり帰宅後一〇分位して酒を買いに出た。前に述べた阿藤と会った時間は時計を見たわけではなく大体のところである。同人とは元八代組の角で会った。浪花節の一行全部がその日夕刻四時か五時頃と、浪花節が終ってからと、翌朝との三回自分方で食事をした。二四日は浪曲のため平生郵便局を休んだ。出勤簿に印を押してあるのは朝押して誰かに代ってもらったと記憶する。なお、自分が阿藤と出会った場所は岩井商店の前ではない。自分は平生郵便局から前夜常原主事・河田保険係・増野集配手と飲酒した際の飲み残しの酒を持って自宅に帰った。それは一一時頃で女天晴の夫とコースとりの事務員とが自分方に残っていてその酒を宿に持って行った。阿藤に出会った時分阿藤の妹や女は見なかった。」(二次控訴審二四回公判調書中証人曽村民三供述二三冊八二七一丁以下)、「二四日夜平生座の上演が終ってから自分は天晴と一緒に帰宅したが、天晴は上演が終ると直ぐ舞台から降り衣裳のまま休憩もしないで帰ったのである。その後自分が酒を買いに出て岩井商店から戻る際新市町の筋に出る角辺りで自転車を押している人に会った。“今晩わ”と言われて“やあ”と返事をしたが自分は振り向きもしなかった。二〇間位戻ってお寺の前辺りにきてから、その声の人は阿藤だったかなあと思った。自分は鈴木商店にも行ったが起きなかったので仕方なく局に行き前の晩一升買い局の常原主事・増野保険係・河田集配手と自分で飲んだ残り四合位を持って帰宅した。その酒は自分が病気見舞のお礼に買ったものである。帰宅後天晴の夫とコースとりの事務員と自分でその酒を飲んだ。一一時半頃に引き揚げた。自分は阿藤の母とも知り合いで事件後自分方近くに引越してきてからはしょっちゅう顔を合わせて話をしている。」(曽村民三検二六冊九六四二丁裏以下)、「自分が先に病気見舞のお返しの残り酒といったのは間違いである。自分がおごったものである。割勘ではない。」(曽村民三検二六冊九六四九丁裏以下)というにあるが、二四日夜一〇時三五分ないし一〇時四五分頃の間に阿藤と曽村民三とが平生町で出会ったとの以上の各供述及び上申書の記載は前段までの認定に照らし到底採用できない。のみならず、前記七冊二〇七二丁図面・一次控訴審検証調書第六図(六冊一二三一丁)・実況見分調書(二三冊八四四九丁以下)の各記載に照らすと、右出会地点に関する両者の各供述の間には食違いがあり、しかも前記阿藤の上申書(六冊一三〇五丁の曽村と出会った時刻の記載ある分)は第一次控訴審の第一回弁論終結前の段階に至り提出されたもので、阿藤が自己のアリバイに重要な右時刻についてそれ迄自ら何等の供述もしなかったことは極めて不可解というのほかなく、且つ右時刻の記載は同人の司法警察員に対する供述調書中「岩木(岩井儀一商店の意と解す。)の前で妻と出会い三人連で午後一〇時四〇分頃帰宅した。」旨の供述記載(阿藤警一回四冊七八九丁裏。当審二九回公判で阿藤は右警一回の記載は真実であると言う。八〇冊七七九五丁。)及び検察官事務取扱検察事務官に対する弁解録取書中「二四日夜一〇時四〇分頃帰宅した。」旨の供述記載(七五冊六四三三丁)に照らし既に信用できないうえに、岩井商店前での状況に関する前記阿藤供述は、前掲阿藤サカヱ・木下六子のこの点に関する各供述とも異なり(証人阿藤サカヱ・同木下六子の前掲供述によれば、岩井商店前で“今晩わ”と声をかけて同店を呼び起していた者は阿藤自身であったと認むべきである。)措信できない。また曽村民三の前記各供述は、これを仔細に検討するとその間に矛盾撞着があって直ちに措信できないうえに、同人の検察官に対する供述調書中「自分はここで会わせてもらった女天晴にはこれまで会ったようにも会わんようにも思う。森上直にはこれまで会った記憶がない。三人と話して自分は自信がなくなった。」旨の供述記載(二六冊九六七〇丁以下。後記森上証人の供述によれば、右森上直は曽村のいう当時の事務員である。)及び二次控訴審二八回公判証人森上直の「自分は昭和二九年以前興行をやっていたが、昭和二六年一月二四日東女天晴の浪曲を引き受けて平生座で上演したことがある。同夜の一行は座長女天晴(後に巴伊丹秀子嬢と変名)こと中フサ子・その主人中盛一・宮川松安夫妻のほか一二・三才の女の子一人であり、自分が太夫元で事務員ということであった。自分は平生座に行ったのはその日一度だけである。その夜浪曲が終ってから途中どこにも寄らずに宮武旅館に帰った。座長は舞台着のまま着の身着のままで帰るということはない。特にそのときには師匠の松安先生がいたのでそのようなことはなかった。宿に帰って自分と中の主人とが酒を飲んだ。他の者はその晩に食事を済ましていた。その酒は座長が平生座で枕を読んでいるとき自分が平生座から出て買って来ていた一升である。買った場所は先に検事に説明したあの家である(検察官の実況見分調書二六冊九七八六丁以下に二四日森上直が酒を買った場所として平生町生永酒場への道順を指示説明した記載がある)。それを二人で薬かんでわかしコップで飲んだ。天晴もコップ一杯位飲んだと思う。おかずは階下の飯台の分を持って上って、ご飯を食べないでしまったように記憶する。平生座から宮武旅館にくるまでの間曽村民三方に寄ったことも、同人に酒を頼んだことも全然ない。」旨の供述(二六冊九二四六丁以下。二次控訴審四三回公判証人大津繁一の供述をもってしては、森上証人の以上の供述を否定する資料とするに足りない。)に照らすときは到底信用できないものといわなければならない。さらに、伊丹秀子嬢こと中フサ子の検察官に対する供述調書中その供述として「自分は東女天晴と名乗っていた当時の昭和二六年一月二四日平生座で上演したことがある。そのときの一行は座長である自分のほか宮川松安・夫中盛一・太夫元の森上直等で宮武旅館に宿泊し食事をそこの階下の玄関次の間の板の間でした。上演後夜食もそこでいただいた。曽村の家は見たこともなく、ましてその家で上演後食事をいただいたような記憶は全くない。先に曽村夫妻に会ってみたが、やはり同人方で食事をしたことはないといい切れる。」旨の記載(二六冊九七二四丁以下)、中盛一の検察官に対する供述調書中その供述として「昭和二六年一月二四日夜平生座で森上直の世話で浪曲を上演した。その日は打ち上げの日で上演後一座の者と森上も一緒に宮武旅館に引き揚げ、夜食もそこでいただいた。森上とそこで一緒に酒を飲んだ記憶がある。先に平生座の前の小川に沿って曲り曽村の家といわれる家をのぞいて見たが、これまでそのような小道の裏道を通った記憶がなく同人方で食事をした記憶も全然ない。曽村は平生座の道具方で配達夫でもあり顔見知りであるが、奥さんは全然見たことがない。先に曽村夫妻に会わせてもらったが、以上の自分の記憶に間違いがあるとは考えられない。一月二四日は上演後直ぐ宿に引き返し森上とお別れになるので、そこの二階で同人と酒を飲んだ記憶がある。」旨の記載(二六冊九七一八丁以下)、宮武宇三郎の検察官に対する供述調書中その供述として「自分は平生町で旅館を営んでいるが、自分方では賄なしの泊るだけの客は扱っていない。現に賄のない泊り客は扱ったことがない。」旨の記載(二六冊九七〇二丁以下)、増野喜三郎の検察官に対する供述調書中その供述として「自分は平生郵便局で曽村から宿直室で酒をおごってもらったことが一度ある。それは二級酒一升で全部飲んで残らなかった。残るようなことは考えられない。」旨の記載(二六冊九七一〇丁以下)、常原芳雄の検察官に対する供述調書中その供述として「自分は平生局主事・局長補佐である。曽村に酒をごちそうになった記憶はない。もし曽村の言うとおりの人数で飲んだとすれば一升でも足りないはずである。」旨の記載(二六冊九七一三丁以下)、河田民夫の検察官に対する供述調書中その供述として「自分は平生局保険係である。曽村とは時時宿直室などで飲んだが、いつも割勘で三・四人で一升では足らん位であった。しかし二級酒一升買うのが常であった。」旨の記載(二六冊九七〇七丁以下)、大島春一の検察官に対する供述調書中その供述として「自分は平生局集配手である。これまで曽村と交替したことがない。出たときには実際に印を押すが、休んだときに印を押すようなことはない。また個人同士で交替することはない。必ず上司を経る。」旨の記載(二六冊九七六四丁以下)、大島一の検察官に対する供述調書中その供述として「出勤後交替した際には実際に出た人が印を押す。そうでないと責任上困ることになる。自分が集配手時代交替をしたことがあるが個人的に勝手にしたことはなく、局長・局長代理に許可を得または届出をした。」旨の記載(二六冊九七五七丁以下)、大島愛一の検察官に対する供述調書中その供述として「自分は平生局集配人をしていたが実際に休みをとった人が印を押すことができなかったし、実際にもやらなかった。やかましかった。」旨の記載(二六冊九七四六丁以下)のほか、昭和二六年度平生郵便局出勤簿(証第一一四号)・宿帳(証第一一八号)の各記載(右出勤簿中事務官曽村民三の一月二四日欄に同人の押印がある。右宿帳中一月二四日森上直ほか四名が宿泊した旨の記載がある。)に照らすと、曽村民三の前記二四日夜一〇時三五分か四〇分頃平生町内で同人が阿藤に出会ったとの点に関する供述は一層信用すべからざるものであることが判る。

(ロ) 久永について。

久永は当審二八回公判で前記のように二四日夜中野方から一〇時半頃平生町の自宅に帰宅し、その際時計を見たよう供述するほか、「一〇時二〇分頃中野方を出、帰宅して就寝したのは一一時に一〇分前位である。」(警一回四冊八八三丁裏)、「一〇時二〇分頃帰宅して就寝した。」(検四九冊一九一六八丁裏)、「一〇時のサイレンを中野方できいた。一一時に一〇分か一五分前帰宅した。」(一審一〇回公判調書中五冊九八五丁裏)、「一〇時頃中野方を出、一〇時半頃帰宅した。」(上申書六冊一二九四丁以下)、「一〇時のサイレン過ぎてから中野方を出たように思う。帰宅したのは一〇時半以上過ぎておったんじゃないかと思う。時計を見たようにない。」(二次控訴審四七回公判調書中三六冊一四二一七丁以下・一四二一八丁裏以下)、「一〇時四〇分頃自宅にいた。」(上申書七冊二二一三丁)と記載または供述するが、これらは首尾一貫を欠き直ちに信用できないのみならず、前掲当審山崎博証人の供述等に照らし、偽りであると断ぜざるを得ない。右山崎証人の供述によれば、久永は同証人が二四日夜九時三〇分頃久永方に到着する以前すでに帰宅して部屋の上りかまちに腰掛けていたことが明らかである(六三冊一九〇六丁裏・一九一〇丁裏。殊に同証人のその際の状況に関する説明は警察に提出の上申書以来一貫して不動である。)。このことに二次控訴審の検証結果によって認められる中野方から久永方までの所要時間一九分一五秒(二次控訴審検証調書四五冊一七五二七丁六行目以下の記載によれば平生町宇佐木吉本表具店((中野方から平生町に通ずる国道上に出た地点))前から天池を通り久永方前までの自転車による所要時間は一五分一五秒で、これに二次控訴審検証調書一五冊五一五三丁七行目以下の記載により認められる中野方・右吉本表具店前間の徒歩所要時間約四分を加え合計一九分一五秒。中野方・吉本表具店間を徒歩で通過したことは二次控訴審四七回公判調書中久永供述三六冊一四二一八丁による。築回または天池から徒歩で帰ったという供述の措信できないことは既に説示のとおりである。)、一審四回公判証人久永恵工・同審五回及び二次控訴審三一回各公判証人久永サイ子の「二四日夜隆一が帰ってから一〇分位して山崎がきた。」(二冊四二九丁二冊四五八丁・二七冊九九〇〇丁裏)同審三八回公判同証人の「二四日夜隆一が帰ってから一〇分か一五分位して山崎がきた。」(三一冊一一八二六丁。久永サイ子の「隆一帰宅後一〇分ないし一五分位して山崎がきたとの供述は一審以来変らない。」)旨の各供述記載を参酌すれば、久永は同夜八時五五分四五秒頃ないし九時〇分四五秒頃中野方を出発し同夜九時一五分頃ないし九時二〇分頃帰宅したことになり、当審四回公判証人岩井武雄の「二四日夜久永は九時頃中野方を出発した。」との供述(六一冊一二六九丁裏)にも符合する。そして、前記(3)及び(5)(ロ)の認定によれば久永は同夜阿藤が久永方前を“チャンジュウ”と呼びかけて通過する以前の九時三四・五分頃再度外出したもので、これに一・二次各控訴審の検証結果等を参酌すれば、前記に認定の同夜一〇時一七・八分頃迄に吉岡が阿藤・久永に出会ったという八海橋上の地点に優に到達し得たことが明らかである(仮に徒歩で阿藤と同じ道を経て八海橋西詰迄行ったとしても、久永方・岩井商店西南角間約八分四〇秒((二次控訴審検証調書四五冊一七五二七丁裏五行目以下))、同地点から八海橋西詰迄約九分五三秒((前記(イ)阿藤の認定を援用))を右外出時刻に加え約九時五二分三三秒ないし約九時五三分三三秒に到着。平生座前通から防長バス西浜停留所を経て八海橋西詰迄行ったとしても、平生座・八海橋東詰間約九分〇五秒((二次控訴審検証調書四五冊一七五二八丁裏九行目・一七五二九丁五行目))、八海橋東詰・西詰間一分三〇秒((同審検証調書一五冊五一五二丁一一行目))、久永方・平生座前通間約五六一米((一次控訴審検証調書六冊一二三六丁図面))、その所要時間は前記毎分八〇米の歩速を援用し約七分、以上を前記外出時刻に加え約九時五一出三五秒ないし約九時五二分三五秒に到着。自転車を使用したものとすればより早かったことはいうまでもない。)。

なお証人木下六子が供述する「二四日夜一〇時過頃上田方へ行く途中八海橋を渡ったところで稲田に出会ったのち阿藤が上田方から直ぐ引き返して外出した際軒下から見た八海橋西詰近くにいる稲田のほかもう一人の人影。」(二次控訴審六四回公判調書中四六冊一八一五〇丁裏以下・一八二一六丁以下・当審八回公判六四冊二二九五丁以下)は、これまでの認定からして久永であったとすら認められる。

証人久永サイ子・同久永恵工の久永の中野方からの帰宅時刻に関する供述は、証人山崎博・同岩井武雄の当審公判供述に反する従前の供述と共に、以上の認定に照らし既に採用できないのみならず、証人久永サイ子の「二四日夜山崎がきたとき時計を見たら一〇時四〇分であった。」(当審九回公判六五冊二六〇二丁裏以下)、(山崎は一〇時四〇分頃きた。そのとき隆一は寝ていた。」(同公判調書中二冊四五三丁)、「隆一が帰ったとき山崎がきたと思って時計を見たら一〇時四〇分であった。」(同公判調書中二冊四五四丁裏)、「隆一が帰宅した際時計を見た。一〇時三〇分頃であった。」(二次控訴審三一回公判調書中二七冊九八九八丁裏以下)、「隆一は一〇時半頃帰宅した。時計を見た。」(同審三八回公判調書中三一冊一一八二六丁)旨の各供述中には矛盾するものがあり、且つ同証人の司法警察員に対する「隆一は中野方から一〇時二〇分頃帰宅した。」(四八冊一八九〇五丁裏)、「隆一は山崎がくる一〇分前に中野方から帰って寝たが、時間は何時かよく判らない。」(四八冊一八九〇七丁裏)、警察官に対する「一一時頃山崎がきた。その少し前頃隆一が帰った。」(四九冊一九一九六丁裏以下)旨の各供述に照らしてみても、同証人の前記各供述は真の記憶に基くものとは認められない。次に証人久永恵工の「二四日夜兄が帰ったのは一〇時二〇分頃である。山崎がきたのは一〇時四〇分頃である。」(当審一一回公判六六冊三〇一六丁裏以下・三〇一二丁)、「二四日夜一〇時半頃兄が帰って直ぐ寝るとき山崎がきた。」(二次控訴審四五回公判調書中三五冊一三六三四丁以下)・「山崎は一一時ちょっと前にきた。山崎は一一時にきた。山崎がきたのは兄が帰ってから二〇分か三〇分してからである。」(同四五回公判調書中三五冊一三六三八丁以下)、「一〇時半頃兄が帰った。それから一〇分位して山崎がきた。山崎がきたのは一〇時四〇分であった。自分の頭のところに時計があった。」(一審四回公判調書中二冊四二九丁・四三〇丁)旨の各供述もまたその間にすでに矛盾するものがあり、且つ同人の司法警察員に対する「二四日夜自分は九時半頃寝た。時計は見てない、想像である。自分が起きている間に山崎がきた。兄が帰った時間は判らないが、帰って直ぐ床にはいって寝た。山崎がくるより三〇分位前に兄は寝ていると思う。自分は山崎がきた時間及び帰ったことは知らない。」旨の供述(三五冊一三八〇二丁裏・一三八〇三丁裏。同調書の日付として昭和二五年二月一日付とあるのは昭和二六年二月一日付の誤記と認める。)に照らし、同証人の前記各供述も到底真の記憶に基くものとは受け取れない。(久永が当審二八回公判で供述する「一時間程余計針が回っている。」というのは、久永自身の同公判で供述する中野方から帰宅したという時間のことであり、また証人久永サイ子・同久永恵工の前記供述の右帰宅時間のことであることこそ判然する。)

(ハ) 松崎について。

前記(5)に認定の松崎が二四日夜田布路木の中野方出発後平生町久永方・麻郷福屋ユキ方・八海稲田方・人島阿藤方を経て一旦平生町の自宅に帰宅した際の時刻は、二次控訴審六四回公判証人木下六子供述(人島を出て細い道から大道路を経、田の中の細い道を三分の一位進んだ地点で一〇時のサイレンをきいた。―四六冊一八一四六丁・一八二〇三丁以下)に一次控訴審の検証結果等(一次控訴審検証調書六冊一二三一丁第六図によれば、右地点は約二二八米の三分の一すなわち約七六米で同地点から岩井商店西南角迄は約一五二米、同地点から松崎方迄は約一〇五米。以上合計約二五七米に前記毎分約八〇米の歩速を援用算出すれば、その徒歩所要時間は約三分一三秒。)を参酌して算出すれば凡そ一〇時三分頃(計算上は約一〇時三分一三秒)であり、この時刻は証人松崎ツヤの一審四回公判での「二四日夜一〇時か一〇時過頃松崎は田布路木の中野方から帰宅した。」(二冊四三三丁裏)、当審一〇回公判での「二四日夜孝義は田布路木から一〇時ちょっと過ぎに帰宅した。」(六五冊二七五六丁裏)旨の各供述にも符合する。そして前記(5)(ホ)に認定の同夜再度の外出に際し前記(イ)の阿藤について認定の一〇時一七・八分頃後間もなく吉岡が松崎に出会ったという八海橋上の地点に到達し得たことは一次控訴審の検証結果等により明らかである(一次控訴審検証調書六冊一二三一丁第六図によれば松崎・岩井商店西南角間約一〇五米、その所要時間は前記毎分八〇米の歩速を援用算出すれば約一分一九秒。岩井商店西南角から八海橋東詰迄は約八分二三秒((前記(イ)阿藤についての認定を援用))。同地点から八海橋上の吉岡のいう同橋西詰から約五八米の地点迄は一次控訴審検証調書六冊一二三一丁第三図により八海橋全長約一二〇米から右五八米を差引き約六二米。その所要時間は前記毎分八〇米の歩速を援用算出すれば約四七秒。以上合計約一〇分二九秒。松崎が帰宅後木下らにパスを渡すのに要した時間を約一分とみて、それより何分後に再び外出したかは不明である。仮に右パスを渡した後一旦家に戻る迄三〇秒を要したものとし、その後直ちに外出したとすれば、前記帰宅時刻に右各所要時間を加え約一〇時一五分一二秒頃到着したことになる。従って吉岡がいうように阿藤・久永に出会ったのち間もなく松崎が駆けてきたとすれば、その時刻は前記阿藤につき認定の約一〇時一七分三六秒以後となり、松崎はパスを渡して一旦家に戻ってから少なくとも二・三分後に再度外出したことになる。)。なお、二次控訴審六四回公判証人木下六子供述による同夜同人らが松崎と同道した人島の阿藤方から「細い道を経て大道路に出、次に田の中の道を経て松崎方に至る」(四六冊一八一四六丁)間の徒歩所要時間は約一五・六分「二次控訴審検証調書一五冊五一五四丁。同丁五行目以下に記載の経路は右木下証人供述の経路と同一と認める。)であるから、同夜松崎が右阿藤方を出発した時刻は前記帰宅時刻から右所要時間を差引き凡そ九時四七・八分頃、阿藤方到着時刻はそれより約二〇分前(同人方での滞在時間は約二〇分。前記木下証人供述四六冊一八一四五丁)の凡そ九時二七・八分頃、八海の稲田方出発時刻はそれより約五分前(人島阿藤方・八海稲田方間は約九八〇米((一次控訴審検証調書六冊一二三一丁第三図))、その自転車による所要時間は約五分((同検証調書六冊一二三一丁第二図・同審検証調書六冊一二三六丁図面によれば吉本表具店前から久永方迄は約二九五二米、その間の自転車による所要時間は二次控訴審検証調書四五冊一七五二七丁以下の記載によれば約一五分一五秒であるから毎分約一九四米の速度として算出。))の九時二二・三分頃、右稲田方で約五分を費したものとみて(従って稲田方到着は九時一七・八分頃)麻郷の福屋方出発時刻はそれより凡そ四分前(右第三図によれば稲田方・八海橋西詰間約四七〇米、同西詰・福屋方間約二〇七米((一審四回公判証人福屋ユキの供述によれば、その間三分の一は坂道で徒歩によらなければならない。二冊四一八丁裏))、その所要時間を前記毎分八〇米の歩速、毎分一九四米の自転車速度を援用算出すれば約四分。))の九時一三・四分前後、右福屋方で約一分(従って福屋方到着は九時一二・三分頃)、久永方で四・五分を各費したものとみて田布呂木中野末広方出発時刻はそれより約二六・七分前(福屋方・八海橋西詰間は右により算出し約一分三五秒、前記六冊一二三一丁第二図及び第三図によれば、八海橋西詰・吉本表具店間約四三七〇米、その間の自転車による所要時間を前記速度を援用算出すれば約二二分三一秒、中野方・吉本表具店間徒歩所要時間約四分((二次控訴審検証調書一五冊五一五三丁。前記阿藤・久永同様その間徒歩によったものと認める。))以上合計約二六分三一秒。)の凡そ八時四〇分ないし八時四三分頃であり、その時刻は松崎の「二四日夜中野方を出たのは同人方の時計で九時に一五分前である。」旨の供述または上申書の記載(一審一〇回公判調書中五冊九六四丁裏・二次控訴審四四回公判調書中三四冊一三五一二丁裏・当審二七回公判七九冊七五四五丁・上申書六冊一二九九丁裏)取び当審四回公判証人岩井武雄の「二四日夜松崎は大体八時三〇分頃中野方を出た。」旨の供述(六一冊一二六九丁以下)に、前記福屋方到着時刻は稲田の「九時一〇分頃福屋を出た。」との供述(当審二七回公判七九冊七四一九丁・七四三五丁裏・二次控訴審四一回公判調書中三二冊一二五四六丁以下・上申書六冊一二八七丁裏)及び松崎の「福屋方へ行った際福屋のおかあさんが『稲田はたった今帰った』と言った。」旨の供述(当審二七回公判七九冊七五四六丁裏・二次控訴審四四回公判調書中三四冊一三五一七丁・上申書六冊一三〇〇丁。)にそれぞれ概ね符合するものとみるべきである。

(ニ) 稲田について。

稲田は、二四日夜の自己の帰宅時刻及び帰宅後松崎が来訪した時刻につき当審二七回公判で「九時一〇分に福屋ユキ方を出て帰宅し就寝中に松崎がきた。」(七九冊七四一九丁以下)・一審一〇回公判で「自分が福屋方を出たのは九時に一〇分前、松崎が自分方にきたのは九時一五分頃である。」(五冊九九〇丁裏)・検察官に対し「自分は福屋を九時一〇分頃に出て九時二〇分頃帰宅した。九時半頃松崎がきた。」(四九冊一九一七〇丁裏)・二次控訴審四一回公判で「自分は九時一〇分頃福屋を出た。それから帰宅して就寝しうつらうつらしているとき松崎がきた。」(三二冊一二五四六丁以下)旨各供述し、一次控訴審に提出の上申書中には「自分が福屋を出たのは九時一〇分頃、帰宅したのが九時二〇分頃で、それから布団の中でうつらうつらしているとき松崎がきた。」旨記載し(六冊一二八七丁裏)、必ずしも一貫しないが、そのいずれにせよ、二次控訴審検証調書の記載(八海橋西詰・稲田方間の徒歩所要時間は約六分。一五冊五一五〇丁裏八行目)によれば、稲田は同夜再度の外出に際し遅くとも一〇時一五分頃迄に八海橋西詰付近に十分到達し得たもので、同夜阿藤と木下六子とが八海の上田節夫方へ赴く途中右西詰付近で稲田に出会った(前記(イ)の認定によればその時刻は凡そ一〇時一五・六分頃)との前掲木下証人の供述は真実とみるべきである。さらに右西詰から八海橋上約二一、五米迄(六七冊三三二五丁・これに添付の第二見取図(ロ)点)の徒歩所要時間は前記毎分八〇米の歩速により算出すれば約一六秒であるから、吉岡のいうように稲田が同所で八海橋上を西進中の阿藤らに出会い得たことは明らかである。

(ホ) 被告人らが八海橋上から八海の早川惣兵衛方に赴き同人方に侵入後上田節夫方に到着する迄の各時刻について。

前記認定の二四日夜被告人らが八海の上田節夫方に寄り集まったのが、前記(一)の吉岡供述のとおり被告人らが吉岡と共に八海の早川惣兵衛方に侵入後のことであったとすれば、その各時刻は次のとおりである。

(ⅰ) 早川方到着時刻。

吉岡がいうように同人が八海橋上西詰から約五八米の地点で阿藤・久永に出会い(その時刻は凡そ一〇時一七分三六秒頃。前記(イ)に認定。)同所から折返して八海の早川惣兵衛方に向い途中田布施川右岸石地蔵尊付近から二手に別れ、阿藤・吉岡は石地蔵尊前道路を南進し、その余の被告人らは田布施川べりの道を南進した場合(前記(一))、阿藤・吉岡が右早川方北裏勝手口に到着(一審八回公判調書中四冊七六三丁裏・二次控訴審三回公判調書中一三冊三九七三丁以下・同審一一回公判調書中一六冊五三九三丁・同審五六回公判調書中四一冊一六一一一丁以下・検察官検証調書二冊三五四丁裏・当審検証調書六七冊三三二六丁・これに添付の第二見取図・当審証人尋問調書六六冊三一二二丁・当審一二回公判六七冊三五八七丁以下・一審検証調書一冊三一丁)し得べき時刻は凡そ一〇時二六分頃で(八海橋上西詰から約五八米の地点と早川方間は約六四七・七米((六七冊三三四四丁・これに添付の第二見取図))、その徒歩所要時間は前記毎分八〇米の歩速によれば約八分六秒。これを前記一〇時一七分三六秒に加えると約一〇時二五分四二秒。吉岡の当審検証に際しての指示どおりに畑の中を通って早川方北裏勝手口に到着し得べき時刻は当審検証結果により認められる距離・間隔からみて右と略同時刻頃と認められる。)、仮に石地蔵尊付近で二手に別れる際(前記(一))及び吉岡が阿藤の言に従い途中道路沿いの自宅軒下にオーバーを置き且つジャンバーを裏返しに着なおす(二次控訴審一〇回公判調書中一五冊五〇一八丁・当審一二回公判六七冊三五八六丁裏以下)に際し費した時間竝びに畑の中を歩く困難さ等を考慮に入れても遅くとも一〇時二七分頃には前記北裏勝手口に到着し得たものと認められ、また稲田・松崎・久永は凡そ一〇時二四分頃(一審検証調書一冊二八丁以下に添付第一図面によれば前記石地蔵尊付近から川べりの道を経て早川方前に通ずる川岸の地点迄は約二四〇米((同図面記載の八海橋西詰・石地蔵間の距離は当審検証結果に照らし援用できない。))、一次控訴審検証調書六冊一二三一丁第三図によれば八海橋西詰・石地蔵尊間約二二二米、右早川方前に通ずる川岸の地点から早川方迄は約九〇・七米。以上合計約五五二・七米の所要時間は前記毎分八〇米の歩速によれば約六分五四秒。これを前記一〇時一七分三六秒に加算。)迄には早川方付近に到着し得たものと認められる。

(ⅱ) 早川方侵入・脱出時刻。

吉岡供述によれば、同人は「阿藤と相前後して早川方北裏勝手口に到着後阿藤と別れ西裏側を経て同人方東表側に出て表勝手口をあけようとしたがあかなかった。そこから外便所のある付近迄きた際大便を催したのでそこの便所にはいろうと思ったが稲田が先にはいったので右便所の前あたりにしゃがんで大便をした。その時分阿藤が右便所近くの部屋の中連窓をバールでこじあけ、同所から同人と稲田とがはいったのを見てから東表側及南側を経て西裏に回り同所床下の板をはがして中にはいり台所土間に這って出た。」というのである(検察官検証調書二冊三三〇丁以下・一審検証調書一冊三一丁以下・当審検証調書六七冊三三二六丁以下及びこれに添付第一見取図・一審八回公判調書中四冊七六四丁以下・同審一〇回公判調書中五冊九九四丁以下・二次控訴審三回公判調書中一三冊三七七六丁以下・三九七九丁以下・同審一一回公判調書中一六冊五三九四丁以下・当審証人尋問調書中六六冊三一二三丁裏以下)。二次控訴審検証調書(一五冊五一五二丁)及び同調書添付第六図(一五冊五一八一丁)の各記載によれば、早川方北裏勝手口から右吉岡のいう経路で前記脱糞箇所付近迄忍び足で歩行した場合の所要時間は約一分三〇秒であり、このほか表勝手口をあけようと試みるに要した時間を約一分、脱糞及びその前後に要した時間を約五分、その後西裏床下口迄の歩行に要した時間を約一分とみると、吉岡が右床下口に到着した時刻は凡そ一〇時三五分三〇秒頃である。さらに吉岡供述によって認められる右床下口から侵入に際しての状況(一審八回公判調書中四冊七六五丁以下・二次控訴審三回公判調書中一三冊三七七六丁以下・三七八八丁以下・同審八回公判調書中一四冊四六九九丁裏・当審証人尋問調書中六六冊三一二七以下・当審一三回公判六八冊三八〇七丁以下・検察官検証調書二冊三五五丁裏以下)に検察事務官森光正幸作成の右床下等の状況に関する実況見分調書の記載(八六冊九六五四丁以下)を合わせ考察すれば、吉岡が右床下から台所土間に出る迄に要した時間は三分前後とみられ、従って同人が台所土間に這い出た際の時刻は凡そ一〇時三九分前後で、この時刻は前記(一)の吉岡の早川方屋内侵入時刻に関する供述に概ね符合するものとみるべきである。次に早川方屋内侵入から脱出まで三〇分前後を要した旨の前記(一)の吉岡供述に従えば、同人の早川方脱出時刻は凡そ一一時九分前後であったと認められ、この時刻は吉岡の当審一二回公判での「早川方を出たとき一一時を過ぎていたと思う。」旨の供述(六七冊三五六四丁)に符合する。なお吉岡供述によれば、同人は被告人らが既に早川方を脱出したのち阿藤の命により北裏勝手口及び表勝手口の戸締りをしたうえ台所土間から西裏床下口に脱出し田布施川べりで被告人らに追いついたもので(一審五回公判調書中二冊四七三丁裏・同審八回公判調書中四冊七七二丁以下・二次控訴審二回公判調書中一二冊三六四四丁・同審三回公判調書中一三冊三九三九丁以下・当審検証調書六七冊三三三五丁裏以下・これに添付第二見取図・当審証人尋問調書中六六冊三一六八裏以下・当審一二回公判調書中六七冊三五六三丁以下)、吉岡が右戸締り及び脱出に要した時間を約五分とみると被告人らは吉岡より約五分前早川方を脱出し田布施川岸の吉岡が追いついた地点まで同人を待ちながら歩行していたものと認められる(右地点は当審検証調書添付第二見取図付近で、一審検証調書及び添付第一図一冊二八丁以下によれば早川方前から川岸に出た地点から約八〇米付近。)。

(ⅲ) 奪取金分配地点での時刻。

吉岡供述によれば、同人は早川方脱出後被告人らに追いついてから田布施川べりの道を経て前記(一)の奪取金分配地点に至ったもので(前段脱出時に関する引用の各証拠)、その間の徒歩所要時間は約八分三九秒であるが(早川方から田布施川べりを経て八海橋西詰に至る所要時間は約六分五四秒((前掲(ⅰ)の稲田らの早川方付近到着時刻について引用の証拠及び時間を参照))、八海橋西詰・同東詰間約一分三〇秒((二次控訴審検証調書一五冊五一五二丁))、同東詰から南方約二〇米の地点迄は約一五秒((毎分八〇米の歩速による))、以上合計約八分三九秒)、これに八海橋上で阿藤らが手袋や覆面等に使用した手拭等を投棄するため立止まった(二次控訴審二回公判調書中一二冊三六六六丁以下・同審九回公判調書中一五冊四八八四丁裏・同審一五回公判調書中一八冊六四〇三丁以下・同審四二回公判調書中三三冊一二八一七丁裏・一二八五八丁以下・当審検証調書六七冊三三三六丁・当審一二回公判六七冊三五六五丁裏以下・三六九四丁以下)時間を約三〇秒とみると前記奪取金分配地点に到着した時刻は凡そ一一時一八分前後(前記吉岡の脱出時刻を基準にして計算すると約一一時一八分九秒。)である。次に奪取金分配に要した時間を約三分とみると被告人らが右地点を出発した時刻は凡そ一一時二一分前後であると認められる。

(ⅳ) 被告人らの上田節夫方到着時刻。

前記奪取金分配地点から八海の上田節夫方迄の徒歩所要時間は前段迄の認定によれば約二分一五秒であるから右地点の前記出発時刻を基準にして算出すると、右上田方到着時刻は凡そ一一時二三分前後となるが、吉岡の「自分は稲田と奪取金分配地点から八海橋を渡り吉本京助と田布施川右岸石地蔵尊との中間付近まで同行しそこで稲田と別れた。稲田はそのまま自宅の方へ向った。」旨の供述(当審検証調書六七冊三三三六丁裏・略同趣旨の供述として二次控訴審三回公判調書中一三冊三九六三丁以下・同審一三回公判調書中一七冊五六八三裏以下・同審五六回公判調書中四一冊一六〇六一丁以下)に従い、仮に稲田が右石地蔵尊付近迄行き同所から引返して上田方に行ったとしても、その時刻は凡そ一一時二九分前後(一次控訴審検証調書六冊一二三一丁第三図によれば八海橋西詰・石地蔵尊間約二二二米で、その徒歩所要時間は約二分四七秒((毎分八〇米の歩速による))であるから、その往復に要する約五分三四秒を前記時刻に加算)となる。そして証人木下六子の「阿藤と稲田とは大方一緒に上田方に帰り、次に松崎・久永の順できたが、松崎・久永がきたのは阿藤・稲田がきてから二・三分後である。」旨の供述(二次控訴審六四回公判調書中四六冊一八一五四丁裏以下)からすれば、阿藤は右稲田と同時刻頃、松崎・久永は凡そ一一時三一分前後にそれぞれ上田方に到着したことになり(奪取金分配後の被告人らの行動に関する(一)及び右に引用の吉岡供述によるも、稲田のみならずその余の被告人らも分配地点から上田方に直行した状況は認められない。)、これらの時刻は証人木下六子の「阿藤が出てから帰ってくる迄の時間は二時間も三時間も長い時間ではなく、三〇分ないし一時間位のものであった。」旨の供述(二次控訴審六四回公判調書中四六冊一八一五四丁裏以下・同審六五回公判調書中四七冊一八四〇七丁以下・当審八回公判六四冊二三四五丁以下・二三七一丁裏。阿藤が先に木下六子と共に上田方に一旦帰着した時刻は前記(イ)の認定によれば凡そ一〇時一六分二三秒頃である。)及び証人上田節夫の「二四日夜自分が一〇時過に福屋から帰宅してひと眠りしているうち一一時過大方一二時頃話声で目をさました際阿藤・木下・稲田がいた。それから間もなく松崎・久永がきた。」旨の供述(当審五回公判六三冊一六六九丁裏・一六七九丁・一六八七丁・一六九六丁以下)に概ね符合するものと認むべきである。

(ヘ) 八海の石地蔵尊付近で清力用蔵に追い越される可能性について。

吉岡がいうように、二四日夜同人が阿藤・久永に出会った八海橋上の地点(八海橋上西詰から約五八米。同地点での時刻は凡そ一〇時一七分三六秒。前記(6)(イ)に認定。)から直ちに折返し間もなく松崎・稲田を加え五人が八海橋を渡り左折南進して八海の早川惣兵衛方へ向った場合、田布施川右岸石地蔵尊付近通過時刻は凡そ一〇時二〇分前後であると認められる(二次控訴審検証調書四五冊一七五二九丁八行目八海橋東詰・石地蔵尊間三分三五秒から同東詰・右出会地点間約四七秒((一次控訴審検証調書六冊一二三一丁第三図記載同橋東詰・西詰間一二〇米から前記五八米を差引きその残六二米を前記毎分八〇米の歩速により算出。))を差引き残約二分四八秒を一〇時一七分三六秒に加えると約一〇時二〇分二四秒となる。但しこれは通常の並足による場合である。)。他方清力用蔵が同夜一〇時頃平生座を出て連れの岡本軍一と共に平生座前付近の自転車預り店から自転車を受取りこれを押しながら徒歩で前記石地蔵尊付近を通過した(一審証人清力用蔵尋問調書中一冊六二丁裏以下・一次控訴審同証人尋問調書中六冊一一八三丁以下・二次控訴審二三回公判同証人供述二三冊八〇八四丁裏以下)際の並足による推定時刻は凡そ一〇時一八・九分前後である(二次控訴審検証調書四五冊一七五二九丁の記載によれば平生座・石地蔵尊間の通常の歩行所要時間は約一二分四〇秒。しかし二次控訴審二八回公判証人森上直の供述二六冊九三四二丁によれば当夜平生座の入りは一〇〇人位で、自転車を預けた者も相当数あったとみられるのみならず、同審二三回公判証人清力用蔵の供述二三冊八〇八六丁以下によれば当夜の終演が一〇時より五分ないし一〇分前であったにもかかわらず、清力・岡本が下足をとり平生座を出て二〇米ないし三〇米位を歩いた地点((その間の徒歩所要時間は前記毎分八〇米の歩足によれば一五秒ないし二三秒弱))で一〇時のサイレンを聞いた程の混雑さ加減からすれば、たとえ同証人供述二三冊八〇八九丁裏以下のようにその後右両名が近くの自転車預り店へ行ったのは最後の方の順番であったとしても、一〇時のサイレンを聞いたのち自転車預り店から自転車を受取り且つ預り賃を支払うなどして出発迄に要した時間は少なくとも五・六分程度を要したものとみるべきである。)が、右清力証人の各供述によれば、同人らは自転車を押し且つ当夜平生座で上演された浪花節などを語り合いながら歩行したもので、その速度は時によっては通常よりかなり遅かったとみるのが相当である。これに反し被告人らの歩速は、人目を忍び犯行を目ざしている最中であったのみならず、阿藤が木下六子に「ちょっと出てくるから」と言って初めて二人だけで間借り生活をすることになった前記上田方の一室に同女を待たせている間のことであってみれば(二次控訴審六四回公判証人木下六子供述四六冊一八一五二丁裏・当審八回公判同証人供述六四冊二二九四丁)、その間吉岡がいうように前記二(四)のような話が交わされたとしても、決して通常の並足より早いとも遅いものであったとは考えられない(もっとも石地蔵尊付近では、阿藤が「これから先は家が多いので人に見られたら悪いから別れて行こう。」と言ったことから二手に別れようとしていたものとすれば、それ迄より一時歩速が鈍っていたと認めるのが相当である。証人吉岡供述二次控訴審六三回公判調書中四六冊一八〇四四丁一三行目・当審検証調書六七冊三三二五丁以下・当審証人尋問調書中六六冊三一三一丁以下・当審一二回公判六七冊三五八三丁裏以下)。このように人の歩行速度はその際の心理状態その他の諸条件によって左右されるものであることは経験上明らかであり、前記双方の歩速の緩急如何により石地蔵尊付近で被告人らが清力らに追い越される可能性のあったことは否定できない。このことは、仮に証人清力用蔵の「自分が二四日夜平生座から帰宅した時刻は一〇時半頃と思う。」旨の供述(二次控訴審二三回公判調書中二三冊八〇九一丁以下・同審証人尋問調書中六冊一一八四丁裏・一審証人尋問調書中一冊六三丁)に基く場合、清力・岡本の両名が石地蔵尊付近を通過した時刻は凡そ一〇時二二・三分頃となる(一次控訴審検証調書六冊一二三一丁第三図によれば石地蔵尊・早川惣兵衛方前道路間約三二九米、清力証人供述六冊一一八五丁裏によれば右早川・清力方間は二〇〇ないし三〇〇米、合計五二九米ないし六二九米の徒歩所要時間を前記毎分八〇米の歩速により算出すれば約六分三七秒ないし約七分五二秒。これらをそれぞれ一〇時三〇分から差引くと一〇時二二分〇八秒ないし一〇時二三分二三秒頃となる。)ことからしても容易に首肯さるべきである。そして、吉岡供述によれば清力が被告人らを追い越したのは、前記のように被告人らが二手に別れようとして「五人がちらばらになり、固まってはいなかった」際のことで(吉岡供述二次控訴審三回公判調書中一三冊三七六六丁・同審一二回公判調書中一六冊五五九一丁裏・同審五六回公判調書中四一冊一六〇八一丁以下・当審検証調書六七冊三三二五丁以下)、しかも清力・岡本の両名としては夜道を自転車を押し且つ「話しながら歩行していたため行き合った人に余り関心がなかった。」(一次控訴審証人清力用蔵尋問調書中六冊一一八七丁裏以下)ことからすれば、証人清力用蔵の「二四日夜平生座の帰り石地蔵尊付近で自分らが追い越したのは五人とかの人数ではなく、一人か二人程度である。」旨(二次控訴審二三回公判調書中二三冊八〇九七丁裏以下)及び証人岡本軍一の「二四日夜平生座から清力と歩いて話しながら帰ったが、途中誰にも会ったような気がしない。」旨(一次控訴審証人尋問調書中六冊一二〇三丁。もっとも岡本軍一の右供述は、同人の検察官に対する供述調書中「二四日夜平生座の入場者は二〇〇人ないし三〇〇人位で、自分は平生座を出てちょっとしてサイレンを聞き、帰りは別に急ぐ理由もないので自転車を押して帰った。地蔵尊付近で二・三人の男を追い越した。」旨の供述記載((四三冊一六七六四丁以下))に照らし必ずしも措信しがたいにしても。)の各供述もまた容易に理解される。以上によってみれば、吉岡供述の「二四日夜被告人らと早川方へ向う途中石地蔵尊付近で清力用蔵に追い越された。」との事実は否定できない。

(ト) 二四日夜上田節夫が福屋ユキ方から帰宅した時刻等について。

証人木下六子は「二四日夜自分が上田節夫方に帰った際上田は不在であった。」よう供述するが(二次控訴審六四回公判調書中四六冊一八一五三丁・同審六五回公判調書中四七冊一八四〇四丁)、証人上田節夫の「二四日夜自分が一〇時過に福屋から帰宅してひと眠りしているうち一一時過大方一二時頃話声で目をさました際阿藤・木下・稲田がいた。」(当審五回公判六三冊一六六九丁裏・一六七九丁・一六八七丁・一六九六丁以下)、「二四日夜自分は一〇時のサイレンがなってちょっと過ぎてから福屋から帰った。阿藤らの部屋の襖はあいていたが人気がなかった。自分は直ぐ寝た。寝たのは阿藤らに貸した部屋より奥側の畳の間である。」(当審五回公判六三冊一七二一丁・一七四五丁以下)、「自分が二四日夜福屋から一〇時のサイレンを聞いて直ぐ帰宅した。」(一審証人尋問調書中一冊一九六丁。但し同調書中「自分が福屋にいる間、誰か阿藤がきていないかと言ってきた者があった。」旨の供述記載部分は他の関係証拠に照らし措信できない。)旨の各供述に福屋方・上田方間の徒歩所要時間は三分以内であること(一次控訴審検証調書六冊一二三一丁第三図・二次控訴審検証調書一五冊五一八一丁第四図・同検証調書一五冊五一五二丁裏一二行目以下の各記載から勘案。)を合わせ考察すれば、同夜上田節夫は木下六子より先に帰宅し(その時刻は一〇時過間もない頃と認められる。)既に就寝していたもので(その場所は阿藤・木下の借りた部屋より奥側)、木下六子は上田方帰宅に際し(前記(イ)の認定によればその時刻は凡そ一〇時一六分頃)このことに気がつかなかったものと認められる。右に認定の上田節夫の帰宅時刻と異なる同人の検察官に対する供述調書(四九冊一九二二四丁)・裁判官証人尋問調書(四九冊一九二五九丁裏)・二次控訴審三二回公判調書(二七冊一〇一七九丁裏)中に各記載の右福屋方からの帰宅時刻に関する供述は、これを仔細に検討すると同証人のこの点に関する当審五回公判での供述竝びに一審証人尋問調書中の供述に比し不正確であると認められるのみならず、前記(イ)で認定の木下六子の上田方帰宅時刻からみて採用できない。また、一審四回公判証人福屋ユキ及び司法警察員・検察官に対する福屋治郎の右時刻の点に関する各供述(一審四回公判調書中証人福屋ユキ供述二冊四一七丁裏。福屋治郎警四八冊一九一一八丁裏以下・同人検一冊二三三丁裏)も、稲田の当審二七回公判での時刻に関する供述からみて、いずれも二〇分ないし三〇分遅れのずれがあり、ともに信用できない。

(チ) 証人中野良子の供述について。

証人中野良子の二四日一〇時頃阿藤・久永が一緒に田布路木の中野末広方を出発した旨の一審以来の供述は前段迄の認定に照らしすでに採用し得ないが、さらにその各供述について検討する。同証人は、一審で「昭和二六年一月二四日頃、月日は覚えないが、その頃阿藤・松崎・久永・岩井が自分方にきて別に何も言わず遊んで帰った。最初阿藤・松崎・久永が九時頃帰られたように思う。岩井は最後までいた。最初一人帰られ間もなく二人帰られたように思う。遊ぶというのは息子恵と将棋などをしたことである。子供は一〇時前頃寝たと思う。自分が、明日学校があるのだから早く寝なさい、と言って寝かせた。それから間もなく二人が帰った。主人が部落の常会へ行き一二時頃帰宅した。子供に寝るように言ったとき目覚時計を見て一〇時前頃だったので、二人の方が帰られたのは一〇時頃だったと思う。」旨供述し(一審同証人尋問調書中一冊一六〇丁以下)、一次控訴審で「二四日夜七時半頃自分方に主人の留守中阿藤・久永・松崎・岩井がきた。同人らの顔は知っているが、どの人が誰か名前は知らない。阿藤らは順順に帰り岩井は一一時頃最後に帰った。阿藤らがどの順番で帰ったか今覚えていない。子供が何時だろうかと言うので、自分が時計を見て一〇時だなと思ったので一〇時と答えると、それならば僕も帰ろうと言って帰った。三人は一〇時頃までに帰ったのです。(丸茂弁護人の、初めは誰か一人帰り、あとの二人はその後連れだって帰ったのではないか、との問に対し)いいえ、三人別別に帰った。(同弁護人の、二人は一〇時頃帰ったのははっきり覚えているのですか、との問に対し)はい、サイレン鳴ったかどうか覚えていない。」旨供述し(一次控訴審同証人尋問調書中六冊一一七五丁以下)、二次控訴審一九回公判では「(原田弁護人の尋問に対し)二四日夜七時過自分方に主人の留守中阿藤・松崎・久永・岩井がきて、皆別別に帰った。(さらに同弁護人の尋問に対し)平生の裁判で顔を見て判ったが、最初に松崎が帰り次に一〇時のサイレンが鳴ってから二人帰った。阿藤と久永と思う。(正木弁護人の問に対し)二人は一〇時のサイレン鳴ったから帰ろうと言って帰られた。(卜部検察官の問に対し)松崎は九時頃帰った。阿藤と久永とはサイレンが鳴ったから帰ろうといって帰った。今までいろんな方が見えて問われたので、それだけはよく覚えている。自分はその際時計も見、サイレンも耳にした。子供を寝かしてから帰ったかそこまで記憶ないが自分が一〇時になるからもう寝なさいと言った。」旨供述している(二一冊七二九六丁以下)。以上のとおり阿藤・久永が二四日夜一〇時頃一緒に中野方を出たとの点に関する証人中野良子の供述は頗る曖昧であるうえに一貫を欠き、これらの点からしても真の記憶に基くものとは考えられない。しかも、同証人の、検察官に対する供述調書中「自分が昭和二六年二月の寒い頃岩国の検事調べを受ける前に自分方に阿藤・松崎・久永の母達がきた。その際同人らから、今度参考人として岩国の検察庁に呼ばれるかも判らんから、そのときには事件の起った晩に阿藤ら四人がここにきたということを言ってくれ。よろしく頼む、といわれた。それ以上どのような話をしたか詳しいことは覚えないが、検察庁では阿藤らがきた時間のことをきかれるのは判っていた。それは、阿藤らの母から呼出しがあるかもしれないときいていたのと、時間のことは取調べに重要で一〇分でもアリバイに大切であるからである。その後阿藤の母に会ったとき、同人から寒いのにご苦労さんでしたと言われたことがあり、またその後も阿藤・松崎・久永の母が一緒に巻尺を持って私方にきたことがある。」(二九冊一一〇五二丁以下)旨の供述記載及び証人岩井武雄の二次控訴審二一回公判での「二四日夜中野方では風が強くて一〇時のサイレンが聞えなかった。」旨の供述(二二冊七七四四丁)、同証人の当審四回公判での「一月二九日夕方阿藤の母が自分方にきて、周ちゃんは遅く帰ったんだろう、と言ったので、自分が早く帰ったと答えたところ、阿藤の母はそうではない、中野を一〇時頃出たんだ、と言っていた。その頃自分が久永方に行った際同人の母サイ子が二四日岩井さんは何時頃帰ったか、と言うので、自分が中野を一一時頃出て一一時半頃帰宅したよう答えた。サイ子が、二四日の晩家の前を誰か通って、“チャンジュウ”と声をかけたのは岩井さんだろう、そのとき山崎巡査がきていてあれは周ちゃんだと言ったが、それはあんただろう、あんたにしてくれ、ということで、とうとうしまいにそれが自分になってしまった。二月に自分が第一回目に検察庁に出る前松崎方へ行った際同人方で松崎・久永・阿藤の母らから岩井さんあなたは忘れてはいかんからここで覚え書きを書きなさい、と言われて書いたのが証第一〇三号の書面である(その内容については前掲)。その記載中時間と自分が久永方前を通ったとの点が事実に相違するものである。服装の点は阿藤・松崎の母らに言われて書いたものである(六一冊一二八三丁以下一二八六丁裏以下)。自分は同じように働いているし、皆のおばさん達もよくしてくれるので辛い気になってしまった(六一冊一二八六丁)。自分は時間の点について阿藤の母などに頼まれていた。そのことを今まで隠していた。死んだからあの人の名前を出すのではない。これは今日ここで初めて言うことである。呼出されたら周ちゃんは一〇時に出たと言うてくれ、と頼まれた。自分は違うと言ったが(六一冊一三三六丁以下)。前述の書面に阿藤・久永の二人が一緒に帰ったように書いたのは久永の母から一人で帰ったより二人で帰った方がいいんじゃないかと言われたのでそうしたが、どうしてその方が都合がよいのかは自分には判らない(六一冊一三六四丁以下)。」旨の供述に照らし考察すれば、証人中野良子の前掲阿藤・久永が二四日夜一〇時頃一緒に中野方を出た旨の供述は、阿藤らの家族からの依頼または暗示に基く偽証ないしは錯誤による証言であったとすら認められる。そのうえ、中野末広の、検察官に対する供述調書中「昭和二六年二月の寒い日に妻が岩国の検察庁に呼ばれるより四・五日位前の晩方阿藤・松崎・久永の母三人が揃って自分方にきた。その際自分と妻とが会って話をした。その話の詳細は忘れたが要するに、事件の当夜自分方に四人(阿藤・松崎・久永・岩井の意と解す)がきて三人(阿藤・松崎・久永の意と解す)は一〇時までおったと言っているがどうでしょうか、このことで岩国の検察庁に呼出されて事情をきかれることがあるかもしれないが、その際にはそのようにはっきり言ってもらいたい、よろしく頼む、とのことであった。自分らもそのように思うので、きかれたらそのように申しますと答えた。その後妻が検察庁に出て二・三日内にまた三人の母がきてどうであったかと尋ねた。妻良子が取調べの内容を話した。詳しいことは忘れた。その後も三人の母が自分方に自分がおるときに三回位、それ以外にもきたと良子にきいている。右三回のうち一回は柳井に出ての帰りがけに寄ったと言った。また久永の母が柳井に出たついでに寄ったと言ってきたことがあり、さらに三人揃って測量にきたこともあった。自分も松崎の家に二・三回行ったことがある。三人の母がきたのは事件の経過を話しにきたのである。自分は松崎方に行ったのは何かいい材料でもあったか、事件の進行具合をききに行ったのである。以上のほか平生町議の中野儀助が四・五回自分方にきたことがある。最初は良子が検察庁へ出る前か後かとに角その前後に三人の母らと前後して中野儀助が自分方にきて、殆んど一人ずもうのように、八海事件は絶対白だと言ってアリバイの話をして帰った。最後は昨年一一月(昭和三二年一一月のこと)一〇時頃広島県議・新聞記者・国会議員・弁護士等五〇名位がきた際、中野はそれに先立って九時頃一人できて良子に大きな声で八海事件の話をし絶対に白だと言って帰って行った。中野は前述最初に自分方にくるまでは面識のない人であった。」(四八冊一八九三九丁以下)、「事件後延べ二〇〇人位自分方にきた。弁護団・調査団のほか警察等である。最初警察がきたとき調書は作らなかった。昭和二六年二月寒い日良子が検察庁に呼ばれる前四・五日位か一週間位前三人の母がきたとき、同人らの言われたことを縮めてみると、事件の晩に息子達がお宅に訪ねてきて一〇時過に息子三人が帰ったと言っているがどうか、いずれ検察庁からの呼出しがあるかもしれんから、もし呼出しがあって出られたときはあったとおりを言ってもらいたい、と言った。自分の妻は息子さん達の言われるよう考えているのでそのように申しますと言った。その後呼出しをうけて帰ってきてから数日後の午後三人の母がきて妻から検察庁での調べをきかれた。」(四八冊一八九四五丁以下)旨の各供述記載に照らすときは、前記中野証人の阿藤・久永が二四日夜一〇時頃一緒に中野方を出たとの点に関する供述は一層信用すべからざるものであることが明らかである。

(7) 吉岡が二四日夜、(イ)麻郷の新庄藤一方を出発し八海橋上で阿藤・久永に出会う迄と、(ロ)奪取金分配後中本自動車店に到着する迄の時刻関係。

(イ) について。

麻郷の新庄藤一方から人島の阿藤方迄の通常の徒歩所要時間は約二三分三〇秒(二次控訴審検証調書の記載によれば、右新庄方・八海橋西詰間約一七分((一五冊五一一九丁))、同西詰・東詰間約一分三〇秒((一五冊五一五二丁))、同東詰・人島阿藤方間約五分((一五冊五一五四丁)))、であるから、吉岡が二四日夜八時頃右新庄方を出発し(前記(一))通常の並足により歩行したものとすれば、人島の阿藤方には凡そ八時二三分前後に到着し得た筈である。しかしその際吉岡は新庄方で焼酎四合ないし五合を飲んだ直後のことで酩酊していたことが窺われ(二次控訴審二回公判調書中一二冊三六八九丁・同審四二回公判調書中三三冊一二七四四丁以下・一二七五〇丁・同審六一回公判調書中四四冊一七一三九丁裏・当審一二回公判六七冊三五四四丁・当審一六回公判七〇冊四四八七丁。なお、二次控訴審四二回公判調書中三三冊一二七四四丁以下によれば吉岡の平素の酒量は焼酎なら二・三合程度で、右四合ないし五合を飲む以前既に何程かの焼酎を飲んでいたことが認められ、新庄藤一の検察官に対する供述調書一冊二二二丁以下の記載によるも吉岡は新庄方出発迄合計六合位の焼酎を飲んだことが認められる。)、そのうえ途中鳥越峠付近道端の小屋の中で寝たというにあっては(前記(一)。なお、悦太郎の検察官に対する供述調書八六冊九七六七丁以下の記載によれば、当時鳥越付近に小屋があってあけ放しのまま中に馬車や筵がおかれてあったことが認められる。)、吉岡の阿藤方到着時刻を推定することは困難である(この点で、新庄方出発時刻に関する(一)に引用の吉岡供述中にはその時刻を七時半頃とするものもあるが、その結論に大差がない。)。もっとも吉岡は当審で右小屋の中に寝た時間をあるいは一時間ともいうが(前記(一))、当審以前の公判では寧ろその時間については判然しない旨供述している(例えば二次控訴審二回公判調書中一二冊三六九四丁裏・同審四二回公判調書中三三冊一二七五一丁以下)。元来酩酊中の睡眠時間についてその者の供述を求めることは無理なことで、一般にその供述には正確を期しがたいものといわなければならない。いずれにしても、吉岡が人島の阿藤方に着いて屋内をのぞいた際同人方には「阿藤の母と子供が寝ているだけで他に誰もいない様子であった。」(前記(一)。阿藤供述一審一〇回公判調書中九八二丁裏以下・及び同人の司法警察員に対する供述調書四冊七七八丁裏以下によれば、その際寝ていたのは阿藤の母小房と甥の健一当時七年の二人であったと認められる。)ことからすれば、その時刻は前記認定の同夜阿藤の妹サカヱと木下六子とが松崎からバスを借りるため同人方へ向け出発した凡そ九時四七・八分(前記(6)(ハ)で認定の松崎の阿藤方出発と同時刻。)後から右サカヱが松崎方から帰宅する迄の間で、しかも前記(6)(イ)の吉岡が八海橋上で阿藤・久永に出合った時刻及び後段認定の時間関係からみて右出発直後であったと認むべきである(以上の各時刻・時間はいずれも正確を期しがたく、すべて凡その推定時刻であることは前にも断ったとおりである。)。さらに吉岡が人島の阿藤方から引返し八海橋上で阿藤・久永に出合う迄の所要時間を前記(一)の吉岡供述に従って検討するとその時間は約三〇分で(人島阿藤方・八海橋東詰間約五分((一五冊五一五四丁))、同東詰・石地蔵尊間約三分三五秒((四五冊一七五二九丁八行目))、石地蔵尊付近から西南方鳥越峠迄は約四分二三秒((一五冊五一八〇丁第二図。同区間は六冊一一七二丁平生町全図により測定すると約三五〇米。その徒歩所要時間は前記毎分八〇米の歩速によれば約四分二三秒))、鳥越峠・鳥越橋間約五分((一五冊五一四九丁))、同橋近くの増野煙草店で新生一個を買いマッチを借りるなどに要した時間を約三〇秒とみる((二次控訴審四二回公判調書中三三冊一二七六八丁裏・当審一三回公判六八冊三七五九丁以下。同三七五九丁八行目・一〇行目・同丁裏八行目に各「買った」とあるは、「借りた」を「かった」となまる方言の誤記と認める。))、鳥越橋・八海橋西詰間約一一分((一五冊五一四九丁))、同西詰から八海橋上五八米の地点迄は約四三秒(((6)(イ)))、以上合計約三〇分一一秒。)、この時間は「八海橋上で阿藤に出合ったのは阿藤方をのぞいてから三〇分位後のことである。」旨の吉岡供述(前記(一))に概ね符合するものとみるべきである。

新庄藤一及び新庄サツヨの二四日夜同人らの家から吉岡が立去った時刻に関する各供述は前記(一)の吉岡供述と異なるものがあるのでこの点について検討する。

先ずこの点に関する吉岡供述をみると、その要旨は次のとおりである。すなわち、「二四日午後二度麻郷の新庄藤一方に行って焼酎を飲んだ(二次控訴審二回公判調書中一二冊三五七九丁以下三六〇〇丁裏以下・同審一八回公判調書中二〇冊七一九二丁以下・同審四二回公判調書中三三冊一二七四五丁裏・同審五六回公判調書中四一冊一六〇七七丁・当審一二回公判六七冊三五四一丁以下。)。最初は二時か三時頃で二度目は五時頃である(二次控訴審二回公判調書中一二冊三六〇一丁以下・当審一二回公判六七冊三五四一丁以下。最初飲んだ量につき二次控訴審四二回公判では一合か二合位と言い三三冊一二七四五丁裏・当審一二回公判では二合とも言う六七冊三五四一丁)。二度目は新庄藤一が帰宅してから二人で飲むことになった。その前に新庄が風呂にはいることになり、同人が風呂に水を入れ、自分が薪割を手伝った。そして自分は風呂のわく間天ぷらか何かおかずを買いにでかけた(当審一二回公判六七冊三五四二丁以下・当審一六回公判七〇冊四四八七丁以下・二次控訴審五六回公判調書中四一冊一六〇七六丁以下も略同旨。吉岡は当審一二回公判で右の品を買った店は「増野」であったようにもいうが、四一冊一六〇七八丁以下によればその店の名は「曽我」で、吉岡の記憶違いであると認められる。)。飲み出したのは六時頃か六時半頃である(二次控訴審二回公判調書中一二冊三六〇五丁・当審一二回公判六七冊三五四三丁)。二度目は初め自分が五合を買い、次に新庄が四合か五合位を出し結局二人で八合位か一升位を飲んだ(二次控訴審四二回公判調書中三三冊一二七四七丁以下・当審一二回公判六七冊三五四三丁以下・三五四五丁・当審一六回公判七〇冊四四八七丁裏以下。)。歌をうたったり、馬鹿話などをしながらのんだ(当審一二回公判六七冊三五四三丁)。飲むのに二時間位かかった(二次控訴審二回公判調書中一二冊三六〇三丁裏以下・当審一二回公判六七冊三五四三丁裏・当審一六回公判七〇冊四四八七丁裏以下。)。飲み終って新庄方を出たのは八時頃である(二次控訴審二回公判調書中一二冊三六〇四丁裏・同審八回公判調書中一四冊四七五二丁・四六六〇丁・同審四二回公判調書中三三冊一二七四八丁・同審五六回公判調書中四一冊一六〇七九丁裏・当審一二回公判六七冊三五三九丁裏・当審一四回公判六八冊三八四八丁・当審一六回公判七〇冊四四八七丁以下。)。」というのである。

これに対し新庄サツヨは二次控訴審で証人として「二四日午後四時頃吉岡がきて焼酎一合足らずをコップで飲んで帰った。同人が二度目に自分方にきたときは主人が木を割るのを手伝い五時半頃から主人と二人で焼酎五合位飲んだ。その際自分が鰯一〇本位をつくって出した。飲んだ量は二合半位か。吉岡は六時半頃かに自分方を出た。」旨供述し(二次控訴審証人尋問調書中二四冊八六七六丁以下)、また司法警察員に対しても「二四日午後四時頃吉岡がきて焼酎二合を飲んで四時半頃帰った。五時頃再びきて焼酎三・四合を買って主人と一緒に飲んだ。それを飲んでから主人が二合おごった。六時頃飲み終って帰た。」旨供述する(四八冊一九〇八八丁以下)が、以上の各供述中飲酒の量と吉岡が新庄方を立去った時刻に関する部分は、右サツヨの司法警察員に対する「二四日午後五時前頃自分方に吉岡がきて、今日はおじさんと一杯買うて飲もうか、と言ったが、自分方で断ったので、吉岡は焼酎一杯(一合)を台所に腰かけいりこを肴にちびりちびり飲んで帰った。」旨の供述(四八冊一九〇六八丁以下)に照し、一体どの程度まで真実を述べているのか既に疑問があり、後記新庄藤一の供述からみても直ちに信をおけない。新庄藤一の二次控訴審証人としての「二四日午後五時頃自分が帰宅して薪を割っている時分吉岡がきていて薪割りを手伝った。五時半頃から同人と二人で一緒に鰯のつくりを肴にして五・六合位飲んだ。自分がしまいに一瓶程(二合入り)かけた。飲んだのは六合位かと思う。吉岡は六時半頃に帰った。自分が最後の一瓶買う前に吉岡がどの位買ったかよく覚えない。鰯の刺身は四・五匹分である。吉岡は何も買わなかった。」旨の供述(二次控訴審証人尋問調書二四冊八七〇一丁以下)及び検察官に対する「二四日午後五時頃帰宅してみたら吉岡がきていた。妻の話では四時頃きて餠一〇個をくれたうえ一杯飲ませてくれとのことであったので、焼酎を二合位飲ませたとのことであった。自分が帰ってからも一杯飲もうというので、若い者が余り飲んではいけないと言いながら四合位を二人で飲んだ。結局吉岡が合計六合位の焼酎を飲んで帰った。」旨の供述(一冊二二二丁以下)によるも、その際吉岡と新庄藤一との二人で飲んだ焼酎量を確実に認定することは困難ではあるが、同人の右各供述を仔細にみれば、その量は八合位に及んだことも認められる(同人の右検察官に対する供述調書の記載からすれば、その際の吉岡一人の飲量だけでも四合位であったとも認められる。)。そして、吉岡がいうように、新庄が五時頃帰宅してから風呂に水を入れ薪割りなどをしたのち入浴したうえで飲み始めたものとすれば(薪割りを吉岡が手伝った事実は前記二証人とも認めるところであって、この点に関する吉岡供述には真実性がある。)、二人で飲酒しはじめた時刻は、新庄藤一がいうように五時半頃であったとは経験上からしても認められない。むしろ、吉岡がいうように、それは六時ないし六時半頃であったと認めることの方が相当である。しかも右飲酒量は清酒と異なり二人分のものとして通常一般には決して少いものとはいえないのみならず、これが肴に鰯の刺身のほか吉岡持参の天ぷら等をもってしたとすれば、あえて吉岡の言をまたずとも、その間おのずから歌も出たであろうし、馬鹿話に花も咲いたであろうことは、容易に首肯されるところであり、その飲み終りの時刻が六時ないし六時半であったとは到底考えられない。これによってみれば、新庄サツヨ・新庄藤一の前掲吉岡が新庄方を立去った時刻に関する各供述は共に信用すべからざるものであり、この点に関する吉岡供述の方が真実を物語るものといわなければならない。のみならず当時麻郷で雑貨商を営んでいた曽我秋二の、司法警察員に対する供述調書中「二四日夜六時頃吉岡が自分方にきて竹輪と天ぷらを合わせて三枚くれと言ったのを自分がきき違えて天ぷら三枚と竹輪三本とを出すと、吉岡が合わせて三つと言ったので竹輪二本・天ぷら一枚を売った。」旨(四一冊一六二二三丁以下)及び検察官に対する供述調書中「二四日夜当時麻郷村字鳥越で食糧品・雑貨商を営んでいた自分方に吉岡がきて竹輪二本・天ぷら一枚を買って帰った。その時刻が午後六時頃であるに相違ないと思う。」旨(旧姓曽我こと平野秋二検四一冊一六二二〇丁以下)の各供述記載に照らせば、新庄サツヨ新庄藤一両名の右時刻に関する各供述は一層措信できないものであることが判る。

(ロ) について。

吉岡のいう奪取金分配地点から平生町中本自動車店迄の所要時間は、前記(一)及び(6)(ホ)(ⅳ)の吉岡供述の経路に従えば、約四五分ないし一時間一五分(奪取金分配地点・八海橋東詰間約一五秒(((6)(ホ)(ⅲ)))、同東詰・西詰間約一分三〇秒((一五冊五一五二丁))、同西詰から折返し地点迄約一分二四秒(((6)(ホ)(ⅳ)の約二分四七秒の二分の一))、同地点・八海橋東詰間約二分五四秒((以上援用))、同東詰・中本自動車店間約九分八秒((四五冊一七五二八丁裏))。以上の各徒歩所要時間のほか、八海橋東詰東方約二三米付近道路下で寝た時間を、この点に関し引用の前記(一)の吉岡供述により三〇分ないし一時間とみる((その供述によれば、吉岡は右道路上迄きた際人が二人向うからくるのを見たので直ぐ下におりて遊廓へ行こうかどうしようかと考えているうち、つい疲が出て眠ってしまった。その時分には大分酔がさめていた、という。))。以上合計約四五分一一秒ないし約一時間一五分一一秒。)であるから、吉岡の中本自動車店到着時刻は奪取金分配地点を出発した二四日午後一一時二一分頃から((6)(ホ)(ⅲ))右所要時間経過後の翌二五日午前零時六分過頃から同日午前零時三六分前後の間で、この時刻は中本イチ・岡田保の検察官に対する各供述調書(一冊二〇八丁以下・二〇六丁以下)竝びに当審一〇回公判証人中本貫一・同岡田保の各供述(六五冊二八一〇丁以下・二八二七丁以下)によって認められる吉岡の中本自動車店到着時刻(その時刻は二五日午前零時二〇分過頃から同日午前零時三〇分前後の間)に概ね符合するものと認むべきである。

(8) 二四日夜被告人らが上田節夫方に寄り集った際の状況。

当審八回・二次控訴審六四回・六五回各公判を通じての証人木下六子の供述(六四冊二二六四丁裏以下・四六冊一八一一一丁以下・四七冊一八三五七丁以下)竝びに当審五回公判での証人上田節夫の供述(六三冊一六六六丁以下)を綜合すれば、二四日夜被告人らが八海の上田方に寄り集った際の状況は概ね次のとおりであったことが認められる。

最初阿藤・稲田がほぼ一緒にきてから二・三分後に松崎・久永の順できた。阿藤が皆に「遅いから静かにせえ。」と注意した。その頃奥の間に寝ていた上田も話声で目をさまし被告人らのいるところに出てきていた。阿藤が「腹がへったからご飯を食べようじゃないか。」と言ったことから、ご飯をたいて食べることになった。木下が米をとぐように言われて上田方の釜を出して阿藤に米を入れてもらい(その米は木下がそれ迄に見たことのない色ものの袋に入れてあった約一升程度のもの。)、上田から裏井戸を教えてもらったが、その場所は暗いうえに竹藪があったので恐れてそこへ行くことをためらったため「米をようとがんような女なら捨てるがいい。」と阿藤以外の被告人らにひやかされた。阿藤が「わしがといでやる。」と言い井戸端に出て米をといだ。その際木下が阿藤から受取った懐中電灯で井戸端を照らした。その場で阿藤が木下に向い「出さえすりゃええのに。どうせわしが出てくるのに。みんなにひやかされて穴があったらはいりたかった。」などと話した。米がとぎあがってから、稲田が床下から木を取り出し「わしが割ってやろう。」と大声で言ったため「静かにせえ。」と阿藤にたしなめられた。稲田がその木を枕木様のものを土台にして鉈で割った。木下がたきつけにかかる時分、何もおかずがないので松崎が佃煮を買いに出かけた。ご飯がたき上った頃松崎が「ずい分探したけど皆休んでいた。ようよう買ってきた。」と言って塩昆布をどこかで買って戻った。そこで皆が食事をした(但し、木下証人の四六冊一八二三四丁以下・一八一五八丁裏及び上田証人の六三冊一七〇〇丁裏・四九冊一九二六四丁裏の各供述によれば、その時分久永のみは上田方から立ち去っていたことが認められる。)。食事後稲田らが帰ってから木下が食器を洗っている時分、阿藤が「今日は寒いから浴衣を着こんでいた。襟垢がついたから洗う。」と言って浴衣を脱いだ。その際木下は阿藤がズボンを二枚はいてズボンとズボンの間に浴衣の裾の方を突つこんでいるのを見て、この人は洋服の下に着物を着ていておかしな人だと感じた。ズボンは白っぽくなったもので、浴衣は白地に小さな青の菱形模様がはいったものであった。木下が、食器を洗い終ってから、「わたしが洗ってあげよう。」と言って浴衣を手にとりかけたとき、阿藤が「今日バラスを上げるのにズボンの裾が汚れたからついでにズボンの裾も洗う。」と言った。事実、木下はそのズボンの膝から下の方に赤黒く点点としみついているのを目撃した。阿藤は「今日は遅いのでまた洗ってもらうから。」と、上田から借りたたらいに、前に米をとぐ際に使用した井戸とは別の表井戸の水を汲み、腕まくりをして洗濯をし、「今日現場で後から自動車がきて怪我人があったので仕事にならなかった。」と木下に語った。その際洗濯をしたものがズボンと浴衣だけだったのか、ほかにシャツ等の衣類もあったかについての証人木下の記憶は明らかでない。上田方表側板の間の鴨居に渡してある竹に洗濯物をかけて、阿藤・木下の二人が就寝した頃はもうすでに真夜中であった。寝床の中で阿藤が「あんたもこっちにきたんじゃから、帰らずにこっちにおりきりにおれ。一緒になろうじゃないか。」と言ったのに応じ、木下がこれに「はい。」と答えた。二人が休んで二、三時間もたったと思われる頃、もう稲田が口笛を吹いて阿藤を誘いにきた。阿藤は稲田が持ってきてくれた弁当の半分位を食べ、その残りを寝ている木下の枕元に差し出して同人にも食べさせ、稲田と共に上田方を出た。阿藤がその際はいて出たズボンは前夜洗濯をしたズボンとは別のその下に余分にはいていたものであった。また、二四日夜食事後稲田と松崎とが帰るとき上田方の外に置いてあった自転車を土間に入れた。その自転車はチェーンの切れていないもので、チェーンの切れた方の自転車は、誰が入れたかは判らないが、その時分すでに土間に入れてあった。二五日朝阿藤はチェーンの切れてない方の自転車に乗って出たが、その夜帰宅した際にはそれを持ち帰らなかった。

と、いうのである。これらの事実は一体何を物語るものであろうか。当夜被告人らが上田方に寄り集まったのは一一時半頃((6)(ホ)(ⅳ))のことである。被告人らはそれまで何処で何をしていたというのであろうか。殊にその時分になって出所不明の米をたいて食事をした事実(もっとも、阿藤・木下は岩井商店西南角から上田方にくる途中一個のパンを二人で分けて食べた((四六冊一八一五〇丁))以外には食事をしていなかった。当審一〇回公判証人松崎ツヤの供述によれば、松崎もまた当夜夕食をせずに外出していたようにも認められる。)竝びに阿藤が寒中の深夜着用のズボン・浴衣を脱ぎ、内妻六子の手助けをも退けてことさらに自分でこれらの洗濯をした事実の如きは不可解とされなければならない。

阿藤は当審においても八海の上田節夫方に木下六子と共に間借りするようになったのは二五日夜からであると供述するが、その供述は木下六子・阿藤サカヱ・阿藤小房・上田節夫の警察・検察庁以来の同旨の供述と共に以上の認定に照らし採用できないのみならず、それらの供述は、土手タマヱ(二七冊一〇三〇八丁以下)・福屋ユキ(四五冊一八三〇八丁以下・四五冊一八三一三丁以下)の検察官に対する供述調書中同人らの各供述記載に照らすも信用すべからざるものであることが判る。

ことに、証人木下六子の当審八回公判・二次控訴審六四回六五回公判を通じての供述によれば、同人は「従前嘘偽りを言ってきたが、逮捕されてのちは、人間は嘘でこの世を通れないと思い、過去のでき事を一生懸命考えた。これまで嘘を言ってきたのは、阿藤や阿藤の母に言われたり、短期間ながらも妻としての生活を営んでいた関係から阿藤らが罪に落ちることを心配し、また被告人らが出てきたときには自分の身が危いとも考えたからであった。一月二六日平生座から帰り上田方で火をたいてあたっていた際阿藤から『お前もわしが疑われて警察へ行くようになったら、二四日の晩には人島に寝たと言うとけ、お袋も知っとるじゃけえ。』と言われた。その場には稲田・松崎・久永もいた。阿藤が検挙された日の翌日である一月三〇日人島の阿藤方に行った際阿藤の母から、同女が二六日夜上田方にきて木下に向い『うちの息子に押しかけてきたような片目の女を嫁にもらうのではない。』と言ったことにつき、『この間言うたことは水に流してくれ。』と言われ、座敷へ上ると『警察でどういうことをきかれたか。』と尋ねられて、警察には阿藤と知り合ってからのことや、二四日の晩人島の家に寝たように述べたことなどを話した。その際阿藤の母から『パスを取りに行ってからサアちゃんと一緒に戻ったんじゃ。』とことさらに事実に反することを言われて嘘を言うよう暗示された。その後も阿藤の母から『あんたが一番証人になるんじゃけえ、あんたさえしっかりしておってくれたら心配はないんじゃから。』と言われたためいよいよ偽証を続けるよう決意するに至った。二四日夜一〇時のサイレンをきいたのは松崎方へ出かける前人島の家であるよう供述するようになったのも、阿藤の母からそのように供述するよう言われたためであった。(記録によれば木下六子が昭和二六年一月二九日司法警察員に対し『二四日夜九時頃松崎がきて、阿藤が人島の家に帰って入浴し食事をしたのは一〇時頃である。』と述べ((三冊五一六丁以下))、同月三一日司法警察員に対し『二四日夜阿藤が一〇時頃帰宅した。』と述べ((四八冊一九一〇一丁裏))ながら、一審三回公判では証人として『二四日夜一〇時前に松崎がきて一〇時のサイレンが鳴ったのちパスを借りるため自分と妹サカヱとが松崎について人島の家を出て行った。』と供述し((二冊三八八丁裏以下))従前の供述を変更するに至ったことが認められる。)。二次控訴審三三回公判で『事件のことは二五日に人島の家できいた。』と述べたのは、二四日夜阿藤が人島にいたことを信用させるための虚言であり、『二四日夜畠中が阿藤方にきた』ように述べたのは、阿藤の母にきいたことを自分で見たように言うたもの、『二五日に阿藤の家に吉岡の兄がきた。』と述べたのは、阿藤の母にそのように言われて言ったことである。また『二五日人島の阿藤方に松崎がきた。』と述べたのも嘘で、したがって同日阿藤帰宅後同人らと一緒に大野理髪店に吉岡を探しに行ったことなどは事実無根である。さらに、同公判で『二五日上田方へ行く途中八海で殺人があったのはあの向うの明かるい灯がついているところである。』と教わったように述べたのも、二四日阿藤が人島にいたように信用させるためのもので、事実は二六日平生座に行くときか帰りに、とに角その日、日が暮れてから教わったことであった。二次控訴審六四回公判に出廷する以前のことであるが、同審の公判に証人として出廷する前阿藤の母を訪ねた際たまたま桶口も来合わせており、『これを読んでおかないと詰まるぞ。』と言われて、阿藤の母が出した“真実”を読むよう要求され、“木下六子”の名の出ている箇所に目を通したが頭にはいらなかった。それで『こんな本を読んでも判りゃせん。どうせ二四日の晩のことを明らかにしさえすりゃいいんじゃから。二四日の晩は上田の家に集まってご飯をたべ、のちに洗濯をして休んだと言えばいいんじゃから。』とつい他人である桶口のいる前でうっかり口を滑らした。その他、司法警察員に述べた『二四日夜七時頃稲田が阿藤のいいつけで人島の阿藤方に自転車を取りにきた』とか、『二四日夜人島の家で就寝に際し阿藤と母とが口喧嘩をした。』と述べたことや、検察官に対しその夜の人島の家での就寝状況を述べたことなどは、すべて二四日夜阿藤が人島の自宅にいたことを偽るため虚構の事実を供述した。」ものであることが明らかである。さらにこのことは当審五回公判証人上田節夫の「自分が警察以来の取調べに対し阿藤に部屋を貸したのは二五日からであると供述したのは、阿藤や稲田から『ほかの人がききにきたときには阿藤が自分方に宿泊したのは二五日からである。』と言ってくれと口止めされていたからである。自分は阿藤はやくざ関係があるときいていたので恐ろしくてそのように言う気になった。二六日平生座の前でも阿藤から『いろんなこというと承知せんぞ。わしがおらんでも手ずるはあるんじゃから。』と言われたこともある。自分が二五日から貸したといえば、自分の方で疑われる率も少なくなるとも考えた。」旨の供述(六三冊一六八二丁以下・一七五三丁以下・一七八五丁裏以下・一七九〇丁以下・一八九二丁以下)竝びに二次控訴審五八回公判証人桶口豊の「阿藤の母方で木下六子に出合った際のことであるが、阿藤の母が木下に『あした証人に出るんだからこの本をよう見て覚えておけ。』と言って“裁判官”か“真実”かを出した。木下が『今さら見たけいって頭にはいるわけじゃない、この本見んでもそれ位のことは覚えている。』と言うと、阿藤の母が『覚えているなら二四日のこと言うてみい。』と言うと、木下が『言う必要ない。』と答えた。なおも阿藤の母は『覚えているなら言ってもいいじゃないか。』と言ったので、木下が『そういうなら言う。』と短気を出して『二四日にはつぎのあたっている高さ一尺位丸さ径六寸位の……手まねをし……袋に米を一升位はいっているやつを、初めて上田方へ行った二四日の夜中に阿藤が出してたいてくれと言ったが、米をとぐところもよく判らず裏はこわいから嫌だと言ったら、周ちゃんが裏へ行ってといでくれた。それをたいて食べてから、庭で浴衣やら作業衣を洗濯した。』とまで言った。」旨の供述(四二冊一六四二六丁以下)に照らし一層明白である。もっとも木下証人の前記供述に関係を持つ本件発覚後の事件現場屋外の照明状況については当審の取調べによるも明らかではなく、証人山田ヒナ子は当審二三回公判で「事件後一週間位の間現場屋外に一〇〇ワット電灯が高い柱の上に取りつけられて明かるくなっていた。」旨供述するが、それが二五日夜からであるか二六日夜からであるかは同証人の供述によるも判然しない。しかし、このことは証人木下六子の当審八回二次控訴審六四回・六五回各公判を通じての供述により認められる前段説示の事実を何ら左右するに足りない。

阿藤はさらに当審二六回公判で「上田方でご飯をたいて食べたのは二六日夜平生座から帰ってから一回だけである。その際自分のほか稲田・木下・上田・松崎もいた。米はその日徳山から帰る汽車中か田布施に降りてからか一緒に仕事に行っていた百姓家の小関某(当時一七・八才)に一升頼んであったもので、平生座で同人からもらったと記憶する。二次控訴審五一回公判で佐川・和田・世らのうち誰かからもらったと言ったのは小関を思い出せなかったからである。小関が米を入れてきた袋は白木綿の黒くしみたようなものであった。それを木口の袋に入れて持ち帰った。当時自分は街の不良として恐れられていたので顔をきかしたわけである。他にもそのようにして年下の者から米をもらったことがある。」旨供述し(七八冊七二二〇丁裏以下)、稲田も当審二七回公判で「自分は阿藤が平生座のはいって左の階段を上り直ぐその側か、その階段の裏側かのどっちかで米をもらうのを見た。」旨供述する(七九冊七四七三丁)。しかし、阿藤の上申書中「二六日劇場に楽団を見に行っての帰りに松崎も上田方によったがすぐ帰った。」旨の記載(六冊一二六七丁)、二次控訴審五一回公判での「二六日夜鴨川楽団を見に行き帰りは上田・六子と一緒に上田方に帰ったが、稲田・久永・松崎が上田方に寄ったかどうかははっきりしない。楽団を見に行った際自分より年下の者から米を一升借りた。それを六子がたき、自分も食べたかと思うがよく判らない。二六日は仕事始で親方から一杯とうどん出たので夕食を食べずに楽団へ行ったようにも思う。米を借りたとき六子が下げて行った木口の袋に入れた。米は平生座の二階で受け取った。貸主は一緒にアパートの仕事に出ていた友達と思う。佐川・和田・世良田の三人のうち百姓をする家の人である。多分人島の世なんとかいう人じゃないかと思う。米は先方の袋から移した。」旨の供述(三八冊一五〇九七丁裏以下)、稲田上申書中「二六日帰宅後夕食を済ませて平生座へ行った。楽団が済んでから阿藤・松崎・木下と自分の四人で上田方に帰り、しばらく話をして帰宅した。」旨の記載(六冊一二八九丁以下)、証人木下六子の二次控訴審六四回公判での「米はどうしたものか知らない。自分も知らない色ものの袋にはいっていた(四六冊一八一九五丁以下)。二八日朝まで上田方にいたが夜遅く阿藤・稲田・松崎らが集まって飯をたいて食べたことは二四日以外にはない(四六冊一八二三四丁)。平生座から帰って米をたいて食べたことがないことは間違いない(四六冊一八二四三丁)。」、当審八回公判での「二六日平生座から帰ってご飯をたいて食べたことはない(六四冊二三〇八丁)。二六日平生座へ行くとき人島の阿藤方に木口袋を取りに寄ったのは、また人島に帰らないようにするためであった。木口袋は化粧用の袋であって平生座でそれに米を入れた記憶はない(六四冊二四七一丁裏以下。)」旨の供述、証人上田節夫の当審五回公判での「二六日夜平生座から帰ってご飯を食べた記憶はない(六三冊一七一一丁)。二六日平生座で小関から米を一升もらったことも、その日阿藤がご飯をたいて食べたことも記憶にない(六三冊一七八四丁裏)。」旨の供述、阿藤が二六日就労した徳山市の清水建設アパート工事の人夫出面表及び就労点検簿(証一〇一号の一・二。その各記載には小関姓の者が二六日就労した記載がない。)に照らし考究すれば、上田方で飯をたいて食事をした日とその際の米の入手とに関する阿藤の前記各供述は、稲田の当審二七回公判での前記供述と共に、前段認定の被告人らが二四日夜上田方に寄り集まった際出所不明の米をたいて食事した事実を糊塗するための虚言であるとしか受取れない。そして、証人木下六子の二次控訴審六四回公判での「二四日夜阿藤が上田方で出した米は色ものの袋にはいっていた一升あるかないかの程度のものであった。その袋も自分の知らないものであった。」旨の供述(四六冊一八一九五丁以下)、証人中山ツマの当審二〇回公判での「早川方にはヒサが生前いろんな新しいはぎれをつぎ合わせて作った一升位入りのお講米の袋が板の間の山手側にある戸棚の引き出しに納めてあったが、事件後それがなくなっている。」(七三冊五五三九丁以下・五六二四丁以下)、当審一九回公判での「早川方ではいつも母屋板の間の階段下に一斗罐の中に米を入れていた。」(七二冊五四二一丁以下)旨の各供述に照らせば、吉岡の二次控訴審五六回公判での「早川方からの帰途阿藤が何かわからないがわきの下にはさんでいたような記憶がある。自分が上るとき(その供述経過からみて早川方母屋板の間に上るときの意と解す。)、阿藤が階段の辺で何かしていた。」旨の供述(四一冊一六〇九五丁以下)もまた軽視することができない。すなわち、右三者の各供述の間にはたまたま符節を合するものがあり、これらによれば木下証人のいう「色ものの袋に入った米」はその袋と共に早川方から持ち運んできたものであることの蓋然性が頗る高いとみなければならない。

(9) 被告人らのアリバイ工作等について。

阿藤・松崎・久永は、同人らが二四日夜岩井武雄と共に田布呂木の中野末広方へ行ったのは昭和二五年中の賃金の残を受取るためであった、というのである(阿藤供述―二次控訴審四一回公判調書中三二冊一二五二八丁裏・当審二六回公判七八冊七二七九丁。松崎供述―当審二七回公判七九冊七六二二丁裏。久永供述―当審二八回公判七九冊七六五九丁。後記証人中野末広の供述によれば阿藤らには中野から受取るべき昭和二五年中の賃金の残がなかったようにも考えられるが、同証人の二一冊七五九五丁以下の供述からすれば右の残がなかったとも断言し得ない。また証人岩井武雄の当審尋問調書中八五冊九二八七丁以下の「自分としては昭和二五年中の残と二四日迄の砂利採取の賃金との両方をもらう考えであったようにも記憶するが、阿藤らには昭和二五年中の残があったかどうかは個人個人のことで自分には判らない。」旨の供述及び後記証人中野末広の「昭和二五年中の賃金の残は同年一二月三一日既に支払済である。」旨等の供述からすれば、阿藤らは当審四回公判証人岩井武雄供述((六一冊一三一四丁以下・一二五一丁以下))のように二二日から二四日迄砂利採取等に従事した賃金の前借の心算であったかとも考えられる。)。しかし、証人桶口豊の二次控訴審五八回公判での「二四日夜中野方へ行ったのは、金をもらうのも目的であったが、中野へ行けば夜の時間をごまかせるので、もらえんのに判って行ったのである。六時頃から久永方に集まって田布呂木へ行けばいい時間になるから一〇時か九時頃迄帰って阿藤の家へ行き、一〇時かその頃になったら吉岡が橋のところにくるから、そこへ行く。(四二冊一六四〇八丁裏以下)。中野へ金をもらいに行けば岩井も金をもらいに行くから都合がいいからということもあった(四二冊一六四四四丁)。」旨の供述、久永の二次控訴審四七回公判での「中野方ではもらえんということは前からずっと判っていたんです。」との供述(三六冊一四二一六丁裏九行目以下)、証人岩井武雄の「中野から今晩金をやるからこいと言われたことはない。」(当審四回公判六一冊一二五四丁)、「二四日仕事現場で阿藤の話でその夜久永方に皆が集まって金をもらいに行こうということになった。」旨(裁判官の証人尋問調書中四九冊一九二二八丁裏)の各供述、証人中野末広の二次控訴審二〇回公判での「二四日は勘定日でも何でもなく、またくる約束もなかったので四人がくることを自分は知らなかった(二一冊七五七二丁裏以下)。事件後には阿藤・松崎・久永が賃金を取りにきたことはなく、家族の者が取りにきた記憶もない(二一冊七五六五丁以下)。」の供述に、前記(2)ないし(6)に認定の中野方の往復に際しての状況と時間関係、竝びに同認定経過中に引用の阿藤・松崎・久永の各供述及び証人岩井武雄・同上田節夫の各供述によって認められる阿藤は右往復に際し途中自転車のチェーンが切れて歩いたため帰宅が遅れた如く糊塗しようと努力し、且つ松崎・久永もこれに同調している事実を合わせ考察すれば、桶口証人がいうように、二四日夜阿藤・松崎・久永が中野方へ行ったのは半ば賃金の受取と中野方からの帰宅にことよせて時間をごまかす意図に出たものとみられる節のあることを否定できない(右引用の岩井・上田各証人供述は次のとおりである。岩井―一審証人尋問調書中一冊一四三丁裏・当審四回公判六一冊一三〇一丁・当審証人尋問調書中八五冊九二二二丁裏・特に裁判官の証人尋問調書中四九冊一九二三一丁以下の「徳本組に賃金請求に行った帰りの汽車中で阿藤が自分に『二四日夜中野方から一〇時頃久永と自転車で二人乗りして帰った。途中チェーンが切れてよわった。もしものことがあったら、そのようにいうてくれ』と頼まれた。」旨の供述。但し、一九二三一丁にはそれが一月二七日頃のこととして供述されているが、当審四回公判六一冊一三〇一丁以下・一三八六丁一〇行目及び当審証人尋問調書八五冊九二六〇丁以下に照らし、一月二五日のことであったと認められる。上田―当審五回公判六三冊一六九〇丁の「阿藤が二四日夜遅く帰った際自分に『田布呂木へ行く途中自転車のチェーンが切れて歩いたため遅くなった』と言った」旨の供述。但し、同供述は、同証人に対する裁判官の尋問調書中四九冊一九二六二丁以下の「阿藤は八海橋の桶門で自転車のチェーンが切れたので平生座入口の自転車屋から自転車を借りて田布呂木へ行ってきたと言った。」旨の供述記載に照らし、チェーンが切れたのち全部を歩いた趣旨のものとは解しない。)。もっとも証人岩井武雄は「二四日夜中野方へ行ったのは、その日同人が田名にきて賃金を払うと言ったからであったような気もする。」とか(当審証人尋問調書中八五冊九二三九丁以下)、「二四日夜中野方に仕事の連絡に行った際、同人が今晩金をやるとのことであったので、その夜阿藤らと一緒に行ったのである。中野の妻(中野良子の意は)自分らが賃金を取りにきたことが判っている筈である。」とも(二次控訴審二一回公判調書中二二冊七七三三丁裏・七七四二丁裏)供述するが、それらの供述は、証人中野末広の二次控訴審二〇回公判での「阿藤らに支払う昭和二五年中の賃金の残は同年一二月三一日藤川組事務所前の旅館で支払をしたように思う(二一冊七四七五丁以下)。自分は田名の仕事場に一回行ってみたが、道具は道路のへりに片付けてあり本人らは誰もいなかった(二一冊七四八〇丁裏以下)。事件当夜の一月二四日自分の留守中に阿藤らがきたときいたが、その夜同人らがくることは全然知らなかった(二一冊七四八五丁裏以下)。その夜四人がきたのは何の用件だか判らない。自分は砂を採る場所を変える相談かと思った(二一冊七四九一丁)。二四日は勘定日でも何でもなく、くる約束もなかったので四人がくることを自分は知らなかった(前掲)。」旨の供述及び証人中野良子の一次控訴審での「二四日夜阿藤らがきたとき同人らは冗談を言ったり、子供と将棋をしたり、仕事の話をしたりしていた。何の用事できたのか自分には判らなかった。」旨(一次控訴審証人尋問調書中六冊一一七七丁以下)、二次控訴審一九回公判での「二四日夜四人はなにしに自分方にきたか判らなかった。」旨(二一冊七二九八丁裏・七三三六丁以下)の供述に照らし俄に信用できない。殊に同夜賃金の支払をすると言った中野が家人に一言もそのことを言いおかないで外出したということも納得しがたいところであり、岩井証人の右各供述は記憶違いによるものとしか考えられない。

弁護人らは阿藤らが二四日夜中野が不在であることを知っていたことの証明がない限り、同夜阿藤らが中野方へ出向いたことをもってアリバイ工作と認むべからざる旨主張する。しかし、仮に中野が在宅し、あるいは阿藤ら到着後間もなく帰宅し、同人らが中野に前記賃金の請求をし、または前借の申入をしたとしても、必ずしも即刻辞去するとは限らず、証人中野良子の前記供述により認められる待ち合わせ中の阿藤らの言動である「冗談を言ったり、子供と将棋をしたり、仕事の話をしたり」などして適宜時間を費し得べきことから考えても、右主張は採用の余地がない。

また、松崎の同人が二四日夜中野方から他の者に先じて帰り稲田方を訪ねた理由についての弁解の不可解なことは(5)(ホ)に説示のとおりである。そして、この点に関する(5)(ホ)に認定の各事実に、同夜稲田が松崎の立去ったのち外出し阿藤が中野方からの帰途八海橋西詰付近に差しかかった際既に同付近にいて阿藤を待ち合わせ中であったと認められる事実((5)(ニ))、木下六子が阿藤の妹サカヱ及松崎と共に同人方へ赴く途中一〇時のサイレンが鳴った際松崎から「周ちゃん(阿藤の意)がおっつけ帰ってくる。」と聞いたのち約五・六分して平生町岩井商店西南付近で阿藤に出会った事実((6)(イ))を合わせ考えると、前記松崎の稲田方訪問は阿藤の中野方からの帰宅時間(それは中野が不在であることなど同人方での状況から決定されたものと考える。)を連絡するためであったとみるほかない。

以上の各認定によれば、吉岡の二次控訴審五九回公判での前記二(三)の阿藤から連絡を受けた集合時刻に関する「阿藤が一一時ということも一〇時ということも自分に確かに言ったと記憶する(四三冊一六六一三丁以下)。誰しも用があることで、早ければ待っておろうという気持で阿藤もそういうふうに自分に言ったと思う(四三冊一六六一四丁裏)。」旨の供述及び当審一二回公判での「二四日夜八海橋で被告人らに出会った際阿藤が松崎に対し、まっちゃん(松崎の意)あれはとうとう戻らんずくじゃったいや。金の出場所がはっきりするとええがのうと言った。」旨の供述(六七冊三五七五丁裏以下。吉岡の昭和二七年一一月二五日付上申書六冊一一一九丁以下も同旨。)も自ら理解されるところである。

さらに、阿藤・稲田・久永は本件発生の翌日徳山へ行きながら、同人らがいうように清水建設請負の工事現場で就労した事実のないことも(5)(ホ)に認定のとおりであって、このことに証人桶口豊の二次控訴審五八回公判での「橋柳旅館で一銭もなしにおってぽっと悪いことをしたら一番早く目につく。二・三日でも四・五日でもまじめに仕事をしておってからやるんだったら目にもつかんからということであった。」旨の供述(四二冊一六四〇〇丁)を合わせ考えると、右被告人らが同日徳山の清水建設請負の工事現場に出向いたのは地元警察の目をごまかすための偽装行動であったと認めざるを得ない。

(10) 本件の犯行時刻について。

前記(6)(ホ)(ⅱ)に認定の各時刻関係等からみて本件犯行は二四日午後一〇時三十分過頃から同日午後一一時前後の間に亘るものと認むべきである。

四、犯行現場の状況と物的証拠について。

(一) 屋内侵入と脱出前後の状況。

吉岡供述によれば「自分は阿藤と一緒に石地蔵尊付近から他の被告人らと別れて早川方に向った(前掲三(一))。早川方近くになった際阿藤は道路端から早川方北側の畑に入りみかんの木のある辺を通り、また自分は阿藤より八米余南の道路端から右畑地を通って共に早川方北裏勝手口付近に到着した(吉岡供述について引用の三(二)(6)(ホ)(ⅰ)の各証拠。)。自分が同所から阿藤の命で侵入口をさがしながら西裏を回り表側(東側)に出、土塀北側に下駄を脱ぎ表勝手口をあけようとしたがあかなかったので、その場に新庄方から持ってきていた焼酎の瓶をおき、外便所付近にきた頃、阿藤がその便所近くの部屋の中連窓をあけようとしていた。その時分稲田も付近にきて『あくか。』ときいたら、阿藤が『あきにくい。』と答えた。稲田が『これでやってみい。』と阿藤にバールを渡した。阿藤が自分に『懐中電灯を貸せ。』と言ったので渡してやった。自分は大便を催したので、そこの便所にはいろうと思ったが、稲田が先にはいったので便所の前あたりにしゃがんで糞をしていた際便所の戸がよく締まってなく、その横下辺から四・五回マッチをすった光が見えた。そのうち中連窓のあく音がきこえた。阿藤が右バールでこじあけたのである。阿藤と稲田とがそこからはいったので、自分もそこからはいろうとしたところ、阿藤が『裏からはいれ。』と言って懐中電灯とバールとを自分に渡した。自分は南側のみかんの木の下の堆肥かが盛り上っているところにバールを見えなくなる迄突きさしてから西裏側の床下板を取りはずして中にはいり、見当で台所土間に這って出た。屋内での犯行後阿藤が『あと戸をしめて元どおりにしておけ。』と言って他の者と一緒に出て行ってから、自分が一人残って北裏勝手口と表勝手口の戸締まりをしたのち最初はいった台所土間から西裏床下口に脱出し、途中下駄をはき田布施川べりで阿藤らに追いついた。」というのである(吉岡供述について引用の三(二)(6)(ホ)(ⅱ)の各調書。)。なお、吉岡の一審以来の各供述を通じてみれば、同人は屋内侵入後北裏勝手口をあけた際同所戸外に松崎・久永がいるのを見たというが、稲田・松崎・久永が石地蔵付近から川岸の道を経たのち同人らの早川方到着経路については認識がないものと認められ、また被告人らの脱出口は、吉岡供述(一審八回公判調書中四冊七七二丁裏・二次控訴審三回公決調書中一三冊三九三八丁裏((稲田の方とは、一五冊五一八一丁第四図からみて北裏勝手口の意と解す。))当審証人尋問調書中六六冊三一六八丁裏。)によれば北裏勝手口か、表勝手口のいずれかであると認められる。そこで右吉岡供述の裏付となるべき証拠を検討すると次のとおりである。

(1) 吉岡のいう阿藤・稲田の侵入口について。

当審現場検証の結果(六七冊三三三八丁裏以下及び三四〇三丁第一見取図)によれば、前記吉岡供述の阿藤がバールでこじあけたという中連窓(吉岡指示六七冊三三二六丁裏以下)は早川方家屋東側南面の廊下に位置し、同所敷居に本件発生当時硝子張りとして設置されていたという証第一七四号の木製窓枠二枚(中山宇一指示説明六七冊三三二二丁裏以下)を同所に取りつけてみると、その捻込錠の高さは地上一三二糎で、屋外からでも通常大人の手が容易に届くことが認められる。さらに当審公判廷での検証結果(二六回公判七八冊七一七丁以下)によれば、右窓枠二枚の合わせ目の捻込錠の位置の上下に屋外から証第三〇号のバールの先端で右窓をこじあけたと判別される痕跡(一審検証結果も同一判断に到着したと考えられる一冊四二丁。)のほか、捻込錠の位置から上位九、五糎ないし一二、九糎の範囲に右窓をこじあけようと試みてナイフ様の刃物を差し込んだと認むべき三個の傷痕が認められる。なお二次控訴審検証調書添付写真(一五冊五一二〇丁)に現われている捻込錠の位置から上位の釘穴は一審検証調書添付第一・二の各写真(一冊四五丁・同丁裏)に現われていないことからみて、一審検証後に戸締まり用として作られたものと認められる(窓枠二枚は昭和三三年二月一六日領置六二冊一六二五丁)。

そして、証人中山宇一(当審証人尋問調書中六六冊三二四四丁裏以下三二九一丁以下・一審一〇回公判調書中五冊九四三丁裏以下)・同松本正寅(当審一八回七二冊五一〇五丁裏以下・当審一九回七二冊五三五〇丁以下・五三六四丁裏以下)の各供述及び司法警察員松本正寅作成の昭和二六年一一月二四日付実況見分調書(五冊九三五丁以下)の記載によれば、吉岡が二四日夜阿藤から受取ったバールを早川方南側のみかんの木の下の堆肥中に隠したことを言い出したのは本件が検察官に送致されたのちのことで、司法警察員が右供述に基きバールの捜索に着手した当時には、本件発生後早川方家屋に居住することになった中山宇一が既に右堆肥を付近畑地に作った藷床に入れてあって、その藷床の種藷の芽が出ていたため前記バールを発見し得なかったところ、一一月一八日に至り中山宇一が右畑地を耕作中たまたま鍬の先に当り証第三〇号のバールを発見し得たことが認められ、且つこれにつき吉岡は「自分が隠したバールはそのものといっても間違いない。」というのである(一審八回公判調書中四冊七七四丁裏。同旨供述二次控訴審二回公判調書中一二冊三六五三丁裏。三冊六六三丁裏の吉岡の検察官に対する「丸型の長さ一尺位で大工の使用する曲尺のような直角に曲ったもの」との供述は、聊か適切を欠くが、なお証第三〇号のバールの表現として理解される。)しかも、証第三〇号のバールは、証人吉岡渉の供述(当審二四回公判七六冊六六七三丁以下・六六七七丁裏・六六八二丁以下)によれば、吉岡方のものではなく、次の各供述を総合して判断するときは、二四日以前稲田方にあった蓋然性が極めて高いものとみなければならない。

一、当審二四回公判証人八田ミナの「自分方では昭和八年頃から田布施町麻郷下八海に居住しているが、事件前次男茂美は隣家稲田方の弟清一とは遊び友達であった。」旨の供述(七六冊六六〇〇丁以下)。

一、当審一五回公判証人八田茂美の「自分は事件当時麻郷中学一年生で八海に居住していた。自分方近くの稲田方には、自分より二つ年上の清一と遊び友達である関係からよく出入りしていた。自分が小学五、六年生頃清一と山で滑って遊ぶ道具のコロを作る際、お互に家の金物道具類を持出しあって使用したことがある。清一が持出してきた物の中に証第三〇号のバールそのものとは断定できないが、それと極く似たものがあったことは確かである。自分はそれを小学五、六年頃から中学一年末までの間見ているが、稲田以外の家で見たのを勘違いしていることはない。その道具は稲田方裏にはいって左に置いてある魚箱か家の中の円い樽の中に入れてあった。」旨の供述(六九冊四〇六七丁以下)。

一、当審一五回公判証人西ヨシヱの「自分の実家の横に井戸があり、その井戸は実家の前の助政方等数軒の共同使用であった。近所の八田茂美と実家の一番末の弟清一とはよく出入りして遊んでいた。実家の金物道具類は家の裏口に小さい本位の箱に入れてあった。八田茂美が清一に遊びにきているとき八田方の道具を持出して遊んでいるのは見たことがある。」旨の供述(六九冊四一二四丁以下)。

一、当審二一回公判証人稲田清一の「自分は下八海の八田茂美方の隣りに一七才まで居住していた。当時自分方は祖父母と兄実及び自分の四人暮しであった。八田茂美は自分より二つ年下であるが一番親しい友達で、同人とは直ぐ横の山から滑ったり海へ行ったりしていた。小学五、六年頃からコロで遊んだこともある。コロというのは、三寸か四寸の松丸太を切って輪を作り、これを四つ板につけたもので、これで山から滑ったり、平地では一人が引張り一人が乗って遊ぶ道具である。直きに痛むのでまた作ることになる。作るのは金槌やら釘が必要である。自分方の金槌は台所しもの釘箱にあった。その箱は四寸角位の大きさの木箱であった。」旨の供述(七三冊五六六五丁以下)。

一、当審一五回公判証人助政アイの「自分は当年六五才(一五回公判は昭和三八年九月二〇日)になるが、麻郷下八海に住んでおり、事件当時稲田の家は自分方の前にあった。稲田方の横にある井戸は同人方及び自分方等近隣数軒の共同使用であった。事件より五、六年前自分が昼食時の支度に右井戸に水を汲みに出て釣瓶を落し困って思案していた際、稲田のおばあさんシナヨが先の曲った金具を同人方の裏の横から持ってきて繩と一緒に貸してくれた。自分はその金具に釣瓶を結ぶ要領で繩を結び、それで釣瓶を引き揚げたことがある。そのときの金具は証第三〇号のものによく似ている。前に警察にきかれたときそのことを言わなかったのは、稲田方とは近所同士であるうえ、おばあさんのシナヨとは心易くつき合っていたので、こんなことを言ったらどんなかかりあいになるかと恐ろしかったからである。しかし昨年平生警察署で警察官にきかれたときは、稲田のおばあさんに右の金具を借りて釣瓶をあげたことを答えた。前に家本にそのことを話したことがあるので、それで判ってきかれたと思い、正直に申そうと思って言ったのである。今度はどうでも自分の知っていることを自分だけはもう明らかに正直に申そうと思っている。自分は事件後今日初めて証第三〇号の現場を見たが、出されたときどういうものか、よく似ているなと頭にぴんとまいりました。(稲田の反対尋問に対し)自分はそのようなものを借りた。そのようなものがなかったと言われるのは、あんたが知られんのです。誰からそんなことを頼まれましょうか。頼まれて私は言いませんよ。私は調べにこられたときに早う言えばよかったんです。じゃが、早う言わなかったのは、あなたのおばあさんと心易うあるし、それで言いにくかった。近所で隣同士であるし、そんなこと言うてかかりあいになってどんなことになってもいけんからと思い、知りませんと初めのとき言った。おばあさんが死んだから大丈夫と思って言い出したのではない。」旨の供述(六九冊四二〇八丁以下)。

以上認定の各事実に、証人樋口豊の「橋柳旅館で稲田は家に帰ってみなければ判らないが、何かものをあけるような道具をさがして持って行くような話であった。」旨(二次控訴審五八回公判調書中四二冊一六四〇二丁・同審六〇回公判調書中四三冊一六七九一丁裏以下)、「橋柳旅館でバールの話があったことを覚えている。」旨(当審七回公判六四冊二一二五丁裏・二二三八丁・二二三八丁裏)の各供述を合わせ考察すれば、証第三〇号のバールは二四日夜稲田が持参したもので、阿藤がこれにより早川方の前記中連窓をこじあけ、右両被告人が同所から屋内に侵入した旨の吉岡供述の事実は否定できない。

二次控訴審判決は証第三〇号のバールは持ち歩きの便宜のため長い柄の部分を短かく切断したもので、吉岡方には当時父兄の職業柄バール及び金切鋸があったことなどから、右バールは吉岡自身携行使用した疑いが濃厚である旨説示する。しかし、証人吉岡渉の当審二四回公判供述、(七六冊六六八二丁以下)及び吉岡の二次控訴審五六回公判供述(四一冊一六〇九八丁以下)によれば、当時吉岡方にあったバールは証第三〇号のように柄の部分が丸型のものではなく、該部分が角型のものであったことが認められる。しかも、鑑定人武井英雄作成の鑑定書の記載(七四冊六一三五丁裏)によれば、証第三〇号のバールの柄にはハヨのしるしが刻まれてあるが、証人吉岡渉の当審二四回公判供述(七六冊六六七三丁以下・六六七七丁裏)によれば、右ハヨのしるしは吉岡方のものでないうえに、同人方の金具類にはかってどのようなしるしをも刻んだことがなかったものとさえ認められる。もっとも、右鑑定書の記載(七四冊六一三八丁以下・六一四一丁裏)によれば、証第三〇号の柄の末端は金切鋸で切断したものか、タップを用い機械鎚にて一撃で切断したものかのいずれかであることが認められ、且つ証人吉岡渉の二次控訴審四六回公判供述(三五冊一三九七八丁)によれば、当時吉岡方に金切鋸があったことも認められるが、他面証人稲田清一の当審二一回公判供述(七三冊五六九一丁裏以下・五七〇二丁以下)及び稲田の当審三三回公判供述(八六冊九八九五丁裏以下)によれば、稲田には終戦後一時平生町藤田鉄工所に勤務し農機具類等の製作に従事した経験があり、同被告人においてもバールの柄を証第三〇号のものに短かく切断し得る機会があったものと認めざるを得ない。

深田弁護人は、中山宇一が証第三〇号のバール発見の経緯につき一審一〇回公判で証人として「事件後警察から早川方南側のみかんの木の下の堆肥中に金の曲ったものを突っ込んだということであるから、さがしてくれとのことであったが、当時既にその堆肥を甘藷の苗床に入れて甘藷の芽が出ていたので苗床まではさがさなかった。その後甘藷をとり、後に大根を蒔き、その大根をとった後麦を植えようと思い打ちかえしてとるときに鍬にカチット当る音がしたので、見ると金の曲った五寸位のものがあった。証第三〇号のものがそれに間違いない。」旨供述し(五冊九四三丁裏以下)、また司法警察員に対し「事件当時南側堆肥の中に金の曲ったようなものを差し込んだというからさがしてくれとのことであったが、その堆肥を甘藷の苗床に入れた後のことでどうにもならなかった。その後甘藷の苗をとってから、加藤謙一に依頼して掘り返してもらったが見当らなかった。昭和二六年一一月一八日午後二時頃苗床であったところに植えてあった大根を麦畑を作るために畑の都合で三カンギ程掘った。その時なにげなしに鍬の尖端に金物のようなものがあたったので掘り出してみると、先の曲った釘抜様の金物が出てきた。もはや大部腐蝕しているが、以前警察からいわれた金物のように思われるので届け出た。場所は堆肥を入れたところに間違いないが、当時発見できなかったのは、甘藷の苗床のため相当深く埋めてあったので発見できなかった。このたび畑の都合で畝を作り変えるため深く掘り返したので出てきたものと思われる。」旨供述する(四八冊一九〇一三丁)に対し、通常大根の栽培には堆肥を用いないことから、甘藷の苗床に堆肥を入れたままその上に大根を栽培することはあり得ない。しかも、中山宇一の右各供述及び当審での「藷床のあと堆肥を他に移した。」「丹念にこきざみに調べた。」との供述からすれば、堆肥中のバールが発見されずに残るということはあり得ないことで、昭和二六年夏頃には苗床に用いられた堆肥は掘り出されてもとの地中にはなかったと考えられる。したがって、甘藷の苗床のあった場所から証第三〇号のバールが発見されたことが真実であるとすれば、それは吉岡が堆肥の中に突込んだというバールとは異なるもので、本件には何等関連ない旨主張する。しかし、司法警察員の実況見分調書の記載(五冊九三六丁裏)によれば、証第三〇号のバールは甘藷の苗床用として堆肥を入れた場所に相当深く埋没していたことが認められ、中山宇一としては、その供述のように、たとえ丹念にさがした積りでも、何分にも地中に埋没した目に見えないものを対象としてのことであってみれば、必然さがしもれのあることは免れ得ないし、また堆肥を他に移動するに際しても、取り残すことも当然あり得るものといわなければならない。したがって、証第三〇号のバールが甘藷の苗床あとの大根畑から掘り出されたことを理由に、それが本件に関連ないものとする弁護人の所論には賛成できない。

深田弁護人はさらに、原田弁護人の見解(同弁護人は早川方東表硝子窓の窓枠の傷痕は本件押収のバールの形状と不符合はなく、同バールによる傷痕と認められる、とする。)とも異にし、前記窓枠には証第三〇号のバールでこじあけたと認むべき痕跡がない。殊に、これを捻込錠で締められた窓枠と窓枠の間に差し込んだとすれば、もっと深い傷跡または圧痕が認められなければならないというのである。しかし、それは捻込錠の締り具合の強弱によることでもあり(本件の捻込錠は受金がはずれている付近の状況からみて、そう新しいものではなく、従ってよく錠が効いてなかったとも認められる。)、一概に所論のような深い傷跡または圧痕が残されるとは限らない。弁護人らのバール・中連窓に関するその他の所論も前記当審の認定に照らし採用できない。

(2) 吉岡が侵入・脱出したという床下について。

司法警察員の検証調書添付No.34写真(二冊三〇八丁)・一審検証調書(一冊四二丁以下)・検察事務官森光正幸作成の実況見分調書(八六冊九六五四丁以下)の各記載・押収の薄板二枚(証第一〇号・同一〇号の二)・当審検証の結果(六七冊三三三九丁裏以下。六七冊三三六一丁・三三六二丁に見られる床下の横木は当時なかった((中山宇一指示説明六七冊三三二四丁))。)を総合すれば、早川方西裏床下は高さ約二五糎・幅約一米八二糎で、本件発生当時右床下に向い左側に右薄板一枚の左端を床下柱に古釘で打ちつけ、その右端に右薄板一枚を重ね、さらに同薄板の右端を床下に取りつけてある桟に差し込んであるため内部からはやや困難であるが、外部からはたやすく右二枚の板を手で取り除き得る状態にあったもので、これを取り除けば人が四つ這いとなって右床下と台所床下通風口(高さ二九糎・幅八三・五糎)との間を二通りの経路により比較的容易に通行し得ることが認められる。これらに司法警察員・検察官の各検証調書(二冊二八八丁裏以下・二八四丁裏以下・添付No.16・35の各写真((同写真に記載の検尺は検察事務官森光正幸の実況見分調書の記載に照らし採用できない。))二冊三一八丁裏以下・三二一丁・一審証人中山宇一尋問調書(一冊八七丁裏以下)の各記載を合わせ考察すると、吉岡のいう同人が二四日夜右床下板を取りはずし同所から台所床下通風口を経て台所土間に侵入し、且つ右通風口から西側床下を経て脱出したとの事実を否定できない。

正木弁護人は右床下板及びこれに接続しておいてある竹、台所通風口の蓋を取り除く際発する音響のため右床下から屋内に侵入することは不可能である旨主張する。しかし、司法警察員の検証調書の記載(二冊二八八丁裏以下)及びこれに添付の現場見取図二冊二九一丁現場写真No.16・34・35、当審検証結果(六七冊三三三九丁裏及び添付第一見取図)によって認められる早川夫妻の寝室(それは右弁護人のいう四畳半ではない。)と右床下・通風口との位置及びその間の音響に対する障害物の関係に前記押収の薄板の破損状況等から観察すれば、所論の各物件を取り除くに際し、用心すれば必ずしも就寝中の早川夫妻に(睡眠中であったとすればなおさらのこと)賊の侵入と気づかれる程の音を発するものとは考えられない(吉岡によれば床下板の釘は腐っていたという当審証人尋問調書六六冊三一二九丁裏)。同弁護人は特に通風口の蓋を取り除くに際しては大音響を発するというが、内部からの押し具合如何によっては前記No.16の現場写真にみられるような状態ともなり(吉岡は二次控訴審三回公判で蓋が立てかけてあったようにもいう。一三冊三七八九丁以下)、これを取り除くのにさほど音を発するとは考えられない。

正木弁護人はさらに、吉岡供述によれば同人は床下侵入に際しジャンバーを裏返しに着用し、脱出に際してはこれを正しく着直していた筈であるにかかわらず、国家地方警察山口県本部刑事部鑑識課警察技官藤田千里の鑑定書の記載(二冊二七五丁)及びこれに添付の写真によれば、右ジャンバー背面右肩胛上部に白色の一塊となってくもの巣の付着していることが認められ、このことからして吉岡は脱出に際してのみ床下を通過したものである旨主張する。しかし、検察事務官森光正幸作成の実況見分調書の記載(八六冊九六五四丁以下)によれば、前記床下と台所土間との間を通るには二様の経路のあることが認められ、脱出に際してのみくもの巣が付着することもあり得ることで(前記ジャンバーのくもの巣の付着状態からみて、床下にはさほどくもの巣があったとは考えられない。また仮に同一経路を通過したとしても、その際の這い具合で侵入時に必ず付着するとも限らない。)所論は首肯できない。

(3) 屋外足跡について。

吉岡供述によれば、二四日夜早川方へ赴くに際しての被告人ら及び吉岡の履物は、阿藤がフエルトか雪駄かの草履様のもの、稲田・吉岡が下駄、松崎が草履様のもの、久永が靴であったというのである(二次控訴審一二回公判調書中一六冊五五九六丁裏・同審四二回公判調書中三三冊一二八五六丁裏以下・同審五六回公判調書中四一冊一六一〇七丁以下・同審六三回公判調書中四六冊一七九四八丁以下・当審証人尋問調書中六六冊三一七二丁以下・当審一二回公判調書中六七冊三五七七丁・三五八九丁以下。)。そして、二次控訴審証人新庄サツヨの尋問調書(二四冊八七〇六丁裏以下)・中本イチの検察官に対する供述調書(一冊二〇九丁)・司法警察員作成の領置調書(三九冊一五三一四丁。同調書中二五日とあるは、他の関係証拠に照らし二六日の誤記と認める。)の各記載によれば、二四日夜の吉岡は素足に下駄履きであったと認められ、また山崎博の上申書(二冊四〇七丁裏)及び検察官に対する昭和三三年一二月一四日付供述調書(四九冊一九二七二丁以下)・証人山崎博の各供述調書(一審証人尋問調書中一冊一二三丁・二次控訴審二六回公判調書中二五冊八九五五丁以下)の各記載に同証人の当審六回公判供述(六三冊一九一〇丁裏以下)を合わせ考えれば、久永は二四日夜中野方から帰宅後再度外出するに際し(三(二)(5)(ロ)の認定)黒の短靴を履いていたものと認められる。さらに、二次控訴審六四回公判証人木下六子の「二四日夜八海の上田方から阿藤がでかける際の履物は、仕事から帰ったままであったから地下足袋であったと思うが、はっきりしない。」旨の供述(四六冊一八二六八丁)及び当審五回公判証人上田節夫の「二四日夜自分が福屋へ行く前に、稲田が緒が切れかかっているからとのことで、その履いていた草履を自分の草履と履き替えて行った。」旨の供述(六三冊一七〇四丁裏以下)からすれば、稲田が下駄で阿藤が草履様のものであったとの吉岡供述は直ちに納得できないが、前記吉岡供述に右上田証人の「稲田の草履も自分のものと同じようなものであった。二五日自分は徳山へ行く前福屋方で稲田の草履と替えて下駄を借りて行った。稲田に貸した自分の草履はその後返ってこない(六三冊一七〇四丁裏以下)。その草履は表が畳表様、裏が皮様のものである(六三冊一八八一丁裏以下)。」旨及び当審二五回公判証人富山義敬の「早川方屋外で、上田が福屋方においてあった草履と似た足跡が発見されたので、福屋からその草履を預かって帰ったが、それは現場の足跡と関係なかった。」旨の供述(七七冊六九八七丁以下)に、後記のように早川方屋外から地下足袋と確認される足跡が発見されなかった事実を合わせ考えると、稲田は同夜阿藤らを待ち合わせのため八海橋に向うに際し上田から借りた草履を持ち下駄履で外出し、阿藤に右草履を貸したとみられる節がある(勿論この段階では、阿藤・稲田が吉岡供述のとおり二四日夜早川方に侵入したと仮定してのことである。因に、阿藤がその上告趣意補充申立書七冊二二三六丁に「吉岡が犯行後に素足だったから、犯行の時も素足だったということにはならないと思います。」と記載しているのは他をみてかえりみないのではないか。)。それはともあれ、二五日朝早川方屋外で発見された足跡等は次のとおりである。

(イ) 西裏側床下前の手か足を滑らしたような痕跡(司法警察員検証調書二冊二八八丁裏。中山宇一の検察官・一審・当審各検証に際しての指示説明二冊三二六丁・一冊四〇丁・六七冊三三二四丁以下。証人中山宇一供述一審証人尋問調書中一冊八七丁裏以下・当審証人尋問調書中六六冊三二四一丁裏以下。)。

これらは前記(2)の認定に照らし、吉岡が右床下から侵入または脱出するに際しての痕跡であったと認められる。

(ロ) 北裏側通路上の踵と爪先とを縮めたようにしてできたとみられる数個の足跡(司法警察員の検証調書二冊二八九丁・添付写真No.4。二次控訴審検証調書中三好等指示説明一五冊五一五一丁。同審検証調書中吉岡隆夫指示説明四五冊一七五五〇丁裏以下・添付第一図四五冊一七五六六丁。当審一八回公判証人松本正寅供述七二冊五〇四〇丁以下・五一一五丁裏・五二一四丁裏以下。)。

右足跡は右三好等・吉岡隆夫の指示説明によれば三個位であったというが、右松本証人の供述によれば四個か五個で、その足跡は爪先に踵をよせたちょっと子供の足跡ようにも見えるが、爪先の大きさから大人のものと判るもので、全部東方に向っていたというのである。その数はいずれにしても、それらは吉岡供述(一審八回公判調書中四冊七七三丁以下・二次控訴審二回公判調書中一二冊三六四三丁裏以下・当審一六回公判七〇冊四四七三丁以下・四五三九丁裏以下)の「早川方脱出後八海橋へ向う途中阿藤が『踵と爪先でつけてきた』と言った」足跡に該当するものと認められる。

(ハ) 北裏勝手口前畑地内の男下駄一足分及びフエルト様小判型草履二個の足跡(司法警察員検証調書二八九丁・添付写真No.4・42。証第三七号中現場写真No.4。二次控訴審検証調書中吉岡隆夫・土手定人の各指示説明四五冊一七五五一丁・一七五五三丁・添付第一図。証人吉岡隆夫供述二次控訴審証人尋問調書中四五冊一七八四一丁裏以下。証人松本正寅供述同審四八回公判調書中三七冊一四四七三丁裏以下・同審証人尋問調書中四五冊一七八七三丁裏以下・一七八八六丁以下・一七八九一丁・同審五二回公判調書中三九冊一五一五四丁以下・一五二四七丁以下・当審一八回公判七二冊五〇四一丁以下・五一一五丁・五二一五丁裏以下・当審一九回公判七二冊五三九〇丁以下。当審二一回公判証人伊藤貞之供述七三冊五七九六丁裏以下。二次控訴審証人土手定人供述同審証人尋問調書中四五冊一七七四〇丁裏以下・一七七五二丁以下・一七七六一丁以下・一七七六九丁。)

右松本証人の供述によれば、北裏勝手口前畑地内にフエルト様小判型の足跡二個は司法警察員検証調書添付No.4写真中のイ・ロに該当し、ロはイより小型であったこと及びロは同添付No.42写真に該当すること、並びに右吉岡・同伊藤各証人の供述によれば写真上白く見える部分は石膏であることが各認められ、また右土手証人の供述によれば前記下駄の足跡は歯の巾から男下駄一足分ではっきりした新しいものであったことが認められる。

(ニ) 早川方北側畑の道路端(八海橋から早川方前に通ずる道路西側)から西方に向い当時みかんの木があった地点を経て山際伝いに北裏勝手口付近に続くフエルト様小判型草履の足跡(二次控訴審検証調書中吉岡隆夫・新庄好夫・松本正寅・早川サト・土手定人の各指示説明四五冊一七五五一丁・同丁裏以下・同検証調書添付第一図四五冊一七五六六丁。二次控訴審証人吉岡隆夫・同新庄好夫・同松本正寅・同土手定人の各供述同各証人尋問調書中四五冊一七八四二丁以下・一七七九七丁以下・一七七三七丁裏以下・一七八七三丁裏以下。当審一八回公判証人松本正寅供述七二冊五〇〇九丁裏以下。二次控訴審四八回公判同証人供述三七冊一四四七三丁以下。司法警察員の検証調書添付写真No.3二冊二九三丁。)

右早川方北側畑の道路端の位置は、その西方にみかんの木があったこと(右二次控訴審検証調書添付第一図・司法警察員検証調書添付写真No.3)及び当審現場検証に際しての吉岡の指示地点(六七冊三三二五丁裏以下・添付第二見取図六七冊三四〇三丁)に照らし、吉岡のいう阿藤が早川方近くになった際同人方北側畑に入った道路端(前記(一)の吉岡供述)の地点に該当するものと認められる。そして右足跡に関する前記各証人の供述内容は次のとおりである。

証人吉岡隆夫の供述要旨―「証第三七号中現場写真No.4(司法警察員検証調書二九三丁裏とNo.4同一のもの。)の石膏を入れた足跡から北方山手方向側に人の歩いた形跡を見た。犯人が畑付近から入ったものと考え早川方前道路を畑に沿うて北に進み道路からの入口をさがしたところ、麦畑を山手に向い足跡が伝っているのを見た。その足跡は北裏口の足跡に関連するのではないかと考えた(四五冊一七八四二丁以下)。右道路端から入った足跡(四五冊一七五六六丁第一図中黒字のチ・ト・ヘをいうものと解す。)はフエルトの格好であった(一七八五七丁裏以下)。」。

証人新庄好夫供述要旨―「自分は二五日朝早川方に行っていたが、一〇時半頃から警察官がきて(四五冊一七七九七丁以下)、早川方前道路西側の畑の方で足跡の写真をとっていた際自分もその足跡を見た。その足跡はゴム草履に似た前も後もないような一面平たい先の丸くなったもので、あるいはフエルト草履のようなものであり、その輪郭が肉眼ではっきりわかった。朝の寒さで完全に凍っていた。あの時分畑仕事をしないから極く新しい足跡と思った。自分は瓦製造業をしているので土に対する知識は一般人よりもある。以上の状況からみて、その足跡は二五日の朝ついたものとは思われなかった。足跡の横側から判断し凍る前のもので、前夜すなわち二四日夜中のものと思った。前日までそんな履物をはいて畑にはいって仕事をする人もない。全然角のくずれないところから一度解けてまた凍ったものとは思えないものであった。自分はそれを道路の直ぐ側からじっと見てよく観察した(四五冊一七七九九丁裏以下)。あの日は特に寒かったので足跡が解けずに残っていた(四五冊一七八二〇丁裏)。」。

証人土手定人の供述要旨―「自分は二五日朝八時半頃から早川方に行っていたが(四五冊一七七三七丁裏以下)、後に警察官がきて早川方北側畑の足跡を調べているのを、自分は道路からのぞくようにして見ていた。そこでの足跡は、はっきりと見た。自分が見た道路から西側の一番遠くの足跡はみかんの木の下にあった(四五冊一七七四四丁以下)。その足跡はフエルト様の前後の変らない形のもので、踏んだ跡がその草履の厚味と思われる程全部平べったく埋まっていた。麻裏であればいろいろ線がはいっているはずだが、表面が滑らかであった。その足跡が新しいというのは、フエルト様の足跡がはっきり出た上に、その前雨降りあげくに非常に冷えた関係で霜柱が立ったせいか、周囲の土が盛り上ったように割合鮮明に出ていた。あの当時あまり畑にはいっていなかったので特殊な人が歩いたんではないかとの考えであった。百姓ならあんな歩き方であんなところを歩かないがという感じであったからである(四五冊一七七四九丁裏以下)。道路端の北側畑で五・六足歩いた足跡を見てから、みかんの木の方へも足跡があるのを見た(四五冊一七七六二丁以下)。その足跡は女性型の内輪式の歩き方で山手から道路の方へ出たように感じた(四五冊一七七六四丁以下)。しかし、そのことははっきり自分には分らない(四五冊一七七六九丁裏以下)。右内輪式の歩き方といっても、あの歩き方は女ではなく、男のものと考えた(四五冊一七七七一丁以下)。雨降りあげくといったが、二・三日前に降ったのではないかと思う。雨の降った時期ははっきり記憶しない(四五冊一七七七三丁以下)。」。

証人松本正寅の供述要旨(二次控訴審証人尋問調書中)―「北側出入口前畑地内の小判型や下駄の足跡を見てから、周囲を見たら、丁度その足跡のところの山手の方に、やはり小判型フエルト草履様の足跡が飛び飛びあった。これを追って東に行くとみかんの木の付近を経て早川方前に通ずる道路に続いていた。その足跡は前の方が深くはいった状態がうかがわれたことと、畑の中の麦を山際の方向に踏み倒していることから、道路からはいって山手の方に向いてきたように認められた。その状況は竹を立てさせて写真にとらせた(四五冊一七八七三丁裏以下)。二九三丁の写真No.3はその状況を道路からとったものである(四五冊一七八八七丁裏)。」(同証人の二次控訴審四八回公判での「下八海に通ずる里道から早川方北側出入口の方に向け畑の中をこぐり、みかんの木を通った足跡があった。」旨((三七冊一四四七三丁以下))及び当審一八回公判供述での「北側の足跡は道路から畑をこぎり、みかんの木の下を通り、麦を踏んで山手の方へ行っているもので、前夜ついたと思われる比較的新しいものであった。」旨((七二冊五〇〇九丁裏以下))の各供述も結局前記二次控訴審証人尋問調書中の供述と略同旨。)。なお、同証人の供述(四五冊一七八九四丁以下)によれば、吉岡が早川方北側畑地にはいったという(当審一二回公判供述六七冊三五八七丁裏)肥壺付近からの足跡は捜索しなかったものと認められる。

(ホ) 早川方南側畑の道路端から侵入したと認められる靴等の足跡(二次控訴審検証に際しての吉岡隆夫・松本正寅・土手定人の各指示説明四五冊一七五五一丁以下・一七五五二丁・一七五五三丁・添付第一図四五冊一七五六六丁。二次控訴審証人吉岡隆夫・同土手定人・同松本正寅の各供述同各証人尋問調書中四五冊一七八四九丁裏以下・一七七四六丁以下・一七八七九丁以下・同審四八回・五二回・当審一八回各公判証人松本正寅供述三七冊一四四七三丁以下・三九冊一五一八四丁裏以下・七二冊五〇〇八丁裏以下・二冊三一〇丁写真No.40((証第三七号中現場写真No.40と同一と認める。))。二冊三四〇丁裏第二写真((証第三七号中現場写真No.43と同一と認める。))。)。

右足跡に関する前記各証人の供述内容は次のとおりである。

証人吉岡隆夫の供述要旨―「自分が見た足跡で印象的なのは靴の足跡である。その足跡は現場で説明したとおりであるが、南側にあったもので、そのほかにもどういう形のものか記憶にないが西方山手に向い連なっている足跡があった。その足跡に木切れを立てて表示した。柿の木のある付近から手前である。右靴の足跡は先の尖っているもので、記録三一〇丁のNo.40の写真の靴跡がそれである。」(四五冊一七八四九丁裏以下)。

証人土手定人の供述要旨―「南側の畑では松本が足跡を拾っているのを道路から見た。当時そこは通路としてはっきりあったが、今は溝になっている。その通路の道から見て右側に道路から畑の角を跨いだような足跡があった。その足跡はせいぜい二つか三つで型ははっきり記憶にないが確か靴だったと思う。方向は少し北寄りに西方山際に向い母屋の便所の方へ出たんではないかという感じのものであった。」(四五冊一七七四六丁以下)。

証人松本正寅の供述要旨―二次控訴審証人尋問調書中(四五冊一七八七九丁以下)―「早川方南側石垣の側に三人分位と思われる何か判らない足跡をみた。それで遠方に目を配ると柿の木の方から僅か斜めにはいった跡があった。やはり前びらが深くなっているので、南の方から屋敷内にはいってきたとの見方をした。さらに南の山際につきあたり、柿の木付近から畦道を通った足跡があった。南側道路端の畦の始まったあたりにはっきりと足跡と判るものがあったが、それが何であったか今記憶にない。土が柔らかかったが跡は割合はっきりしていた。畦には一応踏んだ上をまた踏んだ足跡があった。それを見ながら東に進んだとき靴の足跡があった。靴だけははっきり判った。それで自分は結局三人分位と考えた。靴は道路から一間位はいった辺か、もう少も道路に近かったかも知れない。記録三一〇丁のNo.40写真がその靴の足跡に相違ない。三四〇丁第二写真は南側の足跡を南から北に向けてとった状況である。」。二次控訴審四八回公判供述(三七冊一四四七三丁以下)―「早川方南側畦にも足跡があった。これは靴の跡が一つはっきりしていた。そのほかの足跡は何であるか判らなかった。足跡が重なっている点から南側には三人分あったと認めた。」。同審五二回公判供述(三九冊一五一八四丁裏以下)―「石垣の処の三人分位の足跡は土が柔らかく前びらが深くはまったような状態で、これを追って行くと足跡が二つ重なった処もあった。それを進んで行くと靴のような足跡が一つあった。なお東へ進むと靴のはっきりした足跡があったのである。記録三四〇丁第二写真の竹が立っている状況で大体判ると思う。畦が始まった辺からの足跡は全部ひっついた状態であった。それが何であったか思い出せない。道路端から一間位はいった処の靴跡は踵から爪先まで全般的にはっきり出たものであり、靴の足跡はそこだけにあったというのではなく、靴の先の跡はずっとついていたのである。重なっていたというのは靴以外の足跡のことである。一人でそれだけの足跡をつけるとは考えられない。」。当審一八回公判供述―「早川方南側の足跡は石垣付近から道路にかけた付近にあった。その足跡は植物か何かを踏んでいた記憶である。それらは前夜頃つけられた新しいものと考えた。(七二冊五〇〇八丁裏以下)。南側の足跡は地下足袋かズックか判らない一度踏んだ上に重ねて踏んだ状態のものがあった。それから南側東寄りの道路際に明瞭な靴跡があった(七二冊五〇四二丁以下)。南側の足跡は道路から麦を踏んで西に向い畦道を土塀の方へ向ってはいったという記憶である(七二冊五〇四五丁裏以下)。」

以上(ハ)・(ニ)・(ホ)の各足跡は、前記(二)に引用の証人新庄好夫・同土手定人・同松本正寅の各供述及び(ホ)に引用の当審一八回公判証人松本正寅の供述のほか、証人早川サト(二次控訴審証人尋問調書中四五冊一七七八六丁裏・一七七八八丁裏以下・一七七九一丁裏。)・証人新庄好夫(二次控訴審三五回公判調書中二九冊一〇九三六丁以下・同審同証人尋問調書中四五冊一七七九八丁以下。)・証人清力用蔵(二次控訴審二三回公判調書中二三冊八一三四丁以下・八一八八丁以下)・証人新庄智恵子(二次控訴審証人尋問調書中四五冊一七八二九丁裏・一七八三四丁裏以下。)・証人加藤スミ子(二次控訴審四一回公判調書中三二冊一二四四二丁裏)・証人土手定人(二次控訴審証人尋問調書中四五冊一七七三八丁以下・一七七五七丁裏以下。)・証人松本正寅(二次控訴審証人尋問調書中四五冊一七八九七丁以下・同審五二回公判調書中三九冊一五二四七丁以下・当審一八回公判七二冊五〇一〇丁以下・五一六四丁以下・五二〇九丁以下。)・。証人中山ツマ(当審一九回公判七二冊五四二八丁裏)の各供述を総合して考察すれば、二五日朝事件を知って早川方に駆けつけた者の足跡ではなく、その前夜早川方に侵入した犯人につながるもので、しかも下駄(その足跡が吉岡のものであったかどうかは、他の足跡と同様石膏の不手際から確認されなかったのではないかと考えられるが((証人土手定人供述二次控訴審証人尋問調書中四五冊一七七四一丁以下・証人吉岡隆夫の当審二三回公判供述七五冊六四二一丁以下・証人松本正寅の当審一八回公判供述七二冊五一五八丁以下))、仮にそれが吉岡のものであったとしても。)以外の平滑な小判型草履その他靴等の足跡は、それらが結局幾人分のものであるか不明であるにしても、本件が吉岡ほか幾人かによって犯されたことの証跡であるとみないわけにはゆかない。また(ロ)の爪先と踵とを縮めたような足跡の如きは児戯に類するものとはいえ、後記屋内の灰撤き、首吊り工作等と共に犯罪捜査をくらまし真相の発見を混迷させるための偽装にほかならず、酔余の吉岡一人の思いつきとは到底考えられない。

二次控訴審判決では、証人新庄好夫は草履の足跡について「その足跡は新しくて土地が凍る前に歩いたためできたものと思う。」旨証言し、一方証人松本正寅は同審五二回公判で「草履の足跡は新しくて、霜のおりている上を踏みつけたような状況であった。」と降霜の前後について右新庄証人と相反する証言をしている旨判示する。しかし、右松本証人は「霜のおりとるものを踏みつけたような状態であった。」と供述するが(三九冊一五二四九丁二行目以下)、さらにこれに続く同証人の「どうしても当日か前日の午後霜がおりるようになってからの足跡だという考え方で新しいという説明をしたわけである。」(三九冊一五二四九丁一二行目以下)、「それは一晩凍って二日三日たつと、凍っているところがすとすとと落ちてくる状態になると思うが、そういう状態ではなかった。(崩れていないという意味か、との問に対し)そういうわけである。」(三九冊一五二五〇丁二行目以下)旨の各供述からすれば、その言わんとするところは、要するに草履の足跡は発見当日あるいはその前夜のいずれのものであるにせよ霜がおりるようになる程の寒気に際してのものであったとの趣旨であり、松本証人の前記二次控訴審判決摘示の供述部分は表現の適切を欠いだに過ぎないものと解される。これによってみれば、同審五二回公判での降霜の前後に関する同証人の供述は前記新庄証人の供述と相反するものではない。このことは松本証人の当審一八回公判での「大体自分の考えは今も当時も同じと思うが、その足跡は前夜頃つけた犯人のものとの考えで、足跡をとる作業もし、皆もそうみてやっていたのである。霜がおりる云々とは言ってはいても(二次控訴審五二回公判で、との意。)、霜があったかどうかということは実は当時判らない筈である。」(七二冊五一六五丁一〇行目以下)、「(霜がおりている上を踏みつけるような状態だというような表現は無責任な証言ではないかとの問に対し)無責任といわれればそういうことであるが、表現の仕方が悪かったんじゃないかと思う。」(七二冊五一六五丁裏以下)旨の各供述に徴しても理解されるところである。

児玉弁護人は、司法警察員に対する新庄好夫の供述調書中に同人の供述として「二五日二時頃警察の方がこられ早川の北側畑に犯人のものと思われる足跡があるが、あなたの畑かときかれた。」と記載されている点からみて、同人が右畑に足跡のあることを知ったのは午後二時頃のことであったことがうかがわれ、また司法警察員に対する早川正一の供述調書中にも同人の供述として「午後三時頃足跡を発見した。」と記載されており、右各時刻には霜は既に解けて足跡についての新旧の判別はできない筈である旨主張する。しかし、証人新庄好夫の二次控訴審での「自分が足跡をみたのは警察がきてから一時間か二時間後のことである。」(四五冊一七八二〇丁)、「警察がきたのは一〇時半頃からである。」(四五冊一七七九七丁)との各供述によれば、同証人が早川方畑で足跡を見た時刻は凡そ午前一一時半か午後零時半頃のことであり、前記司法警察員に対する供述調書中の「警察があなたの畑かとききにきた。」時刻とは何等関係がない。しかも、援用の二次控訴審証人新庄好夫の「足跡は凍る前についたもので、しかも一度凍って解けたものではない。」との供述の詳細は前記(二)に同証人の供述として掲記するとおりであり、その趣旨とするところは、当日は特に寒かったため足跡がそのまま解けずに残っていたというにあって、「霜が解けずに残っていた」趣旨のものではない。また同弁護人援用の早川正一の司法警察員に対する供述調書中には「自分は二五日午後三時頃に足跡のある現場に行ったのである。その時はじめて自分方の麦畑にフエルトの足跡があることを知った。」旨の供述記載があるに止り、霜が解けていたかどうかに関する供述記載の如きは何処にも見当らない。前記弁護人の主張は全く見当はずれで理解できない。その他弁護人らの屋外足跡に関する主張も以上の各認定に照らし採用できない(仮に、児玉弁護人の所論のように(ホ)に認定の南側の足跡が被告人ら以外の者の足跡であるとしても、(ハ)・(ニ)に認定の足跡のうち下駄以外、就中フエルト様小判型草履の足跡は、吉岡以外の犯人の証跡であると断ぜざるを得ない。)。

(4) 脱糞と外便所内のマッチの軸木について。

証人松本正寅(当審一八四公判七二冊五〇一八丁以下・五一一八丁以下・五一四六丁以下・当審一九回公判七二冊五二四九丁以下・五二六〇丁以下。)・同三好等(当審一七回公判七一冊四七〇七丁以下・四八一八丁以下・四八二八丁以下。)・同伊藤貞之(当審二一回公判七三冊五七七八丁以下・五七九三丁。)同中山宇一(一審一〇回公判調書中五冊九四六丁・当審証人尋問調書中六六冊三二四三丁裏以下・三三〇三丁裏以下。)・同加藤スミ子(当審二二回公判七四冊六〇七二丁裏以下)の各供述、二次控訴審検証調書(一五冊五〇九二丁・五〇九三丁裏。)当審検証調書(六七冊三三二三丁以下)の各記載、証第三七号中現場写真No.47を総合すれば、二五日午前中被害者方の実況見分・証拠保全に着手した熊毛地区警察署司法主任三好等・巡査部長松本正寅らによって吉岡が脱糞したという場所付近にあった新しい糞便が発見されたが、捜査活動の不手際からそれを採取することができなかったため、その現場の写真を撮影するに止ったことが認められ、また右司法警察員の検証調書(二冊二八九丁)・一審検証調書(一冊四一丁裏)・二次控訴審検証調書(一五冊五〇九六丁裏)・司法警察員の捜索差押調書(一四冊四五〇〇丁)の各記載に当審証人三好等(一七回公判七一冊四七一〇丁裏以下・四八三一丁裏以下)・同松本正寅(一八回公判七二冊五〇二〇丁以下・五〇二二丁裏以下・五一三三丁以下・五一四七丁裏以下。一九回公判七二冊五二五五丁裏以下。)・同中原稔(一九回公判七二冊五三九五丁以下)の各供述を合わせ考察すれば、二五日午前中前記司法主任らによって外便所床上金隠し付近に散乱しているすりかすのマッチ軸木数本が発見され、同司法主任によって押収された事実が認められる。これによってみれば、吉岡は二四日夜早川方侵入に際し、前記外便所前付近に脱糞したことのほか、何人かが同便所内でマッチを点じたものと認めなければならない。蓋し、もし右マッチの主が吉岡であるとすれば、同人はわざわざ便所にはいりながらも脱糞のみは便所外に出てしたことになり極めて不自然であり、またもし、同人(当時煙草しんせいを所持していた筈)が早川夫妻の寝静まるのを待ち、右便所内に隠れ侵入の機を窺っていたものとすれば、右マッチ軸木と共に煙草の灰あるいはその吸殻が発見されなかったことは理解できない(前記三(二)(6)(7)に認定の時間関係からして吉岡には時間的にそのような余裕があったとは認められない。なお吉岡は一貫して早川方侵入に際しマッチを所持していなかったと供述している。記録六八冊三七五九丁以下に「買った」とあるは「借りた」の誤であることは三(二)(7)(イ)に説示のとおりである。吉岡が逮捕時に所持していたマッチは本件犯行後寿楼で買ったものだという六八冊三八七五丁以下。)。

なお、当審証人松本正寅(一八回公判七二冊五〇〇七丁以下・五〇一〇丁以下・五一三一丁裏以下・五一四七丁以下。一九回公判七二冊五二四九丁以下。)の「二五日午前中現場に到着して間もなく外便所前付近の脱糞を見てから、同便所内を覗いたところ、金隠し付近にマッチのすり殻があったので不審に思い、便壺の中を覗いたら、そこにもやはり新しい糞便があった。」旨の供述は、その糞便が証拠品として保存されず且つ他にこれを補強すべきものがないことから証拠として採用できないにしても、以上の認定に当審証人加藤スミ子(二二回公判七四冊六〇九一丁以下・六〇九二丁裏。)・同中山ツマ(一九回公判七二冊五四三一丁裏以下・五四五一丁裏以下。二〇回公判七三冊五五一三丁以下・五五四九丁裏以下。)の各供述によって認められる当時外便所は殆んど使用されておらなかったものであるうえに、早川夫妻は両人とも極めて几帳面な性格の持主で、たとえ外便所といえども金隠し付近にマッチのすり殻を散乱させておくような日常の生活ぶりではなかった事実を合わせ考えると、右マッチ軸木の主は吉岡及び早川夫妻あるいは所用で早川方に出入りした者以外の者であったとみなければならない。さらに前記脱糞の位置は、当審検証の結果によれば前記(1)の中連窓の東端付近から南方約一米内外の地点に相当し、且つ同地点から直ぐ目前東方に稲田がはいったという外便所の扉が望まれる位置関係にあることが認められる。前掲(一)の「自分は大便を催したので外便所にはいろうと思ったが、稲田が先にはいったので便所の前あたりにしゃがんで糞をしていた際便所の戸の透き間から四・五回マッチをすった光が見えた。」旨の吉岡供述(同旨供述について引用の三(二)(6)(ホ)(ⅱ)に掲記の各調書のほか、二次控訴審八回公判調書中一四冊四七二九丁裏以下・同審一二回公判調書中一六冊五六三三丁裏。)は以上認定の事実により裏付けられるものといわなければならない。弁護人らの外便所のマッチ軸木に関する所論は以上の認定に照らしいずれも採用できない。

(5) 田布施川から発見の物件について。

吉岡供述によれば、二四日夜早川方から脱出後八海橋上西端寄り南側の地点で阿藤・稲田・松崎が早川方で覆面に使用した手拭や手袋等を田布施川に投棄した。というのである(三(二)(6)(ホ)(ⅲ)で同供述につき引用の各証拠。なお、その供述によれば、投棄した物の詳細は判然しないが、阿藤が一括して投棄したほか、二次控訴審二回公判では稲田も別に何かを投棄したように思うという。)。そして、司法警察員松本正寅作成の検証調書(三冊五三一丁以下)・捜索差押調書(三冊五〇九丁以下)の各記載、当審証人松本正寅(一八回公判七二冊五一〇一丁裏以下。一九回公判七二冊五三四五丁以下)・同伊藤貞之(二一回公判七三冊五八一八丁以下・五八二八丁以下)の各供述を総合すれば、昭和二六年二月五日午後一時から二時までの干潮時に、熊毛地区警察署司法警察員松本正寅外数名の同署員の手により八海橋より上流五〇ないし一〇〇米の範囲から下流に亘り田布施川を捜索の結果、八海橋下流約五〇〇米の西岸の地点から東方約二〇米付近の河中で、岩の窪みにひつかかっている西洋手拭二枚(証第二六号の二)・日本手拭一枚(証第二六号の一)・雑巾二枚(証第二七号)・紙片一枚(証第二八号)竝びにその付近の木屑に埋没しかかっている手袋二枚(証第一一号・第一二号)が発見押収された事実が認められ(岩の窪みで発見されたものは、右西洋手拭でその他のものをまるめてある状態で発見。その際の右検証調書添付写真の状況は、そのあった場所が水面下に隠れていたため、特にこれを岩の上にあげて撮影したもの((当審証人松本正寅供述一八回公判七二冊五一〇四丁裏以下))。)、且つ当審二〇回公判証人中山ツマの供述(七三冊五五三八丁裏以下)及び同人の上申書(三冊五三六丁)の記載によれば、以上の各品のうち手袋を除きその余はすべて二四日以前早川方にあったものであることが認められる。しかも、警察技官上野敏典の昭和二六年二月二一日付物品検査回答書の記載(二冊四〇〇丁以下)及び二次控訴審七回公判証人加藤敏典供述(一四冊四五四五丁以下)によれば、ルミノール及びベンチジン試験の結果右日本手拭一枚・西洋手拭二枚・手袋二枚から微量ながら血痕が顕出されたことが認められるが、鑑定人上野正吉の鑑定書の記載(三三冊一二六〇七丁以下)には、ルミノール及びベンチジンのほか血痕実性試験(高山氏ヘモクロモーゲン試験)により日本手拭には血痕付着を認めず、西洋手拭・雑巾・手袋にはいずれも血痕らしい斑点があるが、血痕であるかどうか判明しない、しかし以上の各物件が約一〇日間水中に沈んでいたとすれば、その場合付着の血痕が消滅する公算が大である旨の記載があり、また鑑定人三上芳雄の鑑定書(七五冊六四六六丁以下)には、予備試験ルミノール・ベンチジン・ロイコマラカイト緑試験(比較的血痕のみに反応、特異性高く鋭敏度は血液稀釈の一万倍)、本試験高山氏ヘモクロモーゲン結晶試験(右予備試験結果陽性のものにつき)により、手袋(証第一一号)には血液の証明を得られず、手袋(証第一二号)についてはルミノール試験によれば全体に微陽性、ベンチジン試験によれば部分的に微陽性であるが本試験結果は人血の証明を得られない、日本手拭についてはルミノール試験結果微陽性であるが人血の付着認められず、西洋手拭(証第二六号の二の一)についてはルミノール試験結果微陽性であるが人血付着認められず、西洋手拭(証第二六号の二の二)については全体的にルミノール試験結果微陽性、辺縁部縫込部分のベンチジン試験結果微陽性、人血試験弱陽性で人血の付着認められる、雑巾(証第二七号の一)については略ぼ全体的にルミノール試験結果微陽性、表面挾切下内部重ね部分のベンチジン試験結果弱陽性、人血試験弱陽性で人血の付着認められる、雑巾(証第二七号の二)については略ぼ全体的にルミノール試験結果微陽性、辺縁部二重重ね部分のベンチジン試験結果弱陽性、人血試験弱陽性で人血の付着が認められる旨の記載がある。これを要するに、鑑定人上野正吉の鑑定結果では、以上の各物件は約一〇日間水中に沈んでいたとすれば、付着の血痕は消滅する公算が大であるとしながらも、西洋手拭二枚・雑巾二枚・手袋二枚につきいずれも血痕らしい斑点のあることが認められるうえに、上野敏典の検査結果及び鑑定人三上芳雄の鑑定結果により西洋手拭の一枚に、また同鑑定人の鑑定結果により雑巾二枚にいずれも人血の付着が認められることは看過できない。しかも吉岡供述によれば、右雑巾は稲田が早川方板の間の足跡を拭いたり阿藤が長斧の柄の血などを拭くのにこれを使用したものであるという(二次控訴審一五回公判調書中一八冊六四〇三丁裏以下。なお証第二八号の紙片は、証第八号の小紙片同様((一審五回公判調書中吉岡供述、二冊四七七丁))血をつけるか拭くのに使用されたとも考えられるが明らかでなく、あるいはたまたま紛れ込んだものとも考えられる。)。さらに、吉岡が犯行現場でタオルを所持していたことは、同人の供述(二次控訴審四二回公判調書中三三冊一二八五九丁・同審五六回公判調書中四一冊一六〇八四丁以下・当審証人尋問調書中六六冊三一六八丁以下・当審一二回公判調書中六七冊三五六〇丁裏・三五六八丁。)のみならず、二六日寿楼で吉岡が逮捕されるに際しタオルを所持していてそれが司法警察員により領置された事実(証第三六号のタオルの存在及びこれに対する司法警察員の領置調書の記載三九冊一五三一四丁。吉岡の当審一二回公判での右タオルは寿楼で逮捕された際領置された旨の供述と同人に対する逮捕状九冊一丁の記載によれば、右領置調書に二五日とあるは二六日の誤記と認める。)によっても認められるところであり、吉岡が一人で早川方にあった雑巾二枚・手拭三枚を犯行時に使用したと考えることは不合理且つ不自然であって、それらの物の使用と田布施川に投棄の所為は吉岡以外の者によるとみなければならない。してみれば、前記手袋は仮にこれを論外とするも、本件には吉岡以外に共犯者があったものとみないわけにはゆかない。この点に関する弁護人らの所論もまた以上の認定に照らし採用できない。

(二) 屋内侵入後の状況。

吉岡供述によれば屋内侵入後の状況は概ね次のとおりである。すなわち「自分が西裏床下から台所土間に這い出てしゃがんでいる時分、奥の方で『ねずみじゃなかろうか。』というような声がした。またその時分炊事場と台所土間との境の板戸の方を懐中電灯で照らしてみたら板戸とその西側の柱との間に紙が上下しており、さらに板戸に炊事場の方から刃物で突きさしているらしく刃先が見えた。自分は板戸の合わせ目にさしてある釘が抜けかけているのを見てそれを抜き、音のしないように西側板戸をあけると阿藤・稲田がいて、阿藤は玄関の方へ行ったが、稲田がどうしたかは忘れた。敷居の上には水が流れていた。自分はそこから炊事場にはいり、何かあるかとテーブルの引き出しをあけてみると、中に庖丁がはいっていた。それから炊事場にある表勝手口の錠を外して戸をあけ、先に置いてあった焼酎の瓶を取り、持ちやすいようにするために炊事場の棚にあるもっと小さい瓶に焼酎を入れ替え、炊事場横の裏口の錠を外してあけると、松崎と久永とがそこに立っていた。久永に瓶を持っていてくれるよう頼んで瓶を外の地面に置いた。裏口をあけたのは逃げ口をつくるためと、瓶が邪魔になるので置くためであったように記憶する。それから台所板の間から座敷に上り奥寝室の襖のそばまでくると、中で寝返りでもしたのか布団の動くような気配がしたので、炊事場に引き返すと、阿藤がそこでマッチをすっていた。自分に『庖丁がないか。』ときいたので、自分が『ここにある。』と引き出しの庖丁を差し出すと、阿藤が『これを持って行け。』というので、それを持って台所板の間の上り口まできたとき、阿藤が背後から『この方がいい。』と長斧を渡してくれた。その時分阿藤の後に稲田がきていた。自分が長斧を持って先頭に立ち、阿藤・稲田の順にこれに続いて板の間を通り奥寝室の襖まできた。自分が向って左手の襖をあけて寝室にはいろうとした途端、右手の襖の陰に北枕にして寝ていたじいさんが『誰か。』と言ったので、自分はたまげて後に下る格好になったところ、阿藤が『そんなことで詰まるか。』と自分から長斧を取り、それで襖からはいった直ぐのところで、西側押入の方に向ってじいさんを殴った。そのときのじいさんの姿勢は枕から頭を上げて、なかば起きがけのような格好であったと思う。そのとき、じいさんと反対の南側箪笥の方を枕にして寝ていたばあさんが『盗人。』と叫んで布団から這い出して逃げようとするところを自分が飛びついて押え左手で口を右手で喉を押えつけた。寝室には小さい電球がついていたように思う。自分が押えているところに阿藤もきて手伝ってばあさんの喉を押えているとき、稲田がじいさんの布団の西側の押入の方からきて『これで殴って金をさがせ。』と自分に長斧を渡した。自分はそれを受取って両手に持ち仰向けに倒れているじいさんの左腰あたりの位置から頭の方に向ってじいさんを殴った。自分が長斧を畳の上に置くと、松崎がきてその長斧を取り振り上げているのを見た。阿藤が『箪笥を調べい。』と言ったので、自分が直ぐ南側にある箪笥の上部の小引き出しをあけた。中に一〇〇円札と一〇円札とがそれぞれバットの厚さ位の束にしてあった。それを阿藤に渡すと、阿藤が『これを元に戻しておけ。』と言って、その中から数枚抜いて自分に渡した。自分はそれを戻さずにポケットに入れた。それから、その引き出しの中の財布にあった鍵で下の小引き出しをあけると一、〇〇〇円札がやはりバットの厚さ位の束になってあったので、それを阿藤に渡すと、阿藤がまたその中から数枚抜いて『元のところへ戻しておけ。』と言って自分に渡したが、自分はそれをポケットに入れた。阿藤が『畳の下にもありはせんか。』と言ったので、自分がじいさんの枕元辺りの畳の角をはぐってみたが金はなかった。稲田も押入の前辺りの畳をあげていた。それから、阿藤が『これを引っ張れ。』と言うので、同人と二人で寝室北側の間にばあさんを引っ張って行くと、松崎が鴨居に黒紐を結びつけ、阿藤と自分と二人で抱え上げて松崎がばあさんの首を括ったと思う。自分がえらいので手を離すと紐が切れて落ちた。すると今度久永がロープを持ってきたので、それをばあさんの首に括りつけてから鴨居にかけ、自分と阿藤、松崎の三人でばあさんを抱え上げた。自分が手を離したら下にずり落ちた。また三人で抱え上げているとき稲田がきて『灰をまけ。』と言ったので自分が稲田と替わろうと手を離したとき、また死体がずり落ちたように思う。死体は柔らかであった。自分は寝室に行き火鉢の灰をとってまいたが、そのときじいさんの手が火鉢にはいっていて邪魔になった記憶がある。自分が灰をまいてから、松崎が紙を持って、それにじいさんの血をつけに行った。阿藤がその紙を受け取ってばあさんの手足に血をつけてから、長斧をその手に握らせると、長斧が下に落ちた。松崎が『これにもつけておけ。』と言って庖丁を持ってきた。阿藤がまたばあさんの手にそれを握らせたらそれが下に落ちた。自分も阿藤に言われて新聞紙につけたじいさんの血を炊事場のテーブルの引き出しの中の庖丁につけた。阿藤が長斧をばあさんの手に握らせる前にその柄を雑巾でふき、手から落ちてから手袋の手で柄の先の方を持って襖の敷居近くにそれを置いた。前述箪笥を探す時分には、誰がつけたか明るい電球がついていた。阿藤が『あと戸をしめて元どおりにしておけ。』と言って他の者と一緒に出て行ってから自分が一人残って裏口と表勝手口の戸をしめて元どおり錠をかけ、最初はいった台所土間から床下を通って西裏側に抜け出た。」というのである(以上は吉岡の当審現場検証に際しての指示説明及び当審証人としての供述((当審検証調書六七冊三三二八丁裏以下。当審証人尋問調書六六冊三一三八丁以下。当審一二回公判六七冊三五四八丁以下・三六八〇丁裏以下・三六九三丁以下。当審一三回公判六八冊三七七六丁裏以下・三七九五丁裏以下。当審一四回公判六八冊三八七〇丁以下。当審一六回公判七〇冊四五三三丁以下。))によるものであるが、次の一審以来の供述等も大筋において同旨―一審八回公判調書中四冊七六五丁以下。一審一〇回公判調書中五冊九九六丁以下。二次控訴審二回公判調書中一二冊三五九六丁以下・三六二四丁以下・三七三七丁以下。同審三回公判調書中一三冊三七六九丁以下・三七八九丁裏以下・三九八八丁以下。同審五回公判調書中一三冊四一六二丁裏以下・四二七三丁裏以下・。同審八回公判調書中一四冊四七〇七丁以下。同審九回公判調書中一五冊四八七五丁以下・四八九三丁裏以下・四九三〇丁裏以下・四九四七丁以下。同審一〇回公判調書中一五冊五〇〇七丁以下・五〇一四丁裏以下・五〇二六丁裏以下。同審一一回公判調書中一六冊五二六〇丁裏以下・五四〇一丁以下。同審一八回公判調書中二〇冊七二二二丁裏以下。同審四二回公判調書中三三冊一二八四六丁裏以下。同審五六回公判調書中四一冊一六一四二丁以下。同審五九回公判調書中四三冊一六六一五丁以下。同審六一回公判調書中四四冊一七一三三丁裏以下・一七一四五丁以下。同審六三回公判調書中四六冊一八〇五〇丁以下。)。そこで右吉岡供述の裏付けとなるべき証拠を検討すると次のとおりである。

(1) 台所と炊事場との境の板戸について。

一審検証調書の記載(一冊四二丁裏)に当審検証結果(六七冊三三二三丁・三三四〇丁以下。)を合わせ考察すると、事件当時押収の板戸一枚(証第一六四号)は早川方台所土間と炊事場との境の敷居西側に、他の板戸一枚(証第一七〇号)は同敷居東側に、いずれも炊事場側を表・台所土間側を裏にして建てつけられてあったことが認められ、さらに二次控訴審検証調書(一五冊五一〇三丁)の記載によれば、右板戸二枚は台所床下から頭・肩を出しただけの状態で全部見渡される位置関係にあること、東側板戸には釘をつけていたと思われる紐がついていて台所土間側から二枚の板戸の合わせ目に釘を差し込んで施錠をしていたこと、右のような戸締をしても西側板戸と柱とに間隙を生じ葉書様の紙を差し込み容易に上下し得ること。右敷居に柄杓一杯の水を流し込んだだけで(司法警察員の検証調書添付見取図二冊二九一丁及び当審検証結果六七冊三三二三丁裏・三三三七丁・三三四〇丁によれば炊事場だけに用水の設備がある。)、ゆるやかに西側をあけた場合殆んど音響を発しなかったことなどが認められる。また、当審検証の結果(現場及び当審三三回公判での各検証六七冊三三四〇丁裏以下・八六冊九八〇〇丁裏以下。)によれば東側板戸(証第一七〇号)の中央からほぼ東寄りに上端から三五糎の範囲に通常“上け猿”または“落し錠”と呼ばれる戸締設備があり、さらに西側板戸(証第一六四号)上半身に最上位一五一、四糎、最下位一四〇、五糎の範囲に長さ二、六糎ないし三糎のほぼ上下に走る九個の刺跡があり、且つ板戸下部は敷居溝に落ち込む一、二糎の切り込みがあって、同部分に高さ〇、五糎の滑車が取り付けてある。板戸二枚の合わせ目の下端から一〇三糎の箇所には釘穴があることが認められる。鑑定人渡辺孚作成の鑑定書の記載及びこれに添付の写真(七七冊六九二八丁以下・八六冊九七八五丁以下。)によれば、前記板戸の刺跡は、いずれも表側から裏側(前記認定によれば、すなわち炊事場側から台所土間側)に向け刃を上に背を下にして突き刺したのち、上下あるいは左右運動を与えたことによるものであるが、犯行現場にあった証第五・三三・三四各号の庖丁によっては生ぜしめ得ないものであることが認められる。そして、検察事務官市野原正人作成の実況見分調書(八六冊九七七三丁以下)の記載によれば、西側板戸部分の敷居の高さは炊事場土間より一九、四糎であるから、前記最上位の刺跡の高さは炊事場土間から概ね一七〇、一糎(151.4cm-1.2cm+0.5cm+19.4cm=170.1cm)となる。当審三三回公判での測定(八六冊九八〇〇丁裏以下)によれば、阿藤の目の高さは靴履背伸び一五七糎・同直立一五二糎・素足直立一四八糎・同背伸び一五六糎、稲田の目の高さは靴履直立一五四、五糎・同背伸び一五九糎・素足直立一五二糎・同背伸び一五八糎で、同人らの目の高さはいずれも前記板戸の最上位刺跡に達せず、また広島刑務所長の回答(八三冊八九三二丁以下)には、吉岡の目の高さは一五三、六糎とあり、最上位の刺跡には一七、五糎も足りず、仮に同人が背伸びしたとしても増加する目の高さは一〇糎以内と推測され、同人の目がこれに達するとは考えられない。

以上認定の各事実、ことに前記板戸の刺跡の個数・形状並びにこれら刺跡のある板戸の部位・刺突方向等に当審二〇回公判証人中山ツマの「当時板戸は釘を差して施錠としていた。」旨の供述(七三冊五五一八丁裏以下)を合わせ考えると、早川方炊事場と台所土間との境にある板戸二枚は二四日当時には落し錠を用いず、その合わせ目の前記の穴に台所土間側から釘を差し込んで施錠をしていたが、このことを知らない者が吉岡がいうように炊事場の側から西側板戸と柱との間に紙を上下させて施錠を探しあててこれをはずそうと試みたほか、西側板戸に刃物を突き刺し、その先で“落し錠”を探しあてこれをはずそうと試みたものとしか考えられない。もし、右刺跡がのぞき穴であるとすれば、容易に目の届く低い位置にせいぜい一つか二つ突き刺し、これを刃先で適当に拡大すればよい筈であって、前記刺跡の高さ形状等からして、それがのぞき穴であるとする考えには賛成できない。したがって、吉岡が早川夫妻の就寝前比較的早い時刻に早川方に侵入し前記板戸の刺跡から母屋側を覗き様子を窺いつつ待機していたものとは考えられない(吉岡がそのように待機していたとの見解は、前記三(二)(6)(7)に認定の時間関係からしても否定さるべきである)。もっとも、炊事場側にいた者が、吉岡のいうとおり阿藤・稲田であるとすれば、同人らは吉岡がいずれ反対方向から侵入してくることを予想していた筈であるから、前記のように板戸に刃物を突き刺すなどして施錠を取りはずそうと試みる必要がなかったとも考えられないでもないが、しかし同人らの予期するとおり吉岡が反対方向から侵入してたやすく板戸付近に到達するとは限らないし、またできるだけ早くことを運ぼうとすれば、吉岡の到来を待たずに自分らの手で板戸の施錠を取りはずしても母屋に侵入しようと試みたものとも考えられるところであり、中連窓から侵入した阿藤・稲田が吉岡の台所土間に到着した際すでに炊事場側から前記板戸前に到着してその施錠を取りはずそうと骨折っている様子を発見したことなどのその際の状況に関する吉岡供述もまた信用するに足るものといわなければならない。以上の認定に照らし、弁護人らの前記板戸に関する見解には賛成できない。

(2) 屋内の足跡について。

吉岡供述によれば「早川方屋内で自分は素足、他の者は素足か足袋・靴下履きのいずれかであった。」というのである(当審証人尋問調書中六六冊三一七二丁以下・当審一二回公判調書中六七冊三五六一丁以下。)。吉岡が早川方屋内で素足であったことは、その供述によるのみならず前記(一)(3)に認定のとおり同人が早川方に赴くに際し素足に下駄履きであったこと及び警察技官藤田千里の鑑定書中(二冊二七五丁裏以下)の吉岡が逮捕された日の一月二六日身体検査の結果その右足趾爪・左足趾に血液の付着が認められた旨の記載により容易に認められる。そして司法警察員の検証調書添付現場写真No.32(二冊三〇七丁)によれば、早川方寝室の畳の上の灰に素足の足跡のあったことが認められ、また同調書添付現場写真No.24(二冊三〇三丁)によれば同寝室内敷居近くの畳上の灰に何者かの足跡のあることが認められるところ、鑑定人香川卓二作成の鑑定書中(三六冊一三五五六丁以下)には前者はその写真原板に現われた足紋が不鮮明であるため吉岡及び被告人らのいずれにも吻合するものとは認めがたいが、吉岡・久永のそれに類似し且つその類似率は両人同程度である旨の記載があり、これによってみればその足紋は早川方屋内で素足であった吉岡の足紋であるとは断定し得ないにしても、その疑の濃厚であることを否定するわけにもゆかない。さらに児玉静人作成の鑑定書の記載(八六冊九六七三丁以下)及び当審三二回公判証人児玉静人の供述(八五冊九五六二丁以下)によれば、後者No.24の現場写真に現われた足跡は足袋痕であることが認められ、その痕跡は素足であった吉岡以外にも犯人が侵入したことを推測させる証跡であるとみなければならない(児玉弁護人の所論のとおり、それが靴下痕であるとしても結論は同一である。)。そこで、右足袋痕が吉岡または被告人ら以外の者の足跡ではないかとの点について検討する。当審二一回公判証人伊藤貞之の供述(七三冊五八〇〇丁裏以下)によれば、No.24の現場写真は同人が熊毛地区警察署司法主任三好等の指示に従い事件発覚の二五日中に現場保存のまま撮影したものであることが認められ、且つ当審証人小泉玄夫(当審二一回公判七三冊五七一二丁以下)の供述・一審及び当審証人中山宇一(一審証人尋問調書中一冊八三丁以下・当審証人尋問調書中六六冊三二二六丁以下・三二五二丁以下)・一審及び二次控訴審証人清力用蔵(一審証人尋問調書中一冊五一丁裏以下・二次控訴審二三回公判調書中二三冊八一〇九丁以下。)の各供述及び野地宇一の検察官に対する供述調書(一冊二一四丁以下)・早川武助の検察官に対する供述調書(一冊二一九丁裏以下)の各供述記載を総合して考察すれば、二五日午前中警察官が早川方に駆けつける前同人方屋内に立ち入った者は被害者早川夫妻の女婿にあたる中山宇一のほか医師小泉玄夫・近隣の清力用蔵・加藤武雄・野地宇一・早川正一・早川武助の七名で、そのうちさらに室内に立ち入った者(野地宇一・早川正一が室内に立ち入ったことを確認すべき資料はない。)も土足のままであり(二冊二九九丁裏の司法警察員検証調書添付写真No.18及び証第三七号中現場写真No.18中の土足の映像の状況に中山宇一・清力用蔵が軍靴あるいはゴム半長靴であったことを合わせ考えると、同人らと一緒に入った他の者も同様土足であったとみるのが相当である。)、足袋または靴下痕を残すようなことはなかったものと認められる。しかも、中山宇一の司法警察員に対する供述調書(四八冊一九〇三四丁以下)・一審証人中山宇一尋問調書(一冊八三丁以下)・野地宇一の検察官に対する供述調書(一冊二一四丁以下)・加藤武雄の検察官に対する供述調書(一冊二二四丁以下)・一審及び二次控訴審証人清力用蔵尋問調書(一審証人尋問調書中一冊五一丁裏以下・二次控訴審二三回公判調書中二三冊八一〇九丁以下。)の各供述記載中及び当審証人小泉玄夫(当審二一回公判七三冊五七四一丁以下)の供述中、加藤武雄・清力用蔵・中山宇一・小泉玄夫が早川惣兵衛の死体のある寝室内に立ち入った旨の部分は、当審証人中山宇一(当審証人尋問調書中六六冊三二五二丁以下)・同小泉玄夫(当審二一回公判調書中七三冊五七四九丁裏・五七五一丁裏)の各供述及び中山宇一については同人の検察官に対する供述調書(四八冊一八九三〇丁以下)、加藤武雄については同人の検察官に対する供述調書(四八冊一八九三五丁以下)、清力用蔵については同人の司法警察員・検察官に対する各供述調書(二三冊八二四九丁以下・二三冊八二五三丁以下)の各記載に照らし信用できないのみならず、司法警察員検証調書添付写真No.18・24・25・26・27及び証第三七号中現場写真No.18・24・25・26・27(当審二一回公判証人伊藤貞之の供述によれば、No.18・24は二五日に、25・26・27は二五日または二六日に現場保存のまま撮影されたものと認められる。)によれば、前記寝室の敷居際までは土足で立ち入った足跡がみられるにしても、それら土足の者が右敷居を超えて寝室内に立ち入ったと認むべき足跡が現出されていない状況からみて、二五日朝早川方屋内に立ち入った前記七人は、右寝室には立ち入らなかったものと認められる。また、当審二一回公判証人伊藤貞之の供述(七三冊五八一〇丁裏以下)によって認められる警察関係者の実況見分・検証等に際しての屋内立入状況及び証第三七号中現場写真No.51に現われているとおり前記No.24写真の足跡部を新聞で覆いこれを保存している状況等からして(二冊三〇五丁No.29写真の拡大写真である証第一九七号中No.33は、右伊藤証人供述七三冊五八〇三丁・五八一〇丁以下によれば二六日同証人撮影のもので、しかも同写真に現われている靴履様の影像を仔細に観察すると、その上部の模様等からカバーをかけているものと認められ、仮にそれが靴の土足であって証第三七号中現場写真No.35・49にみられるような靴下履きと共に寝室に立ち入ったものとすれば、前記No.24・25・26・27等の関係写真、殊にNo.27写真の敷居より内部に、幾多それらに相当する足跡が現われていなければならない。なおこのことは前記中山宇一ら七人についても同様である。)、前記No.24写真の足袋痕様の足跡は警察関係者の足跡とも認められない。以上の認定に照らし、弁護人らの同写真の足跡に関する所論もまた採用できない。

(3) 炊事場に散乱していたマッチの軸木について。

当審証人三好等(一六回公判七〇冊四六八五丁・四六九二丁。)・同伊藤貞之(二一回公判七三冊五七七七丁以下・五七九五丁以下。)の各供述によれば、司法警察員の検証調書添付写真No.13及び(二冊二九七丁裏)証第三七号中現場写真No.13は、司法巡査伊藤貞之が本件捜査主任であった熊毛地区警察署司法主任三好等の指示に従い、本件発覚の日である二五日に現場保存のまま撮影した早川方炊事場の二四日夜以来の現状であることが認められる。そして、高橋正巳の鑑定書(七五冊六二四八丁以下)の記載に当審二三回公判証人高橋正巳の供述(七五冊六二〇六丁以下)を合わせ考えると、右写真炊事場土間の白色棒状の影像は、燃えさしのマッチ軸木であるとは必ずしも断定し難いにしても、その公算が頗る大で、次の理由により吉岡供述の信用性を増強する一資料たるを失わない。すなわち当審証人中山ツマの供述(一九回公判七二冊五四五一丁裏以下・二〇回公判七三冊五五一三丁裏以下)によれば、被害者早川惣兵衛は几帳面な性格の持主であり、また妻ヒサは台所・炊事場の後片付を何時も整然となし特に火気には用心して燃差のマッチ軸木を炊事場土間などに放置するようなことがなかったものと認められるうえに、同証人の右当審二〇回公判供述に司法警察員の検証調書添付図面の記載(二冊二九一丁)及び前記No.13写真を合わせ考察すると、当時早川方炊事場にはガス・電気器具等の設備がなく、炊事には薪・木炭の類を燃料としていたもので、これら燃料にマッチを使用して点火する場合には、その軸木をも燃料と共に燃してしまうのが通常であり、仮に二四日夕刻早川方で炊事をしたとしても、炊事場土間にマッチの軸木が放置されたとは考えられないし、また後に説示するとおり、電灯の設備ある右炊事場で早川方家人が照明のためにマッチを使用したとも考えられない。

吉岡は、その供述のように、本件犯行に際し棒状の懐中電灯(証第三号)を使用したものであることは(一審五回公判調書中二冊四七六丁)、現にそれが公判廷にその領置調書(昭和二六年一月二六日付司法警察員作成八九冊一一三八〇丁)と共に提出されている事実からしても明らかであり、このことからすれば、前記炊事場のマッチ軸木は吉岡以外の者によって使用されたと考えられる余地がある。昭和三八年七月二二日施行の当審検証現場で、吉岡は阿藤が二四日夜前記炊事場の白色棒状の影像のある付近でマッチをすっていた旨指示説明したが(当審検証調書中六七冊三三三〇丁)、このことは証人木下六子の「二四日夜上田方裏井戸で米をとぐ際、自分が阿藤から受取った懐中電灯でその場を照明した。」旨の供述(当審八回公判六四冊二三二三丁以下・二次控訴審六四回公判調書中四六冊一八一五七丁裏以下・同公判供述によれば、米をとぎ終てからその懐中電灯を阿藤が貸せと言ったので同人に直ぐ渡したという。)と矛盾する。しかし、その懐中電灯が阿藤のものであったと限らないことは、右証人の当審八回公判での「その懐中電灯はそれ以前に見たことのないものである。」(六四冊二三三八丁裏以下)、「その懐中電灯は上田方の部屋に戻って阿藤に返還したが、その後どうなったか知らない。」(六四冊二三二四丁)旨の各供述に照らし明らかである。してみれば、阿藤以外の被告人らの誰かが所持していたもので、阿藤が早川方炊事場に侵入していた際にはこれを所持していなかったが、帰途あるいはその他の機会に右所持者から借り受け、上田方で米をとぐ際これを使用したものとも考えられる余地もあり、したがって、木下証人の二四日夜阿藤が上田方で懐中電灯を持っていたことを認めしむべき前記供述からは、必ずしも事件当夜早川方炊事場でマッチを使用した者が阿藤ではないとの断言はできない。もっとも、司法警察員の検証調書添付写真No.9・13及び証第三七号中現場写真No.9・13によれば、前記炊事場には電灯の設備があり、照明のためならば、これを使用することも考えられないではない。しかし、司法警察員の検証調書の記載(二冊八八丁)及び同調書添付図面(二冊二九一丁)によれば、炊事場裏口は外側板戸・内側硝子戸であるが、吉岡供述によれば、右マッチの使用は侵入後の最も用心を要する段階であるうえ、右板戸が吉岡によってあけられた後のことであり、内側硝子戸がしめられてあったとしても、同所から電灯の光が外部に反映することが必須であることと、寝室の方にも反映して感づかれることを慮って、ことさらに電灯の使用を避けたものと考えられる。

(4) 被害者早川惣兵衛に対する加害者の数について。

早川惣兵衛の死体には、(1)右眉毛内端より右眼内眥を経て右顴骨に至る両端鋭利・創縁平滑な長さ七糎・深さ四糎・中央幅一糎の割創、(2)下顎中央部に下唇にほぼ平行して長さ七糎の下顎骨を切断した両端鋭利な割創、(3)該創と下唇の中間部左寄りにこれに平行して長さ五糎・幅一糎・深さ口腔に達する両端やや鋭利な割創、(4)右眉毛上約二糎のところより後方に向った長さ九糎の割創(該部頭蓋骨は約二〇糎骨折し大脳露出。)、(5)左側頭部の左耳から約四糎上方の横方向に長さ五、五糎・幅二糎の割創(該部の頭骨は陥没骨折。)、(6)これに平行して長さ五糎・幅二糎の割創(該部の頭骨は陥没骨折。)、(7)該創に続き頭頂寄りに長さ五糎・幅二糎の割創(該部の頭骨は陥没骨折。)、(8)右眉毛外端部から斜め左内上方に向う長さ四糎ないし五糎の割創あるいは切創、(9)胸部第三肋骨関節部胸骨斜め骨折の各傷害があり(鑑定人藤田千里鑑定書二冊二五三丁以下・鑑定人香川卓二鑑定書四五冊一七四五〇丁以下・鑑定人上野正吉鑑定書三三冊一二六〇七丁以下・鑑定人宮内義之介鑑定書七四冊六一六三丁以下・鑑定人桑島直樹鑑定書八一冊八三五〇丁以下)、その死因は頭部割創による頭蓋骨骨折・大脳挫滅及び前頭蓋底骨骨折である(右鑑定人藤田・同香川各鑑定書)ことが認められる。そして、右いずれの鑑定書の記載によるも、第一撃は前記(4)に対するもので、その傷害の形状・作用力から証第四号の長斧が最もその用器として適合すると認められる(宮内鑑定人の鑑定結果も第一撃がこの部分に対するものであることを否定するものではない)こと、右第一撃による割創は被害者が坐っている際前方または後方から打ち込むことにより(二次控訴審六回公判調書中証人藤田千里供述一四冊四四三二丁。但し当裁判所の見解では証第三七号中No.26・27・28の各現場写真にみられる被害者の位置と襖との間隔から後方からの打撃は困難であると考えられる。)、または被害者が半坐位または坐位に際し左側前方ないし上方から打ち込むことにより(前記上野・香川各鑑定書)、あるいは被害者が頭を枕から僅か上げた状態に際し打ち込むことにより(前記桑島鑑定書)生ぜしめたものとみられる可能性あること、香川鑑定人の鑑定を除いては前記九個の傷害はいずれも証第四号の長斧によって成傷可能であり、しかもこれによる可能性が最も大であると認められること(もっとも香川鑑定でも前記(1)の割創に対する用器を除いてはこれと同じ結論。)、前記各鑑定書の記載によれば見解の如何により、前記各傷害は被害者の左右いずれの側からも加え得るもので、且つ一人によっても二人以上によっても成傷可能のものとみうべきこと等からすれば、科学的には、本件の凶器が証第四号の長斧一個であるとしても、一人の犯行によるものか、はたまた二人以上の犯行によるものかは、断定し得ないものといわなければならない。しかしながら、以上の各鑑定結果によれば惣兵衛は右第一撃に因り昏倒したにかかわらず、さらに八回も斧で攻撃し大小強弱の創を負わせたものと認められるところ、その場の状況から判断し同人が第一撃を受けた時分には、その近くに寝ていた早川ヒサは当然目ざめた筈であり、若し犯人が一人であるとすれば引続き右のような多数の攻撃を加える余裕があったとは認められない。しかも早川ヒサは後記のとおり首を締められて別の方法で殺害されているのである。これらは斧で惣兵衛に攻撃を続行する者のほかに、ヒサを絞殺する別人がいたことを物語るものと認めるのが最も自然である。以上の各鑑定結果と認定とに徴すれば、惣兵衛の打撃とその前後の状況に関する前掲吉岡供述の事実は、これを肯定し得ても、否定し得ないものであることが判る。なお、香川鑑定人の前記(1)の割創に対する成傷用器が証第五号・第三三号・第三四号の庖丁またはこれと同様性状の有刃鋭器であるとの鑑定結果は、他の前掲各鑑定書の記載に照らし且つは同各庖丁の刃部に血液が殆んど付着していなかった(二次控訴審六回公判証人藤田千里の供述一四冊四四一五丁によれば、早川ヒサの足もとにあった証第五号の庖丁の血液付着状況は刃の切れる部分には殆んど付着しておらず、頭身部・両側面・峯部分・柄部分に相当広範囲にわたって付着していたことが認められ、また証第三三・三四各号の庖丁は同証人供述一四冊四四一五丁裏以下及び司法警察員の検証調書二冊二八三丁裏の記載によれば、炊事場テーブルの引出し内にあったもので、そのいずれか一本の柄に血液が付着しているに止ったものであると認められる。吉岡が阿藤に言われて右引出し内の庖丁に血液をつけた旨供述していることは前掲のとおりである。)ことからみて納得できない。また一審七回公判調書中には証人三好等の供述として、前記長斧から血液が検出されていない旨の記載があるが、藤田千里の昭和二六年二月一九日付物品検査回答書の記載(二冊二七九丁以下)及び二次控訴審六回公判証人藤田千里の供述(一四冊四四一〇丁裏以下・四四〇八丁裏以下。)によれば、右斧の刃の両側面及び缺損部分・柄の根元及び握る部分からいずれもB型の血液(早川惣兵衛と同型((鑑定人藤田千里鑑定書二冊二五八丁))。)が検出されたことが認められ、三好証人は右供述に際しこのことを忘れていたか、または何かの誤解に基いて右のような供述をしたものとしか考えられない。弁護人らの早川惣兵衛の加害に関する所論も当裁判所の見解と異にし採用できない。特に正木弁護人は証第四号の長斧は惣兵衛に対す兇器ではなく、同人の創傷はいずれも出刃庖丁の峰打ちによるものである旨主張するが、前記各鑑定人の鑑定結果に照らし首肯することができない。

(5) 被害者早川ヒサの死体の首つり工作について。

鑑定人香川卓二の鑑定書(四五冊一七四五〇丁以下)・同藤田千里の鑑定書(二冊二六四丁以下)の各記載によれば、早川ヒサの死体の頸部にかけられているロープ部分の索溝には溢血がなく、その死因は前頸部搾扼による窒息死であることが認められ、これに鑑定人額田巌の鑑定書の記載(八一冊八二一六丁以下)によって認められる現場写真No.17ないしNo.23(司法警察員検証調書添付二冊二九九丁以下)に現出のロープによる首吊りは、先にロープで首を括ってから鴨居に吊り上げ、鴨居に対する結着が全然なく、吊り上げ紐二本を軸として鴨居下に垂下した二本の紐を相対する方向に巻きつけ、最後にひとえ結びに留めたものであることを合わせ考察すれば、右写真の首吊り自殺の様相は、扼殺後犯人によって擬装されたものと認められる。しかも、当審証人額田巌の供述によれば、本件首吊り工作のロープの用法は一般には極めて珍らしいものでロープ使用の作業に専門的に従事したことのある者の仕業であることが認められるところ(当審同証人尋問調書中八三冊八八五五丁以下・八八七五丁)、証人岩井武雄の供述によれば、阿藤・久永・松崎の三人は同証人と共に昭和二五年一二月初から月末まで約一箇月間熊川橋の架橋工事に雇われ(二次控訴審二一回公判調書中二二冊七六六三丁裏以下)、その際「一般の人には判らない専門的な」ロープによる架橋用木材の吊り下げ作用に従事した(当審四回公判六一冊一三一五丁以下)ことが認められる。もっとも同証人は、その後の当審の尋問に際し右工事のロープの使用方法を説明をしながら(その説明も十分なものとは受けとれなかった)、尋問の最終段階で前堀主任弁護人の反対尋問に対し「阿藤・久永・松崎は熊川橋工事に際し大体杭打作業に従事しただけである。」との供述をするに至った(山口地方裁判所柳井支部での当審同証人尋問調書中八五冊九三四二丁以下)。しかしながら、その供述は、右当審四回公判供述に照らし信用できないのみならず、同人の検察官に対する供述調書中「自分は平素口が重たいうえに法廷に出るとどうしても上気して次々に尋ねられることに対し十分言えない。ことに、先の山口地方裁判所柳井支部で行われた証人尋問に際しては、その朝阿藤らを応援している人が平生町新町の自分方に尋ねてきて、俺と喧嘩をするようなことを言ってくれるな、と言ったため、それが気がかりになって余計言いにくかった。そのため終りの方で尋ねられた熊川橋工事のことも何かわけの判らないことを言ったように思う。熊川橋工事は土橋工事としては自分の土工仕事のうちで一番大きな仕事であったので記憶が比較的はっきりしている。橋は二五米位で川の中四箇所に杭(橋脚)を打ち、その一箇所に流れに沿って一米おきかに四本の杭を並べて打ち、その上に枕(力梁)として三〇糎角位の松木を置き、さらにその上に十字になるように台持木に三〇糎角位の長さ二米位の松木を置き、その上に最低末口三〇糎・長さ五米位の桁を置き、その上に丸太を並べて土を盛るのである。自分らの仕事は、以上のうち杭打で二本袴を立てモンケンを使用しワイヤーで杭を引き上げて打ち込むが、その際二本袴を支えるためロープを使用したのである。杭が打ち終ると桁をかけるのは大工仕事であるが、これを台持木の上にあげるのに大工ではできないので、自分ら土方がした。桁は重く一度下に降して梁を利用してロープで吊り上げ、桁を括ったロープを二本桁の方から梁にかけたうえで交差するようにする。その際両方からかけないのは、両方からかければ、引き上げられた桁が梁の下にいって梁の上の台持木の上にあげることが困難になるからである。また、ロープを二本一緒にしてかけないのは、桁が重いので危険のおきた場合桁の滑り落ちるのを防ぐのが困難だからである。桁はロープで引き上げると共に下からも人がかついで調子を合わせて引き上げるので、何かの都合でこれを途中でやめようとしたとき、二本一緒にかけているとロープを引張っておる人の重みだけしか止められないことになるからである。それで熊川橋のときも、二本のロープが梁の上で交わるようにしてロープをかける作業をしたのである。ただ交わらせるだけでは引き上げる際二本のロープが一緒になり交差が外れて前に述べた二本一緒にかけたと同じ結果になるので、一本のロープを引き上げている二本のロープの中に入れ上の交差は外れないようにして引き上げる。交差した場合、下になる方を親綱といい、上になる方を小綱という。小綱は桁がずり落ちるようなとき、これを引張り、親綱を押えればずり落ちることを止めることができる。それで普通小綱の方を引き上げる二本のロープの間に入れ引き上げる際寄りやすい親綱にあたる方にそって引張る。そのとき一時中途で預けて宙吊りにする場合には、小綱を吊り上げている二本のロープに巻きつけ、親綱の方をそれと一緒に巻くか、あるいは反対の方に巻くか、止め方はその人その人によって異り、いろいろあるが、解り易い方法で括るわけである。以上のとおり熊川橋工事は、杭打のほかに、桁上げの仕事もしたことは間違いない。この前の裁判の際熊川橋工事にロープ作業がなかったといったかも知れないが、あのときは最初熊川橋工事のことをきかれ、そのうち杭打ちのことをきかれたので、杭打ちだけならトラ以外にはロープは使わないので、わたしがこの点十分説明をしないで話がチャンポンになったものである。」旨の供述記載(八六冊九六三四丁以下)からみても採用することができない。もっとも、当審証人柏谷一弥の尋問に際しての実験結果(八三冊八七七〇丁以下)によれば、前記額田鑑定書記載の操作による本件の首吊り工作は困難ではあるが(その実験は可成り困難であるよう見受けられた。)、必ずしも一人によっても不可能でないとも考えられる。しかし、右実験は胴部その他の屈折を欠いた砂人形によるもので、これを直ちに取り扱い困難な硬直前の人の死体(後記杉本鑑定人供述。なお早川ヒサの足が畳に届いていても、その全重量は鴨居下のロープにかかっているものと認められる。)の首吊り工作と同一に論ずることができないのみならず、仮にそれが一人で可能であるとしても、本件の首吊り工作が二人以上の協力によったものであることを否定する論拠とはなし得ない(共同鑑定人平井信二・同山井良三郎の鑑定書の記載によって認められる本件鴨居のロープ懸垂部分及びその付近の損傷は前掲吉岡の「ロープで早川ヒサの首を吊ろうとした際一・二度ずり落ちた。」旨の供述によっても理解されるところである。)。

さらに、司法警察員の検証調書添付No.18・19・20の各現場写真(二冊二九九丁裏以下)の状況からすれば、犯人は前記ロープによる首吊り工作に先立ち鴨居及び早川ヒサの足元にある紐により同女の首を吊ろうとしたものと判断されるので、右各現場写真及びこれらを部分的に拡大した証第一九七号中No.10・11・12・13・14・18・19・20の各写真と押収の黒紐二本(証第六号。右各写真に現われている切紐に該当((司法警察員の検証調書二冊二八七丁裏及び捜索差押調書一四冊四五〇〇丁。一審五回公判調書中吉岡供述二冊四七六丁裏等))。)とに基き、これによる首吊り工作を検討する(たとえ実際には弱い紐であっても、一見するところ犯人がこれによって首吊り工作をしようとしたとしても不思議ではない。)。先ず二次控訴審検証調書の記載(一五冊五一〇三丁裏以下)によれば畳表面から鴨居底辺までの高さは一七三、八糎であり(司法警察員の検証調書二冊二八五丁裏にその高さ一四五糎とあるのは測定の誤りと認める。)、また鑑定人我妻直夫の鑑定書の記載(七六冊六八一七丁以下)によれば右二本の黒紐は本来全長約一一〇糎の一条のものであったことが認められる。そこで考えるに、早川ヒサの首を右黒紐で鴨居に吊りさげるには、(イ)黒紐を先に鴨居に結びつけたうえ体を抱えて鴨居付近(少なくともその直下)まで首を持ち上げ、その状態のまま首に黒紐をかけ回してその両端を結ぶ方法(この操作は本件証第一二九号の鴨居周囲の長さと前記黒紐の長さとでも十分可能である。)と、(ロ)黒紐を先に首に結びつけたうえ体を抱えて首を鴨居付近まで持ち上げ、その状態のまま黒紐の両端を鴨居に結ぶ方法以外にはない。そして右各写真にみられる黒紐の状況、すなわちそれが鴨居に結びつけられたのち切断した状態で残存している状況から観察して、本件では右(イ)の方法により首を吊ろうとしたものと認めざるを得ない。この場合鴨居に結んだ黒紐は、これを首にかけ回した際体の重みで切断したものか、あるいは我妻鑑定書に記載(七六冊六八二一丁・六八二七丁)のように鴨居に結んだ黒紐の強さをためすためその両端を左右に強く引張った際に切断したものかは明らかでないが、前記各写真の状況からは、むしろ黒紐の余端を首にかけ回した際体の重みで切断したものとみるのが最も自然であるようにも考えられる(当審証人額田巌の供述八三冊八八八五丁裏以下によれば、この場合でも鴨居に結ばれた黒紐は写真にみられる傾斜の状態で残存する可能性がある。しかし、吉岡の当審供述六六冊三一五八丁裏八行目以下・三一五九丁裏九行目以下によるも、体の重みで黒紐が切断したものかどうかは必ずしも明らかでない。)。しかし、そのいずれであったにせよ、前記(イ)方法により首を吊るには、鴨居付近(少なくともその直下)まで頭部を上位にして抱え上げることを必要とするところ、当審鑑定人杉本良一の「死後硬直前の人間の死体を持つこと自体非常にむずかしく、殊に一人で頭を立てて持ち上げることは経験上非常に困難である。」旨の供述(同鑑定人尋問調書中八二冊八六四二丁裏以下・八六五一丁裏以下)及び二次控訴審六回公判証人藤田千里の「本件のように死体を一人でぶらさげることは非常にむづかしい。死体取り扱いの経験上、死体を立ち上らせて吊るすことはむずかしい。」旨の供述(同公判調書中一四冊四四八〇丁裏以下)からしても、本件早川ヒサの死体(吉岡の二次控訴審三回公判((一三冊三九一七丁))及び当審一二回公判((六七冊三五五九丁以下))によれば、その死体は死後硬直前であったと認められる。)を前説示の状態で抱え上げるだけで二人以上の協力を必要とし、且つその状態のまま鴨居付近で鴨居に結んだ黒紐の余端を首にかけ回してその両端を結ぶためには他に一人の協力が必須であり、結局少なくも三人の協力を要するものといわなければならない(前記(ロ)の方法による場合でも、少なくとも三人の協力を必須とすることは、(イ)の方法による場合と同様である。仮に一人で抱え上げ得るとしても、同一人が首に黒紐を結ぶことはできない。)。これによってみれば、前記(イ)の方法により早川ヒサの首を黒紐を用いて鴨居に吊るそうとしたことだけでも吉岡(その身長は一六七糎・八三冊八九三二丁)のほか幾人か(少なくも二人)がその場に居合わせたことを如実に物語るのみならず(仮に(ロ)の方法によるとしてもその結論は同一である。)、吉岡の当審の現場検証に際しての指示説明及び証人尋問に際しての供述中「最初黒紐で早川ヒサの首を吊ろうとした際には、自分が西側に向い死体の背後からその両脇を、阿藤が南側すなわち自分の左側で死体の左脇を各抱えて持ち上げ、松崎が北側すなわち自分の右側にいて黒紐を鴨居に結びつけた。」旨の部分(六七冊三三三三丁・六六冊三一五八丁以下。司法警察員の検証調書二冊二八五丁裏三行目及び添付見取図二冊二九一丁によれば、同検証調書添付写真No.20及びその拡大写真証第一九七号中No.19の右方向が北であると認められる。)は、鑑定人我妻直夫の「右各写真にみられる黒紐が鴨居に対し右側に傾斜している理由は、右黒紐の結び目より右側に人が立って黒紐を鴨居に結びつける等の操作をした結果である。」旨の鑑定結果(七六冊六八二二丁及び六八三七丁第一〇図・六八三八丁第一一図の各写真と各その記載。)によっても裏付けられるところであり、(二)冒頭掲記の黒紐の使用に関する吉岡供述は十分信用するに足るべく、したがって本件はこの点よりするも吉岡一人の犯行ではなく、被告人らを加えての犯行と認定しないわけにはゆかない。

二次控訴審判決では、吉岡の司法警察員に対する第五回供述調書中にその供述として「ヒサをロープで鴨居に括りつけたのち黒紐を発見し、これで吊るす足しにしようと思いロープの側の鴨居にひと回しして括ったが、その紐は結局役に立たず切れた。」旨の記載を一つの根拠として、前記黒紐はロープで吊りさげたヒサの死体がさがりすぎたため、その南方約三〇糎の鴨居上にこれを結びつけて、その一端をヒサの右側頸部付近に結びつけて死体を吊り上げる支えとしたものと認定したが、司法警察員の検証調書添付No.18・19・20の各写真によれば、ヒサの首吊りに用いたロープの残部が二本も鴨居下に垂れさがり、しかもうち一本は畳に達してもなお余りある状態であるのに、一見してそれよりも弱く短かい黒紐で鴨居側面から斜めにヒサの死体の吊上げの支えにしたものと考えることは極めて不自然であり、前記二次控訴審判決の判断は納得できない。また以上の認定に反する弁護人らの所論は、いずれも前記引用の各写真によって認められる現場の状況を正視しない見解であって首肯することができない。

(6) 被害者両名の死亡時刻の推定。

本件被害者早川惣兵衛及び早川ヒサの各死体の変化現象に基く推定死亡時刻は、鑑定人香川貞二の鑑定結果によれば右両名共二四日午後一〇時前後であり(四五冊一七四六一丁・一七五〇一丁)、鑑定人上野正吉の鑑定結果によれば、早川惣兵衛については二四日午後三時以後二六日午前三時までの間(三三冊一二六六七丁裏)、早川ヒサについては二四日午前一〇時以後二五日午後一〇時までの間(三三冊一二六七三丁)であるというにあるが、右両鑑定人の各鑑定書の記載(四五冊一七四五四丁裏以下。三三冊一二六六三丁裏以下・一二六七一丁以下。)及び証人香川卓二の二次控訴審六一回公判供述(四四冊一七〇〇五丁以下)によれば、元来死体の変化現象からする死亡時刻の推定は法医学上頗る困難な問題に属し、殊に本件では資料の不足もあって、以上の各推定は極めて大まかなものであることが窺われ、いずれも本件の認定資料として必ずしも十分なものとはいえない。さらに右香川証人供述(四四冊一七〇六二丁以下・一七〇七六丁以下)・証人上野博の当審二一回公判供述(七三冊五七五七丁以下)・前記上野正吉鑑定書の記載(三三冊一二六六三丁裏以下・一二七一九丁以下)によれば、本件被害者両名の胃の内容物からする死亡時刻の推定もまた極めて困難であり、むしろ不可能でさえあるとも認められる。したがって、これを推定することは無意味であるとも考えられるが、仮に前記香川卓二・上野正吉の各鑑定結果と当裁判所の被害者両名の最終食事時刻の推定とに基き各その死亡時刻を推定すれば次のとおりである。

香川卓二鑑定書の記載(四五冊一七四六二丁以下・一七五〇一丁)によれば「被害者両名の推定死亡時刻は食後三時間ないし四時間の頃」であり、また上野正吉鑑定書の記載(三三冊一二七一九丁裏)によれば「被害者両名の食後死亡までの経過時間は大体三時間前後であろうという程度の推定が可能である」というのである。そして、証人植岡藤吉(当審二二回公判七四冊五九四〇丁以下)・同加藤スミ子(当審二二回公判七四冊六〇三八丁以下。二次控訴審四一回公判調書中三二冊一二四〇三丁裏以下・一二四一六丁以下)・同加藤武雄(当審二一回公判七三冊五八五四丁以下)・同中山ツマ(当審一九回公判七二冊五四一八丁以下・五四三四丁以下・五四五五丁以下。)同早川イネ(二次控訴審四五回公判三五冊一三六一二丁以下)の各供述及び検察官に対する早川武助の供述調書の記載(一冊二一九丁以下)を総合すれば、鑑定人藤田千里の鑑定書に記載(二冊二六八丁二五六丁)の被害者両名の胃の内容物中ヒサのみかんを除きその余は概ね被害者惣兵衛が二四日午後四時過頃平生町裏町早川武助方の法要から帰宅した際持ち帰ったものに相当し、両名共夕食時にこれを食べたことが認められ、且つその時刻は午後六時ないし七時前後頃であったと推定されるうえに、右藤田鑑定書に被害者ヒサの胃中にみかんがある旨の記載があり、これにNo.25の現場写真(二冊三〇三丁裏)及び証第一九八号中15・16写真の右ヒサの枕元にみかんの食べ残りと認められるものがあることを合わせ考察すると、同女はさらに就寝に際しみかんを間食したものと認められる。これらを香川卓二・上野正吉の前記各鑑定結果に照らせば、被害者両名は二四日午後九時前後から同日午後一一時前後の間に死亡したものと推定され、この推定時刻は前記香川鑑定の死体の変化現象に基く死亡推定時刻と共に(以上の説示によって明らかなように、それらはいずれも大まかなものである。)前記三(二)(10)に認定の本件犯行時刻と矛盾するものとはいえない。なお鑑定人藤田千里の鑑定書の記載(二冊二七一丁)中右推定に反する部分は、前記香川・上野各鑑定書の記載(四五冊一七四六二丁以下・一七五〇一丁。三三冊一二六六三丁裏以下・一二七一九丁以下。)のみならず鑑定人上野博の鑑定書中「鑑定人藤田千里の各鑑定書中惣兵衛・ヒサについての胃内容物の消化状況からする殺害時刻に関する記載は妥当でない。」旨等の記載(七三冊五九〇四丁以下・五九二二丁)に照らすも採用できない。

(7) 屋内犯行現場の特異な状況について。

以上に各認定のほか各現場写真及び記録によれば、屋内犯行現場には次のような特異な状況が認められる。すなわち、(イ)犯人は早川惣兵衛殺害現場の六畳寝室に灰を撒き、後記(ロ)の夫婦喧嘩の擬装と共に足跡を残さないよう配慮したものと認められる。(ロ)右隣室の鴨居に吊りさげた早川ヒサの眼下に柄などに血のついた出刃庖丁があり、同室と早川惣兵衛の死体の横たわる寝室との境付近に同様血のついた長斧があるうえ、右ヒサの手・足に血がついている一方(以上の各血はいずれも早川惣兵衛のものと同じB型。)、惣兵衛の手がかたわらの火鉢に突っ込まれている。これらの状況は夫婦喧嘩の末ヒサが惣兵衛を殺害して自殺したものとみせかけるための犯人の擬装工作であるとしか認められない。(ハ)犯後早川方家屋は全部内部から戸締りされ、吉岡の侵入・脱出口である西側床下等も概ね原状に復し比較的整然としていたものと認められる。(ニ)早川惣兵衛の枕元付近の畳のへりに電気コード様の紐がはさまれている状態からみて、犯人は箪笥以外畳をあげてまで金銭を物色したものと認められる。

以上によってみれば、犯人は屋内侵入後早川惣兵衛及びその妻ヒサを各殺害したのち、箪笥のみならず畳をあげてまで金銭を物色し、あまつさえ前記のような極めて手の込んだ擬装を施したうえ整然と戸締りをし、且つ前記(一)(3)(ロ)の爪先と踵とを縮めたような足跡を残す知恵(前記(イ)・(ロ)は(一)(3)(ロ)の足跡と同様、たとえそれらが結果的にみて失敗であるとしても、真相の発見を混乱させるためのものであると認められる。)と余力とを存したもので、これら一連の所為を一人の仕業と考えることには無理がある。しかも吉岡の犯行後の行動は早川方北裏勝手口付近に自己の指紋のついたサイダー瓶を放置し、折角撒いた灰の上に素足の足跡を残し、その犯行後間もない深夜眉・耳及び衣類等に血液を付着せしめたまま柳井の遊郭に登楼して遊興宿泊するなど(吉岡はそれがため検挙されるに至った。)、犯後の行動としては全く前後の思慮に欠けたものであったことが認められ、これらの点からしても前記(イ)・(ロ)・(ハ)・(ニ)の各所為及び(一)(3)(ロ)の足跡を残した所為は酩酊後のしかも平素何をしても粗雑で抜けている(二次控訴審三七回公判調書中証人木下六子供述三〇冊一一五四五丁以下)吉岡一人のものとは認めがたく、同人一人の知恵と力とを超えるなに人かの意図と力との協力によったものと考えられる。

(三) 被告人らの着衣等について。

二四日夜早川方侵入に際しての被告人らの着衣に関する吉岡供述は「阿藤は黒のオーバーを(一審五回公判調書中二冊四七二丁裏・二次控訴審一二回公判調書中一六冊五五九六丁以下・同審四二回公判調書中三三冊一二八五六丁・当審一二回公判六七冊三五八九丁裏以下。)、稲田はオーバーかジャンバーを(二次控訴審四二回公判調書中三三冊一二八五六丁裏・当審一二回公判六七冊三五九〇丁)、松崎はカーキ色のようなズボンに紺の旧海軍士官用のコート様のものを(二次控訴審一四回公判調書中一七冊六一〇三丁・同審四二回公判調書中三三冊一二八五六丁・当審一二回公判六七冊三五九〇丁)、久永は進駐軍の払いさげのカーキ色のような服を(二次控訴審一五回公判調書中一八冊六三七六丁裏・同審四二回公判調書中三三冊一二八五六丁裏)それぞれ着ていたと思う。久永ははっきり記憶しないがオーバを着ていなかったかとも思う(当審一二回公判六七冊三五九〇丁)。また阿藤は早川方屋内ではオーバーを着ていた記憶がない(当審一三回公判六八冊三七八二丁・二次控訴審一五回公判調書中一八冊六四〇〇丁裏以下)。松崎か久永のどちらかが革手袋を持っていた(一審五回公判調書中二冊四七二丁裏)。」というにあるところ、以上の各供述は次の証拠によって裏付けられる。すなわち証人木下六子の二次控訴審六四回公判での「二四日夜岩儀商店付近から自分と阿藤とが一緒に上田方へ帰る途中八海橋を渡った辺(八海橋西詰付近の意)に稲田が立っていたが、その際同人はオーバーを着ていた(四六冊一八一五一丁以下)。その後三〇分か一時間位して阿藤・稲田に次いで松崎・久永が上田方にきた際、松崎はスプリングコートを久永は進駐軍の服のようなものを着ていた(四六冊一八一五四丁裏以下・一八一五六丁)。その夜阿藤は上田方からでかける際オーバーをかけていた(四六冊一八二六六丁以下)。」旨の供述、証人上田節夫の「二四日夕刻阿藤らが自分方に部屋を借りにきた際、阿藤は仕事着に茶のようなオーバー(証第一五四号のオーバーは阿藤方から押収のもので夜間暗い場所では黒色に見える可能性がある。)を、稲田は仕事着に黒いようなオーバーを着ていた。」旨(裁判官の証人尋問調書中四九冊一九二五二丁以下)及び「二四日夜一一時か一二時頃人声で目がさめて、見たら阿藤らがきていた。その際稲田は前と同じ服装で黒のオーバーを着ており、阿藤はオーバーを肩にかけていた。」旨(裁判官の証人尋問調書中四九冊一九二六一丁以下)の各供述、証人松崎ツヤの一審四回公判での「松崎は二四日夜中野方へ行くとき旧海軍士官用のオーバーのようなものを着ていた。」旨の供述(二冊四三四丁裏)、証人久永サイ子の二次控訴審三一回・同審三八回・当審九回各公判を通じての「久永は二四日夜入浴後仕事着を先に警察に押収されたいわばよそ行き用の進駐軍の上衣・ズボンに着替えて中野方へでかけた。」旨(二七冊九九一八丁裏以下・三一冊一一八八七丁裏以下・六五冊二五八五丁裏以下)及び二次控訴審三八回公判での「二四日夜久永が中野方へ着て行った進駐軍の服はオーバーがなくとも暖かい。」旨(三一冊一一八八八丁裏)の各供述、並びに本件発覚後間もない一月三〇日司法警察員により人島の阿藤方からオーバー一着(証第一五四号。司法警察員の捜索差押調書三九冊一五三一五丁中三七号に該当。木下証人の供述四六冊一八二三四丁裏・一八二四一丁・三〇冊一一六一七丁裏によれば、阿藤が二五日徳山から帰った後と、二六日平生座へ行く途中と、二八日三田尻へ出発する前との、少なくも三回は人島の自宅に立ち寄っていること、しかも二六日・二八日は着替えのためであったことが認められる。)、松崎方からカーキ色ズボン一着及び革手袋一対(証第一九号及び第二九号。司法警察員の捜索差押調書三冊五〇一丁中四一号及び四四号に各該当。右手袋は証人松崎ツヤの二次控訴審三四回公判供述二八冊一〇六五八丁によれば同証人のものであるというが、男用のものと認められる。)、久永方から占領軍払いさげのカーキ色上衣及び同色ズボン各一着(証第一七一号及び第一八号。司法警察員の捜索差押調書三冊五〇五丁中四九号及び五〇号に各該当。)が各押収され、しかもこれらの品がそれぞれ前掲吉岡その他各供述の衣類に相当するものと認められることにより裏付けられるものとみるべきである。なお、証人木下六子の二次控訴審六四回公判での「二四日夜上田方で阿藤が『今日は寒いから浴衣を着込んでいた。襟垢がついたから洗う。』と言って浴衣を脱いだ。自分はこの人は服の下に着物を着ていておかしい人だと思った(四六冊一八一五九丁以下)。阿藤は洗ったズボンの下に一枚ズボンをはいていた。上衣は洗ったか、洗わなかったか判らない(四六冊一八一六三丁以下)。その夜阿藤は上田方からでかける際オーバーをかけていた。下は何かみていない。ズボンをはいていた(四六冊一八二六六丁以下)。岩井商店の処で赤い絹のようなマフラーの切端を巻いていた。上にオーバーをひっかけていた(四六冊一八二六七丁)、阿藤が洗濯をする前ズボンを脱いだ際浴衣の裾の方をズボンとズボンの間に突っ込んでいたのを見た(四六冊一八二五四丁以下・一八二六七丁以下)。証第二五号の浴衣はその際のものである(四六冊一八二七四丁以下)。」旨の供述、証人上田節夫の「二四日夕刻阿藤らが自分方に部屋を借りにきた際阿藤は仕事着に茶のようなオーバーを着ていた。」旨(裁判官の証人尋問調書中四九冊一九二五二丁以下)、「阿藤は二四日夜一一時か一二時頃自分方にきていた際黄色のさめかかったようなナッパ服を着て肩にオーバーをかけていた。」旨(裁判官の証人尋問調書四九冊一九二六一丁以下)、「二五日夜阿藤は自分方で黄色のナッパ服を着ていた。」旨(二次控訴審三二回公判調書中二七冊一〇二〇三丁・一〇二一〇丁裏。それが二四日夜のことであったことは、これまで引用の同証人及び木下六子証人の各供述によって明らかなところである。)の各供述に証人木下六子の二次控訴審六四回・同審六五回・当審八回各公判を通じての供述によって認められる二四日夜阿藤は田布路木の中野末広方からの帰途岩井商店付近で木下六子と出会い同女と一緒に一旦上田方に帰ったのち直ちにそのままの服装で八海橋方面に向いでかけた事実を合わせ考察すれば、右外出に際しズボン二枚をはいて浴衣(証第二五号。司法警察員の昭和二六年一月三一日付領置調書三冊五一三丁中六五号に該当。)を着、その裾を右二枚のズボンの間に差し込み(浴衣の下の着衣は不明。)、それに黄色のあせた作業用の上衣を着て肩にオーバをかけていたものと認められる。そして、鑑定人三上芳雄の鑑定書の記載(七五冊六四六七丁以下)によれば、阿藤の作業用上衣(証第一五一号。司法警察員の昭和二六年一月三〇日付捜索差押調書三八冊一五一三七丁中六一号に該当。当審一一回公判証人阿藤サカヱの供述((六六冊二九八七丁裏。右上衣は阿藤の仕事着であったという。))及び前記上田証人の供述に照らし、その形状・色彩等から前記の二四日夜同人が着用していた上衣と考えられる。)の右袖上外側面(後袖縫目中央外方)の上下約二〇糎、左右約一六糎の部分に人血の付着が認められ、また同人のズボン(証第二四号。司法警察員の昭和二六年一月三一日付領置調書三冊五一三丁中六四号に該当。)の右ポケット上方バンド部分に米粒大及び粟粒大の人血の付着が認められるが、同ズボンのその他の部分からは人血付着の証明を得られず、さらに同人のオーバー(証第一五四号)・浴衣(証第二五号。これには表裏とも各所に粟粒大ないし米粒大点状の人血の付着が認められるが、蚤・蚊・虱の刺吸痕とも推測されるもの。)、松崎のズボン(証第一九号)、久永の占領軍払いさげの上衣(証第一七一号)・ズボン(証第一八号)からも、本件認定の資料となるべき人血付着の証明を得られない。しかし、阿藤のオーバー(証第一五四号)は、前掲吉岡供述によれば早川方屋内では概ね着用されていなかったもので、これに被害者早川惣兵衛の血液が付着すべき機会のなかったことが窺われ、また阿藤のズボン(証第二四号)は、当審一一回公判証人阿藤サカヱの供述によれば阿藤の仕事着であったと認められることから、二四日夜同人着用のものとも考えられるが(そうであるとすれば前記認定((三(二)(8)))のとおり同夜同人の手により特にその裾部が洗濯されたものである。)、二次控訴審証人木下六子(同審六四回公判調書中四六冊一八二七五丁裏以下)及び同上田節夫(同審三二回公判調書中二七冊一〇二六二丁以下)の各供述によれば同夜阿藤が着用していた二枚のズボンのうち外側に着用のもの(右洗濯のズボン)とは断定することができないし。松崎のズボン(証第一九号)は二四日夜旧海軍士官用のオーバーかコートかの下に着用されていたうえに、久永の前記占領軍払いさげの上衣・ズボンと共に、仮にこれらが早川方侵入に際し着用されていたものであったとしても、同屋内における右被告人両名の行動に関する前記(二)冒頭掲記の吉岡供述からみて、被害者早川惣兵衛の血液が付着する機会は殆どなかったものとさえ認められる。のみならず、現場写真No.28・29(二冊三〇五丁・三〇五丁裏。その拡大写真は証第一九七号中33・34・35)にみられる打撃に際しての右被害者の血液飛散の方向(その方向は吉岡供述による阿藤・松崎の打撃の位置とは反対であり、稲田の打撃の位置からもそれている。なお吉岡供述によれば久永は右被害者に打撃を加えていない。)に徴し、且つ犯行後早川方脱出に際し手を洗ったのみで入浴も洗濯もしていなかった(吉岡の一審以来の供述その他によるも同人が検挙されるまでの間入浴・洗濯をした事実は認められない。)吉岡の身体及び着衣から検出された血液は、僅かジャンバー裏背部の一点を除き、その型を検査することもできない程少量のものであった事実(藤田千里の鑑定書二冊二七五丁以下)に照らせば、本件犯行現場で阿藤・稲田に付着し得べき前記被害者の血液もまたさほどのものではなく(一審四回公判証人稲田シナヨの供述二冊四三九丁以下によれば、同人が本件発覚後稲田の衣類を熱湯で洗濯したことが認められるが、それらは裁判所には提出されていない。)、殊に松崎・久永の衣類には、同人らがよほどの粗相をしない限り右血液付着の機会がなかったものと判断される。以上によってみれば、前記松崎・久永の衣類及び阿藤のズボン(証第二四号)、オーバー(証第一五四号)から本件認定の資料となるべき人血付着の証明を得られないとしても、被告人らの本件犯行を否定すべき根拠とはなし得ない(また仮に前記阿藤の作業用上衣(証第一五一号)は二四日夜同人が着用していたものでないとしても、本件全般の認定上に何等の影響をも及ぼすものではない。)。

五、いわゆる新証言の信用性等について。

記録によれば、木下六子・岩井武雄・上田節夫・樋口豊・山崎博は、いずれも警察以来二次控訴審前半まで一貫して被告人らのアリバイの主張に副う供述(山崎のみは警察に対しては上申書を提出。)を続けていたが、同審後半木下六子・山崎博・樋口豊が偽証罪の嫌疑で検察官の取調べを受けるに至り右五名は等しく従前の供述を変更して、却って被告人らのアリバイを否定する供述をするに至ったことが認められ、当審に証人として出廷した際にも、依然その供述を維持したのである。今ここに改めて本件発生前後の右証人らと被告人らとの関係等をみると、証人木下六子は阿藤と昭和二三年頃同じ三田尻の塩田で働いていたことから知り合いになって以来次第に親交を重ね、昭和二五年四月頃からは肉体関係をすら結ぶ仲となり、昭和二六年一月には同被告人からその住居地の平生町に遊びに来るよう呼び出しを受けたが、母の反対にあい、ついに無断家出して同月一九日平生町に阿藤を訪ね、そのまま滞在して同月二九日阿藤が本件で逮捕されるまで同被告人と同棲していたもの(木下六子警三冊五一四丁以下。証人木下六子供述一審三回公判調書中二冊三八六丁以下・二次控訴審三七回公判調書中三〇冊一一五四五丁以下。証人木下きくよ供述同審四六回公判調書中三五冊一三九八〇丁以下。証人吉岡供述二次控訴審一六回公判調書中一九冊六五三一丁以下。)、証人樋口豊は昭和二一年頃阿藤・久永らと共謀して窃盗の罪を犯し共に処罰されたことがあり、日頃仕事仲間として親しくつきあっていたもの(証人樋口豊供述一審三回公判調書中二冊三七一丁以下・二次控訴審五八回公判調書中四二冊一六三二七丁裏以下。)証人山崎博は昭和二一年五月熊毛地区警察署に巡査として採用され本件当生当時には同署大野駐在所に勤務し、その後城南駐在所・田布施駐在所勤務を経て昭和三五年退官したが(懲戒免職)、右本署勤務中久永の母サイ子から食事や洗濯などの面倒をみて貰ったことから同女と懇ろとなり、大野駐在所転勤後も引続き久永方に出入りするうち昭和二二年頃からは右サイ子との間に肉体関係を生じ、本件発生当夜も同女のもとに行っていたことが発覚して種々取り調べを受けるようになったため一時右関係を諦めかけたものの結局昭和二九年頃まで同女との関係を続け、久永及びその弟恵工とも親近の関係にあったもの(証人山崎博供述一審証人尋問調書中一冊一一八丁以下・二次控訴審二六回公判調書中二五冊八八一四丁以下・当審六回公判六三冊一九〇二丁以下。証人久永サイ子供述二次控訴審三一回公判調書中二七冊九九三九丁裏。)、証人岩井武雄は豫て中野末広の請負工事場で土方等として働いていたが、昭和二五年一二月平生町の熊川橋工事に際し被告人等を同工事に就労の斡旋をし一緒に働いて以来同人らと日頃仕事仲間としてつきあい、特に阿藤とは親しい間柄にあったもの(証人岩井武雄供述一審証人尋問調書中一冊一三五丁以下・二次控訴審一九回公判調書中二一冊七三六八丁以下・同審二一回公判調書中二二冊七六六三丁以下。証人中野末広供述二次控訴審二〇回公判調書中二一冊七四六九丁以下。)、証人上田節夫は昭和二五年頃から翌二六年一月末頃までの間上八海にある自宅に単身居住し荷馬車輓等の労働に従事していた関係で被告人等と相知り一緒に人夫として働いたこともあり、特に稲田とは同村の関係で親しい間柄にあったもの(証人上田節夫供述一審証人尋問調書中一冊一八二丁以下。阿藤供述二次控訴審五一回公判調書中三八冊一五〇六六丁)である。そのような関係にあったこれら証人が、公判廷の被告人らの目前において従前の供述(同証人らは警察・検察庁及び一審以来の各公判を通じ再三再四取り調べを受け、その間被告人らに有利な供述を敢てし、殊に木下六子・樋口豊の如きは公判廷ですら検察官に対し敵意を抱いていると感ぜしめるような供述態度であったことが記録上窺われる。)を飜し、同人らを本件強盗殺人の如き大罪に陥れるかもしれないような重大な証言を敢えてすることは、決して容易な業とはいえない。しかも、当審公判廷での供述態度等から同証人らはいずれも深刻な心境のうちにもできる限り過去の記憶を喚起して真実を供述しようと努力していたとの心証を得た。たとえば、証人木下六子の「一二年後の今日覚えているのは、女の身でありながら、この八海事件にかかり汚れた体になったことですから忘れるに忘れられません。」(当審八回公判六四冊二三五七丁裏以下)、「他人に整理されたり仕込まれたんですと覚えていないことが多いでしょう。」(同冊二三六一丁裏)、「偽証罪で勾留されていたときより、今の方がせんない。忘れて真面目に働いているのに、ぼくっとこういうふうにいわれるので。別に人を恨むという考えではない。阿藤自身は被告の身であるのだから、自分にふりかかった火は自分で拭うていただきたい。私に出てこい、ききたい言われる筋合はやめて欲しいのです。」(同冊二四五一丁裏以下)、「(阿藤がちゃんと認めさえすれば、何も自分が呼出しをうけることはないんだ。それを認めないで争っているから、自分が引張り出されるんだ、と大体そういうふうな考えかとの問に対し)はい。」(同冊二四五三丁)、証人樋口豊の「(阿藤の問に対し)本当が言えないのはこっちじゃない、そちらの方じゃないか。」、「(松崎の問に対し)出鱈目はそっちじゃないですか、よう考えたらどうかね。」(当審七回公判六四冊二二三三丁裏以下・二二四三丁)等の弁護人または被告人らの反対尋問に際しての供述の如きは、真実を吐露して余りあるものとすら受取れる。さらに、前記各偽証事件の確定記録竝びに二次控訴審後半の記録に基き且つは当審公判での供述に照らし、同証人らの供述経過を精査検討すれば、右証人らが各その従前の供述を被告人らの不利に変更した当審以前の供述も、取調官の不当な影響のもとにされたことを疑わしむべき形跡は毫も認められない。のみならず、同証人らは前記のような被告人らまたはその家族との関係から同情しあるいは後難を恐れて同人らの依頼のまま警察以来の取り調べに対し被告人らを庇い虚偽の供述を続けていたが、いずれも内心そのような供述によって裁判が歪曲されることに対する責任を痛感していたもので、木下六子・樋口豊・山崎博が偽証罪の嫌疑で検挙されたのちは一層良心の呵責と真実の重圧とに耐えかね徐々に自己の真の記憶を供述する心境に立ち至り、当審においても同様真相を語るに努力したものと解される。殊にこれまで本判決中に引用した右証人らの偽証の動機・心境についての各供述のほか、木下六子の同人が偽証罪で検挙された際の検察官の取り調べ状況及び当時の心境に関する「自分は真実さえ早く述べれば早く出られるものと信じていた。自分自身が今まで法廷にきて嘘の証言をしていたので、実際にあったことを自分の良心に誓って調書に取って頂ければ早く出られるとばかり思っていた。検事から検事の言うことと合えば罪にならないとかいうような説明は聞いていない。逮捕状を読んで自分が隠しているからこんなものが出ているのだと思い進んで出て行った。今まで嘘の証言をしているので、何時どうして口を切ろうかと思った。その口を切る折がなかった。留置場で亡父の夢を見た。やはり嘘でこの世を通すことはできないし、子供を教育することもできないと思い、真実を打ち明けた。自分がこういう大きな罪を背負っていることは、結局主人に対し嘘をついていることになり、そのため主人に対し思わしく愛情を向けることができなかったのである。自分は一審以来同様の証言をしないと阿藤らに迫害されると思っていた。原田弁護士を一応頼んだが、しかし真実さえ述べれば弁護士というものはいらないものだと思って断った。よくあの当時を考え記憶に出た限りを述べた。」旨(二次控訴審六五回公判調書中四七冊一八三五九丁裏以下)、「留置場で亡父の法事に当る日に夢枕に立った父から『嘘を言うような子供をこしらえた覚えはない。あたりまえのことを話せ。』と言われた。検事が調べの際夜は早く引き上げるように言われたけれども、自分は遅くまで調べられれば、それだけ一日でも早く調べが済んで出られるだろうと思って、自分の方から検事を『いいですよ、いいですよ。』と引き止めて夜九時過頃まで調べて貰った。自分の希望でそのようにして調べて貰ったのである。」旨(当審八回公判六四冊二四五八丁以下)の各供述及び樋口豊の「先に山崎検事に述べなかったことをこの法廷で述べるのは、検事に言いにくかったことと、そういうことを隠して何時もものすごく悩んでいたので、本当のことを言って、もうそういうことに足を踏むまい、もう真面目にやろうという気持からである。前には口から出そうで出なかった。前回の公判で共謀のことなどを話して肩の荷がおりた気持になって帰った。自分を恐ろしい人間であるとの噂を聞いても、今までのように苦しんだことはない。阿藤達も本当のことを言って早く帰ってこられたらよいと思う(二次控訴審六〇回公判調書中四三冊一六八三五丁裏以下)。徳山警察署で原田弁護士が面会にきた際自分は『どうしてものを言わんか。』と頭を突かれた。自分はその時分からこの事件から逃れたいと考えていた(同公判調書中四三冊一六九二六丁以下)。」旨の供述に徴すれば、以上の消息を窺うに十分である。もっとも、右証人らの供述中には多少のくい違いや矛盾もないではなく、また本件認定上からすればかなり重要な点に関し記憶を喪失している点もないではないが、それらは人間の記憶としてやむを得ないことであるのみならず、当審七回公判での樋口豊の「昭和三三年の新証言当時には何時も頭にあったが、それ以後は旅に出て働き事件関係の苦しさを忘れるよう努力してきた。」旨(六四冊二一七四丁以下・二一八五丁裏以下。)、当審八回公判での木下六子の「自分は日々忘れようと一生懸命になっている。」旨(六四冊二三七八丁)の各供述から推察される同証人らの心境からしても自ら理解されるところである(なお、記録を通じてみれば、樋口豊・上田節夫・岩井武雄の如きは従前の行きがかり上、一度に真実を語ることを避け、徐々にこれに接近する供述をしたことが認められる。)。以上によってみれば、これまで本判決中に引用の証人木下六子・同上田節夫・同山崎博・同岩井武雄・同樋口豊の警察以来の従前の供述と異なる被告人らに不利な新たな供述部分はいずれも信用に値するものといわなければならない(樋口豊の新証言中、「橋柳で久永がどす、松崎が刺身庖丁を持って行ったらどうか、との話もあった。」との点は、その場の状況から衒気の然らしめたものとも、また冗談半分の話であったとも((六四冊二一九〇丁裏五行目))解される。さらに右樋口の供述によっては同人が真に本件に参加する意思であったかどうかを断定し得ない。)。阿藤は当審二六回公判で「木下六子の新供述は、同人が二次控訴審の審理中、自分が他の女と文通し、その女と結婚するようになったことを耳にしたためのものである。」旨供述し阿藤の妹サカエもまた当審一一回公判で同様の供述をするが、以上の認定経過に照らせば、それらは全くの邪推に過ぎないことが明白である。しかも、夙に阿藤を見限り他に嫁して円満な家庭生活を送っている木下六子が今さら我が身を忘れ、ことさら阿藤を本件の如き大罪に陥れるための偽証をする程浅慮であるとは到底考えられない。その他の前記四証人の新証言も、右木下同様私怨その他不純な動機によるものとは認められない。

六、その他本件の証拠となるべき阿藤の言行について。

(一) 当審及び二次控訴審証人岩井武雄の供述(当審四回公判六一冊一三〇一丁以下・一三七四丁以下・当審証人尋問調書中八五冊九二二一丁裏以下・二次控訴審二一回公判調書中二二冊七八二二丁以下・七八六三丁以下。)によれば、阿藤は二五日徳山から帰る汽車中で岩井武雄に対し「夕べ八海で早川のぢいさん・ばあさんが殺された。それは晃め(吉岡の意)がやった。」と語った事実が認められる。そして阿藤が右のように岩井武雄に語ったのが、二五日であったことは同証人の当審四回公判での「自分は被告人らにあったのは二五日だけで、その日の後には徳山へ行っていない。」との供述(六一冊一二七八丁以下・一三〇七丁・一三三〇丁以下。)及び同公判に際しての阿藤と右岩井証人の問答からみて明らかである。

問、阿藤「自分は徳山で会ってそれ以後全然会ってませんね。」

答、岩井「そうです。」(以上六一冊一三八六丁)

問、阿藤「二五日汽車の中で一緒に帰りましたね。」

答、岩井「はい。」

問、阿藤「そのときにですね、早川さんの事件のことをですね言ったというふうに申しましたね。」

答、岩井「はい。」

問、阿藤「それは本当ですか。」

答、岩井「私はね、汽車の中で出会うたのが最後です。あんたは。」「私は汽車の中で本当に聞いたんです。」

問、阿藤「汽車の中では今晩から上田の一部屋を借りることになったと言ったのではないか。」

答、岩井「その家を借りるという話は田名でされた筈です。」(以上六一冊一三八九丁以下。なお、田名で阿藤が岩井と出会ったのは二四日までのことで、このことは記録上明白である。)。

してみれば、阿藤は本件犯人が吉岡であることが世間に知れわたる以前既にそのことを知っていたもので(記録によれば、二五日には本件犯人が吉岡であることを警察でも探知していなかったし、それが世間に知れわたったのは吉岡が逮捕された二六日午前四時一〇分以後のことである((九冊一丁))。)、この事実もまた本件認定上看過できない。もっとも、裁判官の右岩井証人に対する尋問調書中(四九冊一九二三一丁以下)には、その供述として、同証人が二七日頃かに徳山の帰り汽車中で阿藤に出会った旨の記載があるが、それが二五日のことであったことは以上の認定によって明らかであり、したがって同供述中の阿藤が語った言葉として「八海事件のため吉岡がとうとうとらまったらしいが」との点は、阿藤が本件犯人が吉岡であることを知っているための自己の推測を語ったものか、あるいは、右証人がことさらに日と共に阿藤の語った真の言葉を卒直に述べることをちゅうちょしたための表現であったとも解される。

(二) 二次控訴審五八回公判証人樋口豊の供述(同公判調書中四二冊一六四一六丁以下・一六三三三丁以下)によれば、阿藤は二五日前記(一)の徳山から帰りの汽車中で樋口豊を呼び寄せ小声で同人に対し「君は晩来なかったから仲間はずれなようなことをした。それだから、そういう話があったことなんかは全然口に出さんと黙っておってくれ。お前は一ぺんつかまったこともあるし、それ位言うていいことと、言うていけんことと判っているだろう。万事たのむ。」旨依頼した事実が認められ、このことは前記認定の橋柳旅館での共謀とその実行とを裏付けるものとみるべきである。

七、吉岡供述の変遷とその信用性とについて。

吉岡の警察以来の供述には幾変遷があるが、しかしそれも二次控訴審判決が強調するような極端なものではない。そこで、その供述経過をみると、先ず単独あるいは六人共犯の供述は昭和二六年一月二六日の逮捕後警察での第一回供述から同年二月一日の第五回供述までの僅か一週間内に過ぎず、同月二日の警察での第六回供述以後昭和二八年九月一八日一次控訴審判決までの二年有半の間は、細部の点に幾多供述の変化があってその全部を信用しがたいにしても、終始一貫被告人らとの五人共犯を供述しており、さらに二人共犯の主張は昭和二九年一月頃から翌三〇年三月末頃までの間であって、その後は当審に至るまで従前の五人共犯の供述を変更したことは全くない。殊に本件の認定資料たる一審以来の供述には概ね変化なく、且つその重要部分につき幾多裏付けのあることは前段までの認定によって明らかで、本件の真相を物語るものであることは二次上告審判決が説示するとおりである。なかんづく当審の審理(現場検証に際しての指示説明及び証人尋問を含む。)を通じての吉岡の態度から、同人は自己の真の記憶に基き真相を述るため最善の努力を尽したとの心証を強くした。わけても被告人らの反対尋問に対しては聊かの動揺をもきたさなかったことが認められたのである。そして、吉岡が地家英夫に支払うべき謝り酒代金の支払については、阿藤に真田約五〇反を手渡したことにより一応自己の責任を免れ得たものと信じ別段苦慮していたものでないことは前記二(一)の説示のとおりであり、しかもその支払につき右地家から請求を受けたのは二三日夕刻同人が阿藤方へ右支払の催促に行こうと考えたが、阿藤方の所在が判らなかったことから、取りあえず同被告人方を訪ねかたがた、八海の吉岡方に立寄った際の只一回だけで、その請求も別段強いものではなかったもので(二次控訴審一七回公判調書中一九冊六八四三丁裏以下・一八回公判調書中吉岡供述二〇冊七一一八丁以下・当審一二回公判六七冊三六〇三丁以下・当審一六回公判吉岡供述七〇冊四五二六丁以下・二次控訴審二一回公判調書中証人地家英夫供述二二冊七八八二丁以下・七八九五丁裏以下・七九一三丁以下・七九二三丁以下・同審二七回公判調書中同証人供述二五冊九〇七九丁以下。)、吉岡が地家から謝り酒代金の支払を強く迫られた事実は証拠上全く見当らない。してみれば、吉岡が二六日の逮捕当日司法警察員に対してした「地家から謝り酒代金の請求を強く迫られて窮余本件を犯すに至った」旨の供述(吉岡警一回三冊五四〇丁以下)は、その後の取り調べあるいは公判審理などに際しての同旨の供述と共に真実に反し、本件を自己の単独犯行と偽るための虚構のものであったと認めざるを得ない(記録上認められる吉岡が二二日柳井遊郭で借金したのも、その供述のとおり、前記認定の被告人らとの本件謀議を決行すれば金がはいると考えたからであると認められる。)。また、いわゆる金山・金村・林上申書により二人共犯の自供が仮空(但し林は死亡)人を相手とした全く信用できないものであったことは記録上明白である。今にして思えば、吉岡の単独・六人共犯・二人共犯の自供は、吉岡供述のとおり阿藤から教えられたいわゆる「チャランポラン」の供述ないしは拘置所内での被告人らからの執ような働きかけによる動揺の結果であったとみるのほかはない。吉岡が拘置所内等において被告人らから同人らに不利な供述を撤回するよう強要された事実については従前も縷々供述しているところであるが、当審においてもこのことに関し次のように供述する。すなわち、「一次控訴審判決後のことであるが、自分が房から出て書信を書いていた際、阿藤が、風呂からの帰りに通りがかり自分を見付けて側にやってきて、お前つまらんじゃないか、俺の言うことをきけば悪いようにせんのに、今からでも遅くないから事件をひっくり返せ、一人でやったといってもつまらんから死んだ平生の林と二人でやったと言え、弁護士さんによく話しておくから、と言った。それで、自分は阿藤らが事件に関係ない旨の上申書を出すようになった。昭和二八年三月頃かあるいは二七年かもしれないが、とにかく一次控訴審の実地検証の頃広島拘置所内で、書信で廊下に出ているとき、風呂で出会ったとき、運動に出たときなど何回も被告人らに出会い、同人らが無罪になるように言ってくれと頼まれたことがある。昭和二六年の岩国少年刑務所時代にも、稲田が自分の房の前にきて、晃知らんと言えよ、と言ったことがあり、また阿藤が裏の方から大声で知らんと言えよ、と同様のことを言ったことがある。そのように余り話をするので、そのことが職員に知れ別棟に自分が移された。広島拘置所で阿藤と風呂で出会った際、同人が自分に、警察で拷問かけられたように言えよ、お前がええがいに言えばこの事件はひっくり返る、証拠になるものは三好が作ったように言うておけ、俺が出たらしちゃるからのう、今外で運動しているから、という内容のことを言ったこともある。また、広島拘置所内で運動に出た際、松崎が房内から吉岡ちょっとこいといって呼んだが、今役人がおるから行けぬと言ったところ、小便をするまねをしてこいと言うので、丁度そこにあった汲み取りの蓋を取って小便をする格好だけをした。そのとき松崎が、この前の実地検証のとき山崎巡査が時間のことをうまく言うてくれたけえ、お前がうまい具合に言うてくれりゃいいから、それで返るからのう、あとはうまい具合にしてやるからのう、と頼まれた。なお、右のことは伏見裁判長のときのことで、その際松崎は、この前の実地検証のとき山崎に久永のおばさんが頼んでええがいに直してくれておるから、今度はお前が云々と内容は多少違うかもしれないが、そういう意味のことを言ったのである。松崎には一審判決後広島拘置所内の風呂でも会ったことがある。その際松崎が自分に、この前面会にきたときお袋に金をやらそうと思ったが、俺らが金をやるとお前に言わせるためと判るからやらせなかったが、いるものがあったら言えのう、と言った。また一審の検証のため柳井警察の留置場にいた際のことであるが、朝洗面のときに稲田に出会った。そのとき稲田が自分に、晃精を落すなよ、俺はああいうふうなことは言うたことはないんじゃが、阿藤がああいうことを言うておるから、まあ元気出せや、悪う思うな、お前の気持判るからのう、と言った。同署から帰ったのち日は忘れたが、阿藤が自分の房の裏にきて、今度の公判からでもええから頼むけえ返してくれ、と言ったことがあり、また医務室が新築のため風呂場の側に移っていた際自分がそこへ行ったことがあるが、その際阿藤が風呂の方から呼ぶので窓のところへ行くと、頼むその位のことはする、と言った。久永も広島拘置所の浴場で出会った際自分に対し、今度はお前頼むぞ、弟に差入をさせておくからのう、と言ったことがある。」(当審一二回公判六七冊三六六一丁裏以下。同一六回公判七〇冊四五六一丁以下四六一二丁以下・四六三四丁以下・四六五三丁以下・四六七三丁以下。)というのである。これに対し阿藤・稲田・松崎は当審公判でいずれも広島拘置所あるいは岩国少年刑務所等で吉岡に会い本件に関する話合いをしたことを認めながら、その際の話は吉岡が今後は被告人らが無罪になるように本当のことをいうとのことであった旨供述して、吉岡の前記供述を否定する。しかしながら当審裁判長の「吉岡がそのように言うたのであれば、何故その後に提出した上申書中にそのことを記載しなかったのか、またその後公判に出廷した際裁判官に対しては勿論弁護人に対してもそのようなことを申し出なかったのか、真実に即して無罪になるためならば、たとえ拘置所内での吉岡の話であっても、このことを申し出るのに遠慮はいらない筈である。」旨の問に対しては、同被告人らは、その返答に窮し黙して答えないか、答えるも不得要領のものであった。これらに、松崎の供述によって認められる同人が広島拘置所内で吉岡を自分から呼び寄せ同人が一旦拒んだのに、なおも小便をするような格好でこいと強いて自己の房の前に呼び寄せ吉岡に話かけたことのある(阿藤当審二六回公判供述七八冊七二二七丁裏以下・稲田当審二七回公判供述七九冊七四二二丁以下・松崎当審二七回公判供述七九冊七五五三丁裏以下。)ほか、二次控訴審四八回公判証人鶴崎章(三七冊一四三七一丁以下)・同審四九回公判証人小野敏(三七冊一四五七七丁以下)・同審五〇回公判証人金玉炫(三八冊一四八〇二丁以下)の各供述及び西村文伍(一冊二四二丁以下)・小林正二郎(一冊二三九丁以下)・平岡勇(一冊二四四丁以下)の各検察官に対する供述調書の記載によって認められる被告人らが拘置所で阿藤を中心に直接あるいは掃夫等の人を介して密かに本件についての文通をしたり、吉岡に対し被告人らに有利に供述を変更するよう時には脅迫的にも強要していた事実等を合わせ考察すれば、前記吉岡供述は全般に亘り信用し得るところであり、且つ吉岡の当審一六回公判での「自分が一人でやったのではない。もし自分一人であったとすれば、今からでも言わなければ自分の先が困る。昔はテレンポレンを言えという約束になっていたので、自分だけはその約束を守ったわけである。一審時代には、それでテレンポレンがあったと思うが、控訴審になってからは、阿藤の真田の件と強奪した金高のことについてだけ(ことに金高のことは阿藤に口を封じられていた)本当のことを述べられない時代があった。殊に二次控訴審以後は細かい点で自分の記憶違いや勘違いから事実に副わない供述をしたことがあったかもしれないが、敢えて嘘の供述をしようとの考えはなかった。当審でも同様自分の記憶にある限りは全て正直に言ったつもりである。本当のことを言ったからといって、自分に都合のよいことはなく、そのためにいろんなことをいわれて却って都合が悪い位である。自分は早く仮釈になりたいために五人共犯を維持しているのではない。」旨の供述(七〇冊四五七一丁裏以下)もまた当審の審理結果に徴し十分理解し得るところである。

八、結び。

(一) 以上一ないし七(但し二(四)の点を除く。)の各認定に一審以来の吉岡の公判供述(但し一次控訴審昭和二八年七月二二日公判調書記載の吉岡供述を除く。)を合わせてみれば、一九日平生町橋柳旅館で吉岡と被告人らとの間に八海の早川惣兵衛方に侵入して金銭を奪取することの謀議が行われたが、その決行の日までは取り決められなかったこと、二〇日・二一日にも同旅館で吉岡を除き被告人らの間に同様の謀議が重ねられ、その際家人に発見された場合には、やむを得ないから強盗若しくはそれ以上の行動に出るとの打ち合わせまでされたこと。吉岡が阿藤の言に従い一九日後右旅館に出向かなかったため二二日同町三木停留所でバスを待ち合わせ中、たまたま出会った阿藤から先にした謀議の決行を強く促され、次いで翌二三日夜阿藤に呼び出されて人島の阿藤方近くの土手付近で同被告人から二四日夜一〇時か一一時頃まで懐中電燈と手袋とを用意して出てくるよう連絡を受けたこと、被告人ら及び吉岡は二四日夜一〇時一七分前後に八海橋上で相会して(吉岡は取りあえず何時も寄り集まる人島の阿藤方へ行ってみればよいと考えていたため、その方へ行きかけていた際最初阿藤・久永に出会ったもの。)八海の早川惣兵衛方に向い途中人目を避けて二手に分れ、阿藤・吉岡はそのまま右早川方前に通ずる道を行き、他の被告人らは田布施川岸を通り相前後して早川方に到着し、阿藤・吉岡は直ちに侵入口をさがし回り、同夜一〇時三〇分過頃先ず阿藤・稲田がバール(証第三〇号)でこじあけた早川方東側南面廊下の中連窓から、吉岡が西裏床下からそれぞれ同屋内に侵入したこと、その後吉岡が阿藤から受け取った長斧(証第四号)を持ち台所を経て奥寝室に接近し襖をあけて右寝室にはいろうとした途端その襖の陰を枕にして寝ていた早川惣兵衛に誰何されて驚きためらったため、阿藤が「そんなことで詰まるか。」と吉岡から長斧を取り上げて寝室に踏み込み枕から頭を持ち上げて半ば起きかけの姿勢にあった惣兵衛の頭部目がけて殴りつけたこと、その際惣兵衛とは反対側に寝ていた惣兵衛の妻ヒサが「盗人」と叫んで布団から這い出して逃げ出そうとするところを吉岡が飛びついて取り押え左手で口を右手で喉を押えつけたこと、次に吉岡が阿藤に続いて惣兵衛を殴った稲田から前記長斧を受け取って惣兵衛を殴り、さらに松崎が同斧で惣兵衛を殴ったこと、その間阿藤・稲田が吉岡に替わりヒサを押えつけて首を締めつけたこと、因って惣兵衛が頭部割創による頭蓋骨々折・大脳挫滅・前頭蓋底骨々折により、ヒサが前頸部搾扼による窒息のためそれぞれその場で死亡したこと、その後阿藤・吉岡・稲田が寝室内を物色し、吉岡が箪笥の引き出しから現金を取り出して阿藤に渡したこと、阿藤が右各殺害を強盗の仕業とみられないようにするため吉岡に右現金の一部をもとの引き出しに納めておくように言って戻した際吉岡がこれを自分のポケットに入れたこと、阿藤・吉岡がヒサの死体を引きづって寝室の北側の部屋に運び、右両名及び松崎が協力して同部屋の鴨居に黒紐(証第六号)でヒサの首を吊るそうとしたが、紐が切れたため、今度は久永がさがし出してきたロープ(証第七号)で全員協力して(但し吉岡は途中灰を撒くため稲田と替わった。)ヒサの首を右鴨居に吊ったこと、稲田に次いで吉岡が寝室にあった火鉢の灰を撒き散らしたこと、それまでに被告人らのうち誰かが惣兵衛の左手を右火鉢の灰の中に差し込み同人が灰を撒いたようみせかけてあったこと、阿藤がヒサの手足に松崎が紙につけて持ってきた惣兵衛の血を塗りつけたうえ、ヒサの手に一旦前記斧及び出刃庖丁(証第五号。その頭身部両側及び峯等にも血を塗った。)を握らせてから右斧を寝室の襖近くに、右出刃庖丁を吊りさげられているヒサの死体の前におき、夫婦喧嘩の果てヒサが惣兵衛を殺害して自殺したもののようにみせかけたこと、阿藤の命により最後に居残った吉岡が侵入後あけた表勝手口及び北裏勝手口を屋内から戸締りしたのち台所床下から西裏側床下を経て脱出し、先に早川方から脱出した被告人らに追いつき、全員田布施川岸を通って八海橋を渡り(途中橋上から川下に向い阿藤らが早川方で覆面その他に使用した同人方の手拭・雑巾等を投棄。)、同橋東詰から右折南進して田布施川岸の土手に至り、同所で早川方から奪取した現金の一部を分配したことが認められる。なお、前記奪取現金の額は証拠上確定し得ないので、関係証拠上認定可能な最低限度においてこれを一八、〇〇〇円余と認定する(右土手上で稲田・松崎・久永に対し阿藤が渡した最低合計六、〇〇〇円、吉岡が渡した合計三、〇〇〇円、その際阿藤が別に所持していたと認むべき最低三、〇〇〇円((二次控訴審二回公判調書中一二冊三六二三丁裏以下・三六二九丁裏以下・同審九回公判調書中一五冊四九二一丁以下・四九四六丁以下・当審一二回公判六七冊三五六九丁裏以下の各吉岡供述))。二五日午前零時過吉岡が平生町中本自動車店に支払った四五〇円((中本イチ検一冊二〇八丁裏以下))。二五日から二六日吉岡が逮捕されるまでの間同人が柳井の寿楼で支払った合計約五、二〇〇円((八木初江検一冊二一〇丁裏以下))。吉岡が逮捕当時に所持の一、〇〇〇円((二次控訴審二回公判調書中一二冊三六一五丁以下・同審九回公判調書中一五冊四九一八丁裏以下・当審一二回公判六七冊三六三六丁裏の各吉岡供述・司法警察員の領置調書一冊二四七丁))。以上、合計約一八六五〇円)。さらに先に認定を留保した前記二の(四)の吉岡供述の事実に関しては、同人の供述以外これを認むべき資料はないが、以上の認定経過に照せば右の事実もまた肯認しないわけにはゆかない。(犯行現場では、一部その際の話し合いのとおり実行されていないよう認められるが、現実の状況の如何により当初の計画どおり事が取り運ばれないことは通常一般によくあり得ることで、特にこれを異とするに足りない。また当時八海方面は田舎のことで薪割り用の斧や細引様のものは通常いずれの家庭にもあるものと予想し得たことが認められる((二次控訴審二三回公判調書中二三冊八一四八丁裏以下・八一九二丁裏証人清力用蔵供述・当審三三回公判八六冊九八九九丁以下稲田供述・二次控訴審二回公判調書中一二冊三七二七丁・同審一一回公判調書中一六冊五三九一丁裏の各吉岡供述。))。)。

(二) 右(一)の認定は一ないし七の全判断を前提とするものであるが、これら本件の各問題点についての判断中当裁判所が最も重視するものは、(1)一九日夜平生町橋柳旅館で吉岡と被告人らとの間に本件の謀議が行われ、且つ二二日昼過頃吉岡が同町三木停留所付近で阿藤から本件の犯行を強く促された事実が認められること(二の(一)の判断)、(2)(イ)被告人らのアリバイは完全に否定されるものと認められること(三の(二)の判断)、なかんづく、二四日夜一〇時過阿藤が田布呂木の中野末広方から八海の上田方に帰えるや直ちに外出して八海橋方面に向い、しかもその頃稲田が同橋西詰付近で阿藤の右中野方からの帰りを待ち合わせていた状況が認められるのみならず、同夜一一時過阿藤が右外出先から上田方に帰った際、同人方に稲田・松崎・久永も相前後して立ち寄った事実が認められ、(ロ)且つ阿藤が右外出先から上田方に立ち帰るまでの間を被告人らが吉岡と共に行動していたものと仮定した場合の各推定時刻が結局において吉岡その他の関係供述の時刻に符合するものと認められること、(3)本件犯行現場である早川方屋内鴨居及びヒサの足もと付近に残存する黒紐の状況から同現場には少なくも三人の者が居合わせたものと認められること(四の(二)の(5)の黒紐の使用に関する判断)、(4)二五日阿藤が徳山から帰る汽車中で仕事仲間の岩井武雄に対し本件の発生を語り且つその犯人が吉岡であると漏らし、また同列車中で同じ仕事仲間で二の(二)に認定の二〇日・二一日にも前記橋柳旅館で被告人らの間に本件の謀議が重ねられた際同席したと認められる樋口豊に対し半ば脅迫的に被告人らが本件に関係あることを他に漏らさないよう固く口止めした事実が認められること(六の判断)の各点である。しかも、右のうち(1)は概ね吉岡のこれに関する直接の供述を除いての判断であり、また(2)の(イ)・(3)・(4)の各判断はいずれも吉岡供述とは全く無関係になされたものである。仮に当裁判所がしたその余の判断をしばらく措き、右に列記の(1)・(2)・(3)・(4)の各事実のみをもってしても(さらに仮に(2)の(ロ)を除いても。)、本件を吉岡と被告人らとの共同犯行であるとする一審以来の吉岡の公判供述には十分裏付けがあるものというべきで、被告人らが本件の共同正犯者であるとの心証は動かない。したがって、本件を吉岡の単独犯行であるとする弁護人らの各論旨は到底採用できない(弁護人ら指摘の吉岡及びいわゆる新証言者らの供述内容の変化やくい違い等は、各その供述全般を通じ且つこれらを相互に比較検討すれば、記憶違いや思い違いあるいは言い違いによるもの等として理解されるところであり、また樋口・上田・岩井の各証人らがいわゆる新証言にはいった段階でも一気に真実を語らなかったものと認められることは前説示のとおりである。それにつけても既に説示の被告人らの供述の変化やくい違いこそアリバイを強張し無実を叫ぶ者の供述として全く理解できない。まことに、被告人らの供述こそ当審に至るまで、吉岡のいう約束の「チャランパラン」か「テレンポレン」そのものである。因みに前堀弁護人はその論旨中において「特別の事情が認められない限り、実行行為と共同謀議との分離は観念的にしか可能であるに過ぎない。」とさえいうのである。)。もっとも、一審判決が本件認定上重要な八海橋集合時刻を二四日午後一〇時四〇分頃とした点は事実の認定を誤ったものであるが、判決理由中の事実認定は、認定すべき事実とこれに対する証拠説明とが一体としてなされるもので、この両者は不可分の関係にあるから、先にした理由不備による一審判決の破棄は当然事実点にも及ぶものと解される。それゆえ右誤認の点では原判決を破棄しない。

(三) 以上前段までの各説示により、当裁判所の判断と相容れない弁護人らの主張は当然排斥されたものと了解されると考えるが、なお補充的に次のとおり判断する。

(1) 証人木下六子の新供述のとおり阿藤及び木下六子が二四日深夜上田方で食事をしたものであれば、その後間もない翌二五日午前五時頃に稲田が持参した弁当まで食べなければならない程空腹であった筈はなく、この一事をもってしても、木下証人の新証言なるものがいかに矛盾に満ちたでたらめなものであるかが判る、との主張(佐々木静子弁護人)について。

証人木下六子の供述によれば、同人は一九日平生町に阿藤を訪ねてきて以来二四日夜八海の上田方へ間借りするまで十分な食事をすることなく、何時も空腹を抱えていたもので、殊に二四日には人島の阿藤方で朝食をとったほかは、同夜一〇時過平生町岩井商店付近から阿藤と一緒に八海の上田方へ赴く途中只一個のパンを阿藤と分けあって食べたに過ぎないことが認められる(二次控訴審公判調書中三〇冊一一五六九丁以下・同審六四回公判調書中四六冊一八一三四丁裏以下・一八一四一丁裏・一八一四三丁・一八一五〇丁以下・当審八回公判六四冊二二七八丁二二八九丁裏・二三〇六丁。)。阿藤もまた右パン以外には同夜夕食をしたことを認むべき証拠がない(証拠上、阿藤も当時十分な食生活の状態であったとは認められない。)。そのような状態にあった阿藤・木下六子が二四日深夜食事をしたうえに(当裁判所の前記認定によれば、その時刻は凡そ二四日午後一二時前後から翌二五日午前零時三〇分位までの間で、一升めしを五人でさしておかずもなく食事したものである。)、二五日午前五時頃稲田が持参した弁当を二人で飲べたとしても何等奇異とするに足りない(阿藤は汽車で徳山へでかけるため朝食をとる必要もあった。)。弁護人の右主張の如きはひもじい折の人の心情を理解しないものというべきである。

(2) 証人木下六子は二次控訴審で「八海橋上で稲田が阿藤に自転車を渡したのを見た。」とこと細かに供述しながら、当審では「久永の家まで稲田が自転車を持ってきて、そこで阿藤がその自転車を受取った」よう供述した、との主張(佐々木静子弁護人)について。

証人木下六子は二次控訴審六四回・六五回・当審八回各公判を通じ一貫して「阿藤は稲田が上田方から借りてきた自転車を久永方前付近で受取った。」旨供述しており(四六冊一八一四一丁・四七冊一八五二〇丁以下・六四冊二二八八丁裏以下・二三八三丁以下。もっとも自転車が途中で変ったことは前説示のとおりである。)、同証人の供述中に弁護人が主張するような供述はどこにも見当らない。もっとも証人上田節夫は、自分の貸した自転車を稲田が八海橋上で阿藤に渡したよう供述しているが、その供述による前後の状況からして、右上田は稲田が自転車を持って八海橋に行った姿を見て、同人が当然同橋上で借り主の阿藤にその自転車を渡したと即断したものとも考えられ、同証人の右供述を採用できないことは前に判示したとおりである。

(3) 証人木下六子は、稲田が久永方まで自転車を持ってきたというが、その際久永方に集まった者の中で誰もそれを見た者もなければ、その際久永方に稲田がきたことを述べている者もない、との主張(青木弁護人)について。

証人木下六子の供述は、前記のように「久永方前付近まで稲田が自転車を持ってきた。」というのであって、久永方にいた者がその際の状況を目撃したというのではない。また岩井武雄がその際既に久永方にきていたかどうかは明らかでなく、その他に久永方またはその付近にいた者は、稲田・木下を除いては阿藤・松崎・久永・久永の家族以外には証拠上認められない。被告人らはもとより、仮に久永の家族がそのことを知っていたとしても、そのことを供述する筈のなかったものであることは本件の認定経過に徴し既に明らかというべきである。

(4) 二四日夜吉岡を除き本件犯行現場に近い上田方で被告人らが飯をたいて食べる筈がない、との主張(佐々静子弁護人)について。

阿藤がその際空腹であったことは前認定のとおりである。また当審一〇回公判証人松崎ツヤの供述によれば松崎も同夜夕食していなかったことが窺われる。仮に松崎・稲田が夕食後であったとしても、同夜の同被告人らの行動からみて、深夜一二時前後ともなれば空腹でなかったとはいえない。母が食堂を経営していた久永のみは前判示のように食事時分には既に上田方から立去っていたものと認められる。殊に先の認定によれば、その際の食事は阿藤が言い出したものであって、その飯のたき上りに際しその場に居合わせた他の被告人らが阿藤と共に食事をしたとしても何等不可解ではない。たとえその場所が本件犯行現場に近い上田方であり、また吉岡がいなかったとしても、何等不自然とも考えられない。

(5) 阿藤が交際深からぬ上田の如きものに二四日に同人方に移ったのを二五日に移ったことにしてくれと頼む筈がない。上田が人に漏らせば水泡に帰する。阿藤の注意深い計画は却ってぬきさしならなくなる、との主張(佐々木静子弁護人)について。

阿藤と上田との関係は前に説示のとおりである。その交際の程度が仮に所論のように深いものでなかったとしても、上田は阿藤から「いろんなことをいうと承知せんぞ。」と威嚇され、また二五日から阿藤に部屋を貸したようにいう方が自分としても疑われる率がすくなくなると考えたことから(当審五回公判上田証人供述)、新供述以前は警察以来一貫して阿藤の要求に応えてきたことが記録上明白である。これもまた弁護人のいわゆる「注意探い」阿藤の配慮の結果であったともいえる。

(6) 証人木下六子の供述によれば、上田方に移転の際阿藤と木下六子とは手ぶらで着替えを持参しなかったものであるから、若し同証人がいうように二四日深夜洗濯をしたとすれば、阿藤は翌朝仕事へ出ることすらできない、との主張及び木下六子が右洗濯物の汚れが落ちたかどうか、またその後片付けがどうなったかについて一向に無頓着であったことは、阿藤と二人だけの生活を初めたばかりのういういしい人妻の心情として余りにも不自然である、との主張(佐々木静子弁護人)について。

証人木下六子の二次控訴審六四回公判供述によれば、阿藤は二五日朝上田方からでかける際少なくともズボンとオーバーを着用していたというのであって、それ以外何も着用していなかったというのではない。同証人は当時特にそのことを注意してみたわけではなかったため現に記憶にないというに過ぎない。しかも、同証人及び当審五回公判証人上田節夫の各供述によれば、二四日夜久永か松崎かがトランクと風呂敷包を上田方に持参したことが認められる(四六冊一八一九三丁裏以下・六三冊一七二七丁以下・一八八七丁以下。)もっとも、それらの中に何がはいっていたかは右証人らにも判らなかったもので、これに着替え用の衣類がはいっていたと認定することはできないが、用心深くズボンを二枚もはいていた程の阿藤であってみれば、木下証人供述のとおり二四日夜洗濯したとしても、翌朝土方仕事にでかけるに困らない程度の下着を着用していたか、別に用意していたとしても不思議ではない。オーバー・ズボン以外に着る物が何もなかったというのではなく、それが今では証拠上判らないというだけのことである。さらに、木下六子としては、阿藤が自分の申し出た手助けをことさらに退けて自ら洗濯したものであってみれば、洗濯物の汚れが落ちたかどうかについて、さほど関心がなかったとしても取り立てていう程のこともない。また同女がその後片づけについて現に記憶がないとしても、右洗濯の事実を否定すべき根拠とはなし得ない。殊に右両名が同棲するに至った経緯は前認定のとおり、決して健全なものであったとはいい得ないうえに、記録を通じて認められる両名の当時の生活状況からして、これら弁護人指摘のことがらはさほど不自然とも考えられない。右弁護人の主張の如きは正常な家庭生活においてさえ嫁に対する姑の小言に過ぎない。

(7) 証人山崎博は新供述によって二次控訴審二六回公判まで供述の時間関係を突然変更するに至ったが、その理由についての当審での同証人の供述は極めてあいまい且つ薄弱である。同証人は久永逮捕後間もなく上司から久永方に行った時間を執ように問いただされている。その時期に記憶がなかったものを八年一〇箇月もたってから検察官の取り調べを受けて突然に思い出し、さらに事件当時から一二年以上も経過した当審において記憶の基準となる時間もなしに正確に記憶しているということはどのように考えても不合理である。実際にはそのように正確な記憶のある筈はない。また山崎博の昭和三三年一二月一五日付検察官に対する供述調書の記載によれば、二九日留置場にいれられていた久永が山崎に対し「あの晩一〇時半頃家に帰った時あんたきておったというのに、署の方で取り上げてくれんから、あんたからそのことを話してくれ、一〇時半頃田布路木の方から帰って寝たので、あの方へは絶対に行っておらん。」と訴えている。このように最初から主張されている久永及びその家族のアリバイについては特に考慮さるべきである、との主張(青木弁護人)について。

証人山崎博が本件発生当時本件の捜査に当った熊毛地区署の警察官でありながら、久永の母とは人目を忍ぶ特殊な関係にあったこと、従ってまた久永とも親近の間柄にあったことは前説示のとおりである。被告人らにつながりのあるものとして、本件の発生に驚がくし且つ困惑した者は、被告人らの家族に次いでは山崎を措いて他になかったであろうことは容易に推察されるところである。山崎の当時の立場からみれば、本件が同人に考えた打撃は、当時の状況に関する同人の記憶を終生失わしめない程異常のものであったと認められる。殊に二四日夜久永方に行った時間関係については、事件後間もなく上司に問いただされ、これについて上申書を提出した後も新証言をするまで、検察庁及び一審以来の各公判を通じ本件の記録に現れただけでも八回の取調べを受けており、その間幾回となく記憶をくり返す機会もあって、到底忘れ得なかったものと考えられるのである。しかし、山崎としてはたとえ久永の家族の依頼がなくとも、容易に事の真相を語り得なかったであろうことは、当時の同人の立場からして容易に理解されるところである。新供述の時刻は弁護人がいうように年月の経過により忘れたものを検察官の取り調べによって突然思い出すようなものとは本来その性質を異にするものである。なるほど、久永方へ行った時刻そのものについては、弁護人が指摘するように山崎は事件発生当時でもよく判らなかったのかも知れない。しかし、同人の新供述を検討すれば、同人は当夜久永方で一〇時のサイレンを聞いたことと、その前後の久永方での状況及び当夜久永方にでかけるまでの経過を具体的によく記憶しており、これらを基本として久永方を訪ねた時刻をも供述しているものとみられるのである(昭和三三年一二月一四日付山崎博検四九冊一九二七二丁以下・同月一五日付山崎博検四九冊一九二八九丁以下・当審六回公判六三冊一九〇二丁以下)。のみならず、山崎証人の新供述の時間が他の証拠によっても裏付けられるものであることは前説示のとおりである。さらに、久永が留置場で山崎に訴えたという田布呂木からの帰宅時間の信用できないこともまた前に詳細説示したとおりである。久永・稲田・松崎が検挙されたのは本件発生の日から四日目のことで、それまで被告人らの間には勿論、被告人ら家族との間にもそれら関係時刻等について十分な打ち合わせがなされたであろうことは、これまで引用の関係証拠により容易に窺われるのみならず、証人樋口豊の二次控訴審六〇回公判での供述(四三冊一六八〇二丁以下)によっても、そのことが明らかである。これによってみれば、本件では、最初からのアリバイの主張であるからとの理由で容易にこれを信用するわけにはゆかない。

(8) 証人樋口豊の新供述によれば、同人も本件の謀議に加わったというが、阿藤らが早川方に赴くに際し、樋口豊を待った証拠がない。また被告人らの警察での自白調書に謀議者の一人として樋口の名が出ていないことも同証人の供述を信用すべからざる所以であると、いう主張(前堀弁護人)、及び一九日夜樋口豊が橋柳旅館で阿藤を訪ねた際、阿藤が同人を嫌い居留守を使ったのに、樋口豊は勝手に阿藤らのいる二階に上ってきたのである。そんな男を強盗の一員に加えるということはあり得ない、との主張(正木弁護人)について。

吉岡は二次控訴審六三回公判で「自分は八海橋上で阿藤が、誰のことか判らんが『出てくるじゃろう』と言ったので稲田のことであると思った。」旨供述している(四六冊一八〇六〇丁裏)。しかし、阿藤が八海橋上で吉岡に出会う前稲田とは既に同橋西詰付近で出会っていることは前認定のとおりであり、阿藤が稲田について『出てくるじゃろう』という筈がない。してみれば、それは稲田以外の者を待って阿藤がそのように言ったことになるとしか考えられないことになる。吉岡の右供述のみで樋口を待ったものとは必ずしも断定し得ないが、証人樋口豊の二次控訴審五八回公判供述によれば、阿藤は「田布呂木から一〇時か九時半頃までには帰って阿藤の家に行き、一〇時かその頃になったら吉岡が橋のところにくるからそこへ行く。吉岡が早くくれば一一時半にならんでも行く。一一時半頃まで都合で待つ。」と言った、というのであって(四二冊一六四一一丁裏以下。右に一一時半というのはその前の時間関係から、一〇時半との記憶違いか聞き違いであると判断される。)、しかも同証人の同審六〇回公判での供述によれば、「都合で待つ。」というのは「樋口がきていない場合には、吉岡がくるまでの間だけ待つ」との意味である(四三冊一六九一三丁裏)。これに前認定の阿藤が田布呂木から一旦上田方に帰った時分には既に稲田が八海橋西詰付近に待ち合わせており(久永もまた阿藤より先に西詰付近にきていた様子が窺われる。)、且つ吉岡にも出会った直後松崎も駆けつけた状況から判断し、阿藤としては樋口を心待ちに待ったが、稲田・久永が自分より先に上田方付近まできていることではあるし、それに吉岡・松崎も既にきた以上最早樋口を待つまでもないと考えて早川方へ向ったと認められる節がないでもない。また一九日橋柳旅館で阿藤が居留守を使った相手は樋口と同行して阿藤を訪ねてきた麻郷の某女二人であって、その際樋口に対しても居留守を使ったことは証拠上全く見当らない(二次控訴審一七回公判調書中一九冊六七八五丁・当審一二回公判六七冊三七〇五丁以下・当審一三回公判六八冊三七四〇丁以下)。のみならず、阿藤及び他の被告人らと樋口との関係は前記五に説示のとおりであり、殊に阿藤・久永は昭和二一年頃右樋口と共同して窃盗罪を犯し共に処罰された仲間である。もっとも、一九日橋柳旅館で樋口が被告人らから本件に関する話を聞いたというのは、主として吉岡が同旅館から立ち去った後のことであり(二次控訴審五八回公判調書中四二冊一六三九八丁)樋口が吉岡がいる飲酒の席上で本件に関する話を聞いたかどうかは証拠上明らかでない(吉岡の当審一三回公判供述によれば、右席上で樋口に出会ったことも窺われるが、右の点に関する当審樋口証人の供述は前後の記憶を錯覚しているためのものとも判断される。一九日樋口が橋柳旅館に行ったのち吉岡が程なく同旅館を立ち去ったことは樋口証人の二次控訴審五八回公判以来の供述によっても明らかである。)。また同証人は本件の謀議の話を聞いていただけで、本件に加わる真意は当初からなかったとも認められる節があるので(同五八回公判調書中四二冊一六三一六丁六行目以下・一六三二九丁以下。その他同証人の新証言の全般を通じてみれば、そのような節が窺われる。)、当裁判所は樋口豊を本件の共犯者とは認定しなかったものである。さらに、右樋口は、阿藤・松崎・久永から同被告人らが逮捕される前、本件につき取り調べを受けるに至った際には被告人らのため有利な供述をするよう依頼されていたものであり(二次控訴審五八回公判調書中四二冊一六三三三丁以下・一六四一八丁以下・同審六〇回公判調書中四三冊一六〇八三丁以下の各樋口証人供述)、被告人らとしては、同人を一時裏切者と考えたとしても(右樋口証人供述によれば久永のみは樋口に対し「お前は行かないでよかった。」と心情を打ちあけている。)、木下六子・山崎博・岩井武雄・上田節夫と共に本件につき無罪判決を得るための支柱の一つであるから、警察での自白に際し右樋口の名前を出す筈はなかったものと考えられる。

(9) 被告人らは余分の金を所持していたと認むべき証拠がなく、特に阿藤は木下六子に十分な食事を与える金銭もなかったとの主張(前堀弁護人)及び奪取金の費消先が証明されていない、との主張(青木・佐々木各弁護人)について。

吉岡の一審以来の供述を通じ、阿藤は二四日夜早川方からの帰途他の者らに対し、その後の各自の行動につき深甚の注意を払うよう注意を与えたことが認められるのみならず、証人樋口豊の二次控訴審五八回公判での供述によれば、二一日橋柳旅館で阿藤は他の被告人らに対し「すぐ金を使うのでも、ぱっ、ぱっと使ったら一番早く目につくから、そういうことはせんようにおとなしく使おう。」等と注意を与えたことが認められる(四二冊一六四〇二丁裏以下)。してみれば、本件後阿藤は勿論、他の被告人らも金銭の費消については特段の注意を払ったものと考えられ、たとえ被告人らが二四日後余分の金を所持していたと認むべき証拠がなく、且つ奪取金の費消先につき証明を得られないとしても、毫も本件認定の妨げとはならない。また、阿藤が本件後も木下六子に対し十分な食事を与えていなかったと認められることは弁護人所論のとおりである。しかし、これまでの認定により明らかなように、本件捜査の目が自己に向けられることを慮り、岩井武雄・樋口豊・木下六子・上田節夫等に対する口止めやアリバイ証言の依頼等に汲汲としていた阿藤として、たとえ愛する木下六子のためとはいえ、これに満足させるだけの食事を与えるための金銭の出費さえ慎んだものと考えられる。反面、阿藤は二一日橋柳旅館を出てから二七日夜徳本組の賃金を受取るまでは一銭の所持金もなかった筈であるのに(二次控訴審三三回公判調書中二八冊一〇四六九丁裏以下証人木下六子供述。一審八回公判調書中阿藤供述四冊七三七丁以下。)、人島の自宅を出た二四日夜から二七日夜までの間不十分ながらも食生活を維持し(阿藤も木下六子も何も食べずには過ごせなかった筈である。)、且つ汽車で徳山の清水建設の工事現場に通い(昼の食事のほか、二六日・二七日は汽車賃をも要した筈)、あるいは二六日夜被告人ら及び上田・木下六子のほか麻郷の予てなじみの女性等を伴い平生町に「かもがわ楽団」の興行見物にでかける(このことは警察以来の被告人らの供述等によって認められるところであり、争いないところである。仮に全員が阿藤の顔で入場したとしても。)など、その生活状況は全く無一文の人間の振舞とは考えられない。これらは皆阿藤のいわゆる「おとなしく」金を使った証左とみるほかはない。もっとも、吉岡のみは犯行後柳井遊郭の寿楼に登楼して遊興しているが、それは阿藤・稲田の制止をきかなかった結果であったと認められる(二次控訴審三回公判調書中一三冊三九五二丁裏以下・当審一二回公判六七冊三五七〇丁以下。なお、稲田はその際吉岡に対し「お前どうしても行くなら柳井の兄に今日は昼からおったように兄貴にたのんでおけ。」と注告を与えたことが認められる。吉岡の一審以来の供述を通じ、吉岡とはそんな無思慮な男であったからこそ、阿藤は吉岡が検挙された場合のことを考え、特に同人に対し、「一人でやったといえ」とか「最初にとらまった者が一人で責任を負え」等と注意を与えたものともみられる。)。したがって、被告人らは吉岡の右柳井行の行動を必ずしも黙視したものではないというべく、この点に関する他の弁護人らの所論も採用できない。

(10) 本件犯行は、早川夫妻が厚着のまま殺害されている点からみて、同人らの就寝前の犯行である、との主張(前堀弁護人)について。

当審証人中山ツマの供述によれば、早川夫妻は冬分寒い折には、弁護人指摘のような着表のまま布団にもぐり込むこともあったことが認められ(当審一九回公判七二冊五四四八丁裏以下・当審二〇回公判七三冊五五九〇丁以下)、また二四日夜はかなり寒気がきびしかったことも前記四(一)(3)(ニ)の認定に際し引用の各供述により認められるところである。したがって、右着衣の点から、本件が早川夫妻の就寝前に犯されたものと判断することはできない。

(11) 吉岡は阿藤が鴨居及びロープに血液を塗りつけたよう供述しているが、鑑定の結果それらに付着しているものは血液ではなく、礦物性油であることが判明した。これは吉岡の奸智虚偽自白の馬脚を現わしたものである、との主張(前堀・佐々木各弁護人)について。

吉岡供述の経過をみると、阿藤がロープに血液を塗りつけた旨供述したのは、司法警察員・検察官の各取調べ及び一審現場検証の段階であって(昭和二六年二月二日付吉岡警三冊六一六丁裏・同月三日付吉岡検三冊六二九丁裏・検察官検証調書二冊三三三丁・一審検証調書一冊三六丁。)、その後は一審八回公判以来当審に至るまで一貫して、阿藤がロープに血液を塗りつけた旨の供述はしていない(その供述によれば、手足につけたという。一審八回公判調書中四冊七七〇丁裏以下・二次控訴審三回公判調書中一三冊三九二八丁・同審六一回公判調書中四四冊一七一六九丁以下・同審六三回公判調書中四六冊一八〇五〇丁以下・当審一四回公判六八冊三八九八丁以下・当審検証調書六七冊三三三四丁以下。二次控訴審六三回公判での裁判長の「ずいぶん鴨居に血がついているらしいんだが、それは誰がどういう方法でつけたのか。」との問に対する吉岡の供述は結局「阿藤が手や足につけたことは記憶にあるが、その時についたのかも判らない。はっきり言えない。」というにあって、必ずしも「阿藤が鴨居に血をつけた」と断定する趣旨のものではない。)。以上の経過によれば、先にした司法警察員・検察官の各取り調べ及び一審現場検証に際しての一審八回公判以来の供述と異なる供述部分は、吉岡自身の真の記憶に基いて既に訂正されたものとみるべきであり・司法警察員・検察官の各取り調べ及び一審現場検証に際して供述中に一審八回公判以後の供述と異なるもののあることをもって、該供述全般の信用性を否定する根拠とはなし得ない。このことは、先に七の吉岡供述の信用性に関する判断の項に説示したところによっても理解さるべきである。しかも、ロープ(証第七号)に人血の付着が認められないことが判明したのは、当審三一回公判で鑑定人小林宏志の鑑定書(昭和三九年七月一六日付八一冊八二九五丁以下。)の取り調べを施行して以来のことであり、吉岡の前記一審八回公判以来の各供述は、すべて右鑑定結果が判明する以前のものであることからしても、それらの供述の信用性を否定するわけにはゆかない(右鑑定書には鴨居の東面に小斑状の人血(被害者惣兵衛と同じB型)の付着が認められる旨の記載がある。)。

因みに、記録によれば、(イ)吉岡は一次控訴審の分離公判で「床下から自分と久永とが侵入した。」旨、及び(ロ)一審検証現場で、先に阿藤と稲田とは阿藤がバールでこじあけた早川方東側南面の硝子戸の所から侵入したと指示説明しながら、次には裏口の戸をあけてある処から阿藤・稲田がはいってきたとも説明していることが認められる。吉岡は右(イ)につき二次控訴審三回公判(一三冊三八〇六丁裏以下)・同審一三回公判(一七冊五六五四丁裏以下)・同審五六回公判(四一冊一六一三五丁以下)を通じ「調書にそうなったのは自分の言い方が下手だからそうなったものである。それは阿藤や稲田から、お前は久永と裏からはいれと言われたので、それで自分は裏の方に回り床下からはいって行った、と述べたつもりであった。」、「それは伏見裁判長の問をよく判らずに答えたものであるから、訂正して欲しい。」旨供述し、また前記(ロ)の点につき当審一六回公判で「一審検証の際に、裏勝手口をあけた時そこから稲田・阿藤の二人がはいったと述べたことは忘れたが、それは自分の間違いと思う。その時は嘘を言ったと思う。」旨供述する(七〇冊四四七八丁以下)。(イ)及び(ロ)の後段と各同旨の供述は、その前にも後にも見当らない。そして、(イ)はその際の供述経過からみて、前記弁解のとおり裁判長の問をよく判らずに答えたと認められる節がないでもなく、(ロ)後段は同一機会の検証に際し、直ちに矛盾する供述を重ねている点からみて、ことさらに「テレンポレン」を言ったか、または言い違いのいずれかであると認められる。要するに各供述は前記ロープの血液付着に関する一審八回公判以前の供述と共に、それらが故意であると、言い違いであるとのいずれを問わず、吉岡供述の全般を通じてみれば、一時の誤りであったと認められるので、本件認定の妨げになるものとは考えない。

(12) 吉岡供述によれば、阿藤は松崎を見張りの役に決めた直後に殴ぐる方の順番にも加えたことになり、この矛盾からしても、吉岡供述は信用すべからざるものである旨の主張(青木弁護人)について。

吉岡のこの点に関する公判供述全般を通じてみれば、阿藤は各自の役割を定めたうえにも、本件に対する各自の責任を分け合う意味から、本件で最も兇悪な行為についての分担を命じ、一応その順番をも定めたものであることが窺われる。現に先に引用の吉岡供述によれば、同人が屋内侵入後北裏勝手口の戸をあけた際、松崎はその戸外に久永と共に立っていたままで、その時分には直ちに屋内に侵入せず阿藤の命令どおり見張りの役をつとめていた様子が窺われ、その後早川惣兵衛に対する打撃の段階に至り、屋内に侵入し吉岡に次いで阿藤の命令どおり右惣兵衛を長斧で殴ったことが認められ、松崎の右行為には何等の矛盾も認められない。阿藤もこのことについて別に矛盾を感ぜず所論の役割を命じたものと考えられる。

(13) 二五日徳山から帰りの満員の列車中で阿藤が岩井武雄に対し本件の発生とその犯人が吉岡であるなどと話す筈がない、との主張(青木弁護人)について。

そのことが二五日であったことは前認定のとおりである。その際の列車が満員であったと認むべき資料はない。たとえ満員列車(それには程度の差もある。)の中でも、他人に聞えるかどうかは話し方の如何による。その際の状況に関する証人岩井武雄の当審四回公判での供述によれば、列車内の乗客の混雑具合は「ガラッとはしてなかったが、すわるところがなかった。」(六一冊一三七五丁裏以下)「阿藤はそんな大きな声でいうたんではない。」(六一冊一三〇二丁・一三七六丁以下)というのである。

(14) 証人樋口豊の供述によれば、被告人らはアリバイを固めるためわざわざ田布呂木の中野末広方へ行く苦労までしているのに、何故口の軽い吉岡のために発覚防止とアリバイを作ることを一つも考えなかったか、との主張(原田弁護人)について。

前認定の阿藤と吉岡との交友関係、二五日徳山から帰りの列車中で阿藤が岩井武雄に対し本件の犯人が吉岡であると語ったこと、拘置所内で被告人らから吉岡に対し、警察での最初の自白のとおり、自己の単独犯行を主張し、五人共犯の自供を撤回するよう執ような策動がなされたこと、吉岡供述(二次控訴審二回公判調書中一二冊三六四六丁以下)によって認められる犯行後早川方を引き上げる道中、阿藤が「最初につかまった者が一人で責任を持て。」と言った際、他の被告人らが「もしもわしらがつかまったら責任を持つ。」とか「おれらもその位のことはする。それがやくざじゃけんのう。」と言って右阿藤の言葉に同調したことのほか、証人清力用蔵(一次控訴審尋問調書中六冊一一八九丁一〇行目以下)・同木下六子(二次控訴審三七回公判調書中三〇冊一一五五一丁以下)の各供述及び吉岡の一審以来の各公判供述を総合して考察すれば、吉岡は平素被告人ら特に阿藤からいわばお調子者として半ば馬鹿者扱いにされていたもので、前記阿藤の「最初につかまった者が一人で責任を持て。」との警察の取り調べを受けるに至った際の注意は、主として吉岡に向ってなされたものであり、被告人らは当初から本件で最初に逮捕されるのは吉岡であることを考え、その場合には同人に本件を自己の単独犯行であるよう自白させ、若し口の軽い吉岡の自供によって被告人ら自身も逮捕されるに至った場合には、警察で一時自白しても、これに真偽おり混ぜて後日撤回の伏線とし、窮極には吉岡の単独犯行に仕立てて本件についての刑責を免れ、あわよくば刑事補償を獲得することを計画したものとさえ窺えるのである。したがって、被告人らは前判示のように、一応吉岡に対し犯行後の行動を注意したが、それ以上吉岡のためのアリバイ等の工作までは考えなかったのは、むしろ当然というべきである。

(15) 庖丁を使用していないものとすれば、何故早川ヒサの手に血液を付着させて庖丁を握らせる必要があるのか。また夫婦喧嘩の偽装としては兇器が多過ぎる、との主張(正木弁護人)について。

犯人でない限りその真意は必ずしも明らかでないが、おそらく、早川ヒサは最初とっさの間に斧を持ち出したのはよいが、年老いた女手にはこれを振り回すにやや困難と考え、急きょ炊事場に駆けおりて庖丁を持ち出し兇行に及んだようみせかけるためででもあって、主張のようにヒサの手に血液を付着させ、庖丁を握らせたものと考えられる。

(16) 二五日阿藤・稲田・松崎が平生町大野理髪店に吉岡をさがしに行ったことは、吉岡が二四日夜犯行後柳井へ行ったことを知らなかったことを意味する、との主張(原田弁護人)について。

二次控訴審証人大野幸市の供述によれば、二五日夕刻頃右被告人らは吉岡をさがして平生町の大野理髪店を訪ねたもののようである(同審証人尋問調書中四五冊一七五六七丁以下)。件の謝り酒代金請求のためであったとの弁解の到底通用しないことは前認定により既に明らかなところである。前夜の事件で世間が騒がしくなっている折柄、まさか柳井の遊郭に居続けていようとも思わず、さて吉岡の奴は一体今時分何処でどうしておることやらと、同人をさがし回ったことは、むしろ被告人らの心理として必然であったとも考えられる。吉岡供述に従えば、あるいは阿藤の手もとに留保した前夜の強奪金の分配をも兼ねてのことであったかも知れない。

(17) 吉岡が新庄方から持参の焼酎を被告人らがラッパ飲みしたというのに、その容器である瓶に被告人らの指紋が残っていない、との主張(佐々木弁護人等)について。

吉岡供述によれば、被告人らは手袋をはめていたというのである。

(18) 本件が二次控訴審に係属中検察官が木下六子、山崎博・樋口豊を本件に関する偽証の嫌疑で逮捕して公訴を提起したことは憲法竝びに訴訟法に達反するものである等の旨及び公判開始後の検察官作成の供述調書は違法である旨の各主張(佐々木弁護人等)について。

本件が二次控訴審に係属中木下六子・山崎博・樋口豊が本件に関する偽証罪の嫌疑で逮捕され且つ公訴を提起されて、当時同人らがこれにつきいずれも有罪判決の宣告を受けたことは関係記録によって明らかである。刑事被告事件が公判に係属中、これに関し証人が偽証したとの嫌疑を抱き、捜査の結果犯罪の証明が十分であるとして公訴を提起することは、検察官の職責として何等妨げないところである。正当な裁判結果を得るためには、むしろそれを放置することこそ検察官の職責にもとるものというべきである。何が故に憲法に違反し、訴訟法に違反するというのであろうか。了解に苦しむところである。また検察官が右木下六子らの偽証事件を本件に悪用したものとも考えられない。したがって、先に検察官から提出された同偽証被告事件記録中の裁判官の証人尋問調書等は何等違法のものではなく(因みに、これら裁判官の証人尋問調書・検察官作成の供述調書については、いずれも二次控訴審で被告人及び弁護人らが証拠とすることに同意し、刑訴法三二六条書面として取扱われていることが記録上明白である。)、また右事件の証人または被告人であった木下六子・山崎博・樋口豊・岩井武雄・上田節夫が二次控訴審または当審の各公判で証人としてなした供述を無効とすべきいわれは聊かもない。さらに、検察官は公訴提起後といえども、公訴の維持に必要な限度において任意捜査をなし得ることについては、既に最高裁判所の判例(昭和三六年一一月二一日・刑集一五巻一〇号一七六四頁)の示すところでもある。公判開始後といえどもその理は同様である。本件につき提出された公判開始後の捜査に基く証拠書類はいずれも任意捜査に基くものであることが記録上明らかであり、何等違法のものとはいえない(司法警察員作成のものも、検察官の補助としてなされたもので同様違法のものではない。)。

(19) 吉岡が司法警察員に対してした本件が被告人らとの共同犯行であるとの自白は強制・誘導・拷問等によったものであるとの主張(霧生弁護人等)について。

記録を通じてみても、これを認むべき資料は全くない。もっとも、吉岡のいわゆる金山・林上申書(七冊一九一六丁以下・一三冊四三〇二丁以下)には右主張に副う記載もあるが、吉岡の二次控訴審二七回、当審一二回・一六回各公判を通じての供述によれば、右の記載は同人が広島拘置所内で阿藤に強要されてした虚構のものであることが認められる。なお、所論吉岡の司法警察員に対する供述調書は同人の検察官に対する供述調書と共に刑訴法三二八条書面として提出されたもので、本件の積極認定の資料としては採用しなかつたものである。

(20) なお、弁護人らは司法警察員富山義敬作成の昭和二六年一月二六日付・同月二七日付各捜査報告書、同人作成の警察手帳、昭和三三年一月一二日付土手タマヱの検察官に対する供述調書の各記載を援用して、証人木下六子・同上田節夫等のいわゆる新証言を否定するので、これらの点について検討する。

(イ) 右警察手帳の記載について。

(ⅰ) 記録四六冊一八二八一丁下段左側の「一〇時半上田帰る」との記載について、

富山義敬の検察官に対する供述調書の記載(四六冊一八三三四丁・一八三三七丁以下)に照らせば、右記載は麻郷の福屋シズヱ及び福屋ユキからの聞き込みであることが認められる。しかるに福屋シズヱの検察官に対する供述調書中(一冊二三一丁以下)には、その供述として「二四日稲田・上田が自分方にきて、兄治郎と話していたが、自分は七時半頃寝たので、上田らの帰った時間は判らない。」旨の記録がある。また福屋ユキの一審四回公判での証人としての供述(二冊四一七丁裏、上田が帰ったのは一〇時半頃であるという。)は、同人の司法警察員に対する供述調書及びその家族である福屋治郎の司法警察員及び検察官に対する各供述調書に記載の上田帰宅時刻と共に、稲田が当審二七回公判でした時間関係の供述からみても、いずれも二〇分ないし三〇分遅れのずれがあって、信用できないものであることは、前記三(二)(6)(ト)に判示するところである。したがって、福屋シズヱ・福屋ユキからの聞き込みによる前記警察手帳の記載は到底採用できない。

(ⅱ) 四六冊一八二八二丁上段の阿藤が二四日夜一一時頃人島の自宅に帰った旨及び同丁裏上段左側の阿藤と木下六子とが二五日から上田方に間借することになった旨の各記載について。

右各記載は富山義敬の検察官に対する供述調書(四六冊一八三三丁裏以下・一八三四四丁以下)によれば、木下六子あるいは阿藤の母小房及び妹サカヱからの聞き込みによるものであるところ、同人らは当時既に阿藤から、同被告人と木下六子とが二四日夜から上田方に間借りするようになったことを固く口止めされていたものであって(二次控訴審六五回公判調書中証人木下六子供述四七冊一八四二二丁以下)、前記警察手帳の各記載も到底採用できない。

(ロ) 昭和二六年一月二六日付捜査報告書の記載について。

富山義敬の検察官に対する供述調書の記載(四六冊一八三三七丁以下)によれば、四六冊一八二八一丁下段の警察手帳の記載と共に福屋ユキ及び福屋シズヱからの聞き込みと認められるが同人等は阿藤・木下六子が上田方に間借して転居した日を知る由がなく、しかも福屋ユキの検察官に対する供述調書中(四六冊一八三〇八丁以下)には「自分は二四日夜自分方に上田が来た際同人がすでに阿藤周平夫婦に家を貸したよう聞いた。」むねの記載があり、これによってみれば右報告書中の阿藤・木下六子が二五日夜から上田方に宿泊するようになった旨の記載もまた真実に即したものとはいえない。

(ハ) 昭和二六年一月二七日付捜査報告書の記載について。

富山義敬の検察官に対する供述調書の記載(四六冊一八三三七丁以下)に依れば、右報告書中の上田の二五日の行動に続く阿藤周平・木下六子が二五日夜から上田方に間借することになった旨の記載もまた、福屋ユキあるいは福屋シズヱからの聞き込みによるものであって、前記(ロ)の報告書の記載と同一理由により採用できない。((ハ)の報告書中に記載の上田が神所自転車店に代金四百円中二百円を支払ったことについては前説示のとおりである。)。

(ニ) 土手タマヱの検察官に対する昭和三三年一月一二日付供述調書の記載について。

右供述調書二七冊一〇三一一丁二行目記載の「その日の晩のこと」とあるのは同調書中一〇三一〇丁四行目記載の「二四日」を受けたものであり、右記載の「その日の晩」とは二四日晩のことを意味するものと断定せざるを得ない。したがって、同調書中その後の右供述者が上田方で洗濯物を掛けてある状況等を目撃したことに関する記載はすべて二五日午前中同供述者が体験した出来事に関するものといわなければならない。なお、右「その日の晩」との記載を「二五日の晩」と解することの誤りであることは、土手タマヱの昭和三一年五月一五日付司法警察員に対する供述調書の記載(四八冊一八七八六丁九行目から一二行迄の記載を中心として、その前後の記載を仔細にみれば、土手タマヱの供述として、同人は夜中の時ならぬ時に上田方で割木を割るような音を聞いた翌朝同人方の板の間に洗濯物が干してあって、そのしずくの跡が点々と残っているのをみたもので、しかも早川方の殺人事件を聞いたのもその日のことである旨の記載がある。)に照らし一層明白であるのみならず、前説示の証人木下六子・同上田節夫らの各供述に対する当裁判所の心証から、右昭和三三年一月一二日付供述調書中に記載の「その日の晩」に続く「事件のことを知りまして云々」の部分は、土手タマヱの記憶の混同によるか、言い違いのいずれかであるとみるのほかなく、該部分の供述記載をもって、証人木下六子・同上田節夫らの当公判での各公判での各供述その他の被告人らに不利ないわゆる新証言を否定すべき根拠となすを得ない(若し前記「その日の晩」との記載を「二五日の晩」と解し、それが真実であるとすれば、二五日夜時ならぬ時分に上田方で割木を割ったり、洗濯をした者があることになる。しかし、二十五日夜そのような事実のあったことを認むべ証拠はどこにも見当らないのみならず、阿藤が全く本件と関係ないものとすれば、上田方で何人であれ真冬のしかも真夜中に洗濯をするとは考えられない。二次控訴審三二回公判証人上田節夫の二六日朝洗濯物を見た旨の供述記載の誤りであることは、これまでの認定で既に明らかなところである。)。

その余の本件に関連ある前記各書面の記載も、これまでの認定に照らし、本件認定の妨げとなるものではない。

なお、弁護人らのその他の各主張も、これまでの認定に照らし到底採用できない(吉岡が焼酎を持参したことは、お調子者の同人のことであって、別に取り立てて論ずるほどのこともないと考えられる。)。

(四) 被告人らの司法警察員に対する供述調書に記載の自白の供述は、いずれも強制・拷問・欺罔等によるもので任意性がなく、原判決がこれらを証拠として引用したことは違法である、との論旨について。

被告人らのこの点に関する訴えには、たとえば、阿藤のように、同被告人はその上告趣意書中に「近間刑事が早川ヒサを鴨居に吊り下げたという血のついたロープを持ってきて私に見せ、『お前でも首を締めたらどんなか』と言って私の首を締めあげ、気が遠くなると水を飲ませるといったやり方であった。」との終生到底忘れ得ないと思われるような苛酷な拷問の事実を記載して、これを最高裁判所に提出しながら、当審公判では、そのような事実はなかったと供述するなど、一貫しないもののあることが認められ、これらの点からしても、既に被告人らの訴えには疑問があるのみならず、被告人らの取り調べにあたった司法警察職員の右取り調べ状況に関する当審竝びに一審以来の各供述に照らし検討するも、被告人らの警察でした自白が、弁護人及び被告人らが主張するような強制・拷問・欺罔等により任意性を欠くものとは認められない。しかし、被告人らの司法警察員に対する供述調書に記載の自白内容は、被告人らの間でくい違いがあるばかりでなく、同一被告人の供述でありながら、その都度異なるものもあって、証拠として援用するのに適切でないので、本件の認定資料とはしない。また、稲田・久永の検察官事務取扱検察事務官服部恒也に対する昭和二六年一月三〇日付弁解録取書の各記載については、右被告人らから従前前記のような主張がなされたことがなく、且つ右服部恒也(現外務事務官)を当審で証人として尋問した結果によれば、右各弁解録取書中に記載の同被告人らの供述には十分任意性を認め得るが、同各書面はいずれも刑訴法第三二八条の書面として提出されたものであるから、本件認定の資料には供しない。

第三当裁判所の事実認定とこれに対する証拠及び法律の適用。

(一) 事実。

被告人らは昭和二六年一月一九日夜山口県熊毛郡平生町橋柳旅館で飲食するに際し、吉岡晃を交えて同郡麻郷村大字麻郷字八海(現同郡田布施町大字麻郷字八海)の早川惣兵衛方に押し入って金銭を奪取することを話し合った。その後被告人らは右旅館等に寄り集まる毎に話が進展してついには右早川夫妻を殺害しても金銭を強奪することを共謀するに至り、同月二四日夜一〇時過ぎ右早川方近くの八海橋に集まったうえ同人方に向うことを定め、このことを吉岡にも連絡した。被告人ら及び吉岡は二四日夜一〇時一七分頃相前後して八海橋に集まって早川方に向い、途中阿藤が「早川夫妻が起きた場合には殺して夫婦喧嘩にみせかけ、事件にせん方がよい。」などと話して他の被告人ら及び吉岡にもそのことを納得させ、同夜一〇時三〇分過ぎ頃から一一時前後の間前記早川方屋内で、先ず吉岡が阿藤から受け取った長斧(証第四号)を持ち台所を経て寝室に接近し襖をあけた途端、その襖の陰に寝ていた惣兵衛から誰何されためらっているに際し、阿藤が「そんなことで詰まるか。」と吉岡から長斧を取りあげ、半ば起きがけの姿勢になっていた惣兵衛の頭部を右斧で殴りつけた。その際惣兵衛の反対側に寝ていた妻ヒサが「盗人」と叫んで布団から這い出し逃げ出そうとするところを吉岡が飛びついて取り押え、手で口や喉を押えつけ、阿藤及び同被告人に次いで惣兵衛を前記斧で殴った稲田が吉岡に替わりヒサを押えて喉を締めつけ、その間吉岡・松崎の順に右斧で惣兵衛を殴りつけ、因って惣兵衛(当時六四年)を頭蓋骨々折・大脳挫滅・前頭蓋底骨々折により、ヒサ(当時六四年)を前頸部搾扼による窒息のためそれぞれその場で即死させた。そののち、阿藤・吉岡・稲田が寝室内を物色し、吉岡が箪笥の引き出しから現金約一八、〇〇〇円余を取り出し強取したものである。

(二) 証拠の標目。

右の事実は、前記第二の一ないし八(三)に各説示の判断を総合してこれを認定するが、これら積極認定の資に供した主な証拠の標目は次のとおりである。

一、一審一〇回公判調書中証人中山宇一の供述記載。

一、一審九回公判調書中証人松本正寅の供述記載。

一、一審証人中山宇一、同加藤スミ子・同清力用蔵・同三好等の各尋問調書。

一、一次控訴審証人中山宇一・同清力用蔵・同岡本軍一の各尋問調書。

一、二次控訴審六四回・六五回各公判調書中証人木下六子の供述記載。

一、二次控訴審五三回。・五八回・六〇回各公判調書中証人樋口豊の供述記載。

一、二次控訴審四五回公判調書中証人早川イネの供述記載。

一、二次控訴審三五回公判調書中証人新庄好夫の供述記載。

一、二次控訴審四一回公判調書中証人加藤スミ子の供述記載。

一、二次控訴審二一回・二七回各公判調書中地家英夫の供述記載。

一、二次控訴審二三回公判調書中証人清力用蔵の供述記載。

一、二次控訴審四六回公判調書中証人吉岡渉の供述記載。

一、二次控訴審四八回・五二回各公判調書中証人松本正寅の供述記載。

一、二次控訴審六一回公判調書中証人香川卓二の供述記載。

一、二次控訴審五〇回公判調書中証人金玉炫の供述記載。

一、二次控訴審六回公判調書中証人藤田千里の供述記載。

一、二次控訴審四九回公判調書中証人小野敏の供述記載。

一、二次控訴審四八回公判調書中証人鶴崎章の供述記載。

一、二次控訴審証人早川サト・同中山宇一・同新庄好夫・同新庄智恵子・同土手定人・同新庄サツヨ・同新庄藤一・同吉岡隆夫・同松本正寅の各尋問調書。

一、当審証人岩井武雄・同木下六子・同山崎博・同上田節夫・同樋口豊・同小泉玄夫・同加藤武雄・同加藤スミ子・同吉岡渉・同八田ミナ・同八田茂美・同西ヨシヱ・同助政アイ・同稲田清一・同三好等・同松本正寅・同吉岡隆夫・同伊藤貞之・同中原稔・同上野博・同桑島直樹・同児玉静人・同高橋正己の当公判廷での各供述。

一、当審証人岩井武雄・同中山宇一・同我妻直夫・同宮内義之介・同額田巌・同上野正吉の各尋問調書。

一、当審鑑定人杉本良一尋問調書。

一、裁判官の証人岩井武雄・同上田節夫各尋問調書。

一、山崎博の検察官に対する昭和三三年一二月一四日付・同月一五日付・同月一七日付各供述調書。

一、早川広美・早川武助・野地宇一・新庄藤一・中本イチ・八木初江・西村文伍・小林正二郎・平岡勇の検察官に対する各供述調書。

一、中山ツマの上申書。

一、鑑定人香川卓二・同藤田千里・同我妻直夫・同上野正吉・同宮内義之介・同桑島直樹・同三上芳雄・同武井英雄・同渡辺孚・同額田巌・同児玉静人・同小林宏志・同高橋正己の各鑑定書。

一、警察技官藤田千里の昭和二六年二月一四日付鑑定書。

一、警察技官上野敏典・同藤田千里の各物品検査回答書。

一、司法警察員の昭和二六年一月二六日付・同年二月五日付各検証調書。

一、検事池田修一の各検証調書。

一、一審・一次及び二次各控訴審・当審の各検証調書。

一、当審二六回・三三回各公判調書に記載の当審検証結果。

一、司法警察員の昭和二六年一一月二四日付実況見分調書。

一、検察事務官森光正之の昭和三五年一月一五日付・同市野原正人の昭和三九年九月一四日付各実況見分調書。

一、平生町長の昭和三九年五月一九日付回答書及び広島刑務所長の昭和三九年八月二六日付回答書。

一、司法警察員の各捜索差押調書。

一、司法警察員の各領置調書。

一、原田香留夫著「真実」中樋口豊の書簡部分(四二冊一六五一三丁以下にその抄本を添付。)。

一、押収の懐中電灯(証第三号)・斧(証第四号)・庖丁(証第五号)・黒紐(証第六号)・細引(証第七号)・紙片(証第八号)・板(証第一〇号)・板(証第一〇号の二)・シャツ(証第一三号)・千円札一枚(証第一六号)・占領軍払下下衣(証第一八号)・ズボン(証第一九号)・ズボン(証第二四号)・浴衣(証第二五号)・手拭(証第二六号の一)・手拭(証第二六号の二)・雑巾(証第二七号)・バール(証第三〇号)・上衣(証第三一号)・ジャンバー(証第三二号)・庖丁(証第三三号)・庖丁(証第三四号)・手拭(証第三六号)・現場写真綴謄本(証第三七号)・清水建設アパート工事人夫出面表(証第一〇一号の一)・就労点検簿(証第一〇一号の二)・大野合同運輸株式会社労務者名簿(証第一〇二号)・メモ(証第一〇三号)・出勤簿(証第一一四号)・出勤簿(証第一一五号)・宿帳(証第一一八号)・宿泊簿(証第一二〇号)・鴨居(証第一二九号)・作業衣(証第一五一号)・オーバー(証第一五四号)・下駄(証第一五六号)・板戸(証第一六四号)・板戸(証第一七〇号)・上衣(証第一七一号)・硝子戸枠(証第一七四号)・写真(証第一七五号)・電子拡大写真綴(証第一九七号)・現場写真綴(証第一九八号)・マッチ軸木(証第二〇〇号)拡大写真(証第二一〇号・第二一一号・第二一二号)・質物台帳(証第二一六号)・録音テープ(証第二一七号ないし第二二二号。これらは当審三三回・三六回各公判調書に記載の当審公判調書及び検証調書に関する訂正に関するものである。)。

一、被告人らの司法警察員に対する各第一回供述調書(但し経歴・家族関係部分及び被告人阿藤につき時刻関係部分)。

一、被告人阿藤周平・同松崎孝義の各上告趣意書(いずれも刑訴法第三二六条書面として取り調べ済。)。

一、一審ないし二次控訴審の各公判調書中被告人らの各供述記載。

一、被告人らの当公廷での各供述。

一、一審及び一次控訴審公判調書中相被告人吉岡晃の供述記載(但し一次控訴審の昭和二八年七月二二日公判調書の記載を除く。)。

一、二次控訴審各公判調書中証人吉岡晃の供述記載。

一、当審証人吉岡晃の当公廷での供述。

一、当審証人吉岡晃尋問調書。

(以上の各供述記載または各供述中、被告人ら以外の者の供述を内容とするものでいわゆる伝聞に属する供述部分を除く。)

(三) 法律の適用。

法律に照らすと、被告人らの前記各所為は刑法第六〇条・第二四〇条後段に該当するところ、右は一個の行為で二個の罪名に触れる場合であるから、同法第五四条一項前段・第一〇条に則り、いずれも犯情の重い早川惣兵衛に対する罪の刑に従い、本件の動機・態様・被害状況・被告人ら各自の共同加功の程度のほか、被告人阿藤周平は昭和二一年四月一二日徳山区裁判所で窃盗罪により懲役一年(但し、三年間執行猶予)に、昭和二三年七月八日岩国簡易裁判所で窃盗・窃盗未遂罪により懲役一年に各処せられ、昭和二四年一二月二四日頃広島刑務所から仮出獄を許されて出所後一年余にして本件を犯すに至ったもの、被告人稲田実は昭和二三年四月二六日山口地方裁判所で強盗・窃盗の各罪により懲役六年に処せられて旭川刑務所に服役していたが、昭和二五年一〇月三〇日仮出獄を許されて出所中のものであったこと、被告人久永隆一は昭和二一年一〇月八日山口地方裁判所で窃盗罪により懲役二年(但し、五年間執行猶予。昭和二一年勅令第五一二号により懲役一年六月に変更された。)に処せられ、当時執行猶予期間中のものであったことなど記録上認められる各般の事情を考慮し、所定刑中被告人阿藤周平については死刑を選択して同被告人を死刑に処し、その余の被告人らについてはいずれも無期懲役刑を選択し、同法第六六条・第七一条・第六八条二号により酌量減軽をした刑期範囲内で被告人稲田実を懲役一五年に、同松崎孝義・同久永隆一をいずれも懲役一二年に各処することとする。なお、一審以来の訴訟費用については刑事訴訟法第一八一条一項但書を各適用し被告人らにこれを負担させない。

よって主文のとおり判決する。

公判出席検察官 検事服部光行・検事山崎恒幸・検事中野博士

(裁判長裁判官 河相格治 裁判官 幸田輝治 裁判官 高橋正男)

<以下省略>

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例